【メッセージ】問題は断食ではない

2025年10月12日

(マタイ6:16-18, イザヤ58:3-8)

あなたの断食を人に見られることなく、隠れた所におられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:18)
 
◆プチ断食
 
先月、会社の定期健康診断がありました。製品調査をされるような身分自体、あまり面白いものではありませんが、なんといっても辛いのは胃透視です。例の白いバリウムというものを呑み、発泡剤も与えられます。これで「ゲップ」をしてはいけないという掟に縛られながら、横たわった台がさかんに傾く中、右へ3回回れだの、うつ伏せになれだの、軽い拷問感覚で、しばし耐えなければならないのです。それでも、以前よりはバリウムは幾らか美味しくなったので、よくなったとも思えますが。
 
大腸カメラの検査も何度かしました。これもなかなか辛いものです。下剤を浴びるほど呑んで、へろへろにになった状態での検査です。胃腸の中をからっぽにしなければならないのです。
 
これら二つの検査に共通しているのが、前日の夜から、絶飲食だということです。水かお茶であれば構わないのですが、最初に受けたときには、水もダメだと思い込み、渇きに耐えていました。
 
16:「断食するときには、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。彼らは、断食しているのが人に見えるようにと、顔を隠すしぐさをする。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
マタイ伝の「山上の説教」を読み続けています。善行や祈りに於いて、「偽善者」とイエスに呼ばわれる立場にあるのが、自分のことのように思えて哀しい気持ちになった人もいるでしょうか。私ももちろんそうです。今回のテーマは、「断食」です。「食を断つ」と書きます。ものを食べない、ということです。
 
胃透視でも大腸カメラでも、前日の夜からは、この「断食」のようなことをすることになります。いや、まさか一食や二食を抜くくらいで大袈裟に言わないでほしい、本当の「断食」とは……と仰る人もいるでしょう。確かにそうです。だから、ほんとうにささやかな「プチ断食」というくらいの認識なら、許して戴けるでしょうか。
 
◆食事の回数
 
情報は、できればご自身で調べて確認して戴きたいのですが、私の知る範囲では、江戸時代の初め頃までは、人々は一日2食の生活だったのではないか、と言われています。もちろん、農民のような肉体労働をする人は、それでは身がもたなかったでしょう。平安貴族も、食事にはカウントしていなくても、早朝に軽く口に入れるものがあったのではないかとか、夜には宴会が催されていたとか、食べる機会はそれなりにあったような話を聞きます。
 
江戸時代の武士というのは、刀は身分のためか身を守るためか、所持していたものの、日常の勤務は、事務方の公務員のようなものだったと言われています。しかし武士の矜持といったものもあったでしょう。食事は二度、と固執していたような武士がいたかもしれません。「武士は食わねど高楊枝」という諺が、そういう風景に似合うような気もします。
 
しかし、人間が生きるためには、それなりにエネルギーが必要です。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」には「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とありますが、「四合」というのは決して少ない量ではないでしょう。計算した人は、2000kcal以上ある、とも言いますから、まずまずです。
 
武士の2食にしても、2食で、3食分のカロリーを摂っていたのではないか、とも考えられます。しかし労働次第では、3食が適当なのではないか、という見方も増えてきたらしく、江戸時代も後半へ移るにつれて、3食が当たり前になっていったのではないか、と見られてもいるようです。江戸時代の大河ドラマがいま放映されていますが、昼の食事を賄うために、屋台が非常に発達したようなことも、どこかで紹介されていたようです。
 
◆朝食
 
発音の仕方がよくないのかもしれませんが、「ファーストフード」と呼ぶことによって、耳で聞く子どもたちには、誤解が蔓延している場合があります。「first」だと、「第一の食べ物」だと思い込んでしまいそうです。「ファストフード」であれば、少し違ってきたでしょう。「fast」ですから、「早い」意味になります。調理が手早く、またすぐに注文したものが入手できる、という辺りの様子を表していることになります。
 
そこまで理解すると、今度は、中学生が疑問を呈します。「朝食」の英語はどういう意味なのですか。「breakfast」は、「早く壊す」のですか、という疑問です。この「fast」は、早さを表す言葉ではありません。そこで、「breakfast」は「断食を断つ」という意味ですよ、と説明をすることになります。日本語でこう表現すると、「食を断つことを断つ」となって、なんだか不思議な言葉になってしまうことは否めませんが。
 
夜に食事をして、朝食までには、他の食事と比べて一番長い空白があります。睡眠をとりますから当然なのですが、いわば半日くらい、食事をしていないことになります。これだと「プチ断食」を上回り、「プチプチ断食」であるかもしれません。
 
ちょっと調べてみると、「早い」の「fast」と「断食」の「fast」との間には、何か関係があるようです。「fasten your seatbelt」は、「シートベルトをしっかり締める」ことを表し、「She is fast asleep」は、「彼女はしっかり眠っている」という意味です。「しっかりと」のニュアンスが「fast」には備わっているように見えます。さらに言えば、「しっかりと固定する」のようなイメージです。
 
シートベルトについては、言うまでもありません。眠る方では、眠りが浅く動き回らず、体が固定されている様子が窺えます。朝食の「断食」については、夜のしっかり固定された時刻に、食事を摂らないという意味合いを伝えているようだ、という説明があるのです。するとまた、スピードの「fast」は、固定したスピードが落ちないほどに速いということなのでしょう。一定の速さで回る自転車のタイヤは、安定した走行をもたらします。
 
◆ダイエット
 
思春期から女性は、しばしば「ダイエット」という言葉が気になることがあります。本来「ダイエット」とは食事規制のことで、何か目的があって、食事に一定の計算を施し、食べ物を考えながら摂ってゆくことを謂います。それは、運動計画を組み合わせて、体重を管理することだ、とも言えるでしょう。
 
特定の病気の治療のひとつとして、食事を制限したり選択したりする必要は、当然あるでしょう。しかし、女性が気にすることのある「ダイエット」というのは、その多くが「痩せる」ためであるように見受けられます。スポーツのために体重を増やすというような例外はありますが、概して、痩せたほうがかっこいい、という風潮の中で、「痩せた」という言葉が褒め言葉になる現実を反映しています。
 
そこで、SNSなどでちょっとした噂になると、身の危険も考えずやってみることがあり、そのために危険な薬物を手に入れたり、薬の本来の使用法を外れた呑み方をしたりと、肉体的にも社会的にも危ない目に遭うこともあるそうです。
 
薬を使わなくても、「食事を抜く」ことで痩せよう、ということは、ありがちなことでありましょう。これも行き過ぎると、「拒食症」という深刻な事態を招くこともあるわけですが、そこまでいかなくても、見えないところで体を蝕むことがあります。私は中学生の女子を前に授業をすることがあるため、何か機会があったら、そういうことを話すことがあります。「無闇に食事を抜くことはいけないよ」と。
 
成長期に栄養を欠くようなことはよくないし、それを続けることで、ただでさえ骨が脆い可能性を抱えている女性の、骨が益々弱くなることも考えられます。だから、注意を促すのです。
 
もちろん、中には「断食」は体によいことがある、という研究もあります。消化器官を休ませることで、老廃物が排出されるとか、腸内環境が改善されるとか、一定の根拠がある話もあります。くれぐれも、私のこの発言を全面的に信用して、極端なことをなさらないようにしてください。肌荒れによいとか、むくみがなくなるとか、何か根拠はあるかもしれませんが、健康法は自分の命に関わる事柄です。もしやるとすれば、医師に相談の上、その効果を学び、治療という名の下に実行するようにしてください。
 
イスラエルで「断食」がなされていたからこそ、イエスがその「断食」での「偽善」を指摘したのでしょう。しかし、それが健康目的であった、というふうには、まず考えられません。そこには、宗教的な意味があったに違いありません。
 
◆イザヤ書の断食
 
宗教的な「断食」が現在強く活かされている場面として、私たちは、イスラム教の「断食」についてよく耳にします。ニュースでよく「ラマダン」と呼ばれる月に行われます。年に約1か月ほど、太陰暦で定められた月に、日の出から日没まで飲食を断つのです。夜明け前と日没後には食事を摂って構いません。
 
「断食」は神の命ずるものですが、自ら空腹を味わうことで、弱い立場の人への共感を覚える効果もあるそうです。「自分で誰かの靴を履いてみること」という言葉は、英語の諺のようなものですが、ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でよく知られるようになりました。外から見下ろすような「同情」ではなく、「共感」の大切さを覚えることです。
 
イスラム教は、旧約聖書をベースにもっています。聖書には、そのような「断食」はあったでしょうか。旧約聖書の中に、「断食」という語は、37の節にわたり登場します。新約聖書でも、今回の3つの節を含めて16節に現れます。その多くが、「断食して祈る」というような形をとっています。旧約聖書では、この組み合わせで述べることは殆どなくなりますが、しかし背後で祈っているであろうことが推測できる場面が多いと思います。
 
今日は、イザヤ書の中に、まとまった「断食論」があるように思いましたので、引用します。イザヤ書58章です。
 
3:「なぜ、私たちが断食をしても/あなたは見てくださらず/苦行をしても、知ってくださらないのですか。」/見よ、あなたがたは断食の日に楽しみを見つけ/あなたがたのために働く者を虐げている。
4:あなたがたは争いといさかいのために/不正の拳で殴るために、断食している。/今日のように断食しているのは/自分の声を高みで響かせるためではない。
 
イスラエルの民は、断食をしているのです。それは祈りと重なるものであり、神に嘆願するものでした。ここでは「断食」と「苦行」が並べられています。神は、それでも分かってくれない、と嘆いています。神はお見通しなのです。おまえたちは、断食をしていると言いながら、楽しいことをしているではないか。不条理に虐げている人たちがいるではないか。だから、イスラエルの「断食」とやらは、自分を誇るためであり、神の前に正しい行いであるわけではない、というのです。
 
5:このようなものが私の選ぶ断食/苦行の日であろうか。/葦のようにその頭を垂れ/粗布を敷き、灰をまくことなのか。/これを、あなたは断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。
 
当然です。こういうのは、神の求める「断食」とは違います。ただ見かけだけ頭を下げ、灰をかぶったところで、魂はその姿とは違うではないか。これは、イエスが「偽善者」と呼ぶような姿、そのものではないでしょうか。
 
6:私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。
7:飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか。
 
イザヤは、神の求める「断食」とは何かを示します。神の正義を以て、愛を実現することへ、断食の目的を置くのです。ああ私は断食をしています、と恰好つけることではないのだ、とする点では、本当にイエスの指摘とつながるものがあると思います。こんな、聞いていて苦しいことばかりが並びましたが、イザヤの輝かしい解決の希望でここを結びましょう。

8:その時、曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。/あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
 
◆断食は何のために
 
イエスは、「偽善者」という言葉を出しながら、ここまで3つの信仰の姿勢を問題に挙げてきました。先ずは「善行」でした。「施し」という行為を取り出して、それが人から見て「いいことをしている、さすが」とでも言われたいためにわざわざ目立つようにすることを、「偽善」だと一蹴しました。
 
次に、「祈り」についても「偽善」があるのだ、と言って、目立つところで祈り、「あの人は信仰深い人だ」とでも思われたい心理を暴露しました。
 
これらは、マタイ伝の記事です。マタイは別の箇所で、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ」という言葉を発します。23章ですが、なんと13,15,23,25,27,29節と繰り返され、怒濤の連続です。これだけ重ねているのですから、間違いありません。ここでの「善行」の問題も、「祈り」の問題も、「律法学者たちとファリサイ派の人々」のしていることを非難しているのです。そして、「偽善者」と突きつけているのも、間違いなく彼らのことです。
 
それが、弟子たちにとっては、反面教師になっている、と理解することもできるでしょう。
 
その流れで、当然「断食」の描写も、律法学者やファリサイ派の人々のことであるはずです。しかし、この三つ目の「断食」は、他の2つとは、少しばかり異なる一面があるような気がします。
 
それは、「断食」だけが、直接生命に関わる事柄である、ということです。「善行」はたとえしなくても、生きる命に直接影響を与えるものではありません。「祈り」も、たとえ祈ろうが祈るまいが、それで生き死にには関わらないことです。もちろん、神への信仰の故に、祈らなければ神の与える命がない、などというような霊的なことを、いま問題にしているのではありません。とにかく人間が生きるためにはどうか、ということなのです。その点、「断食」は、食べなければ命に差し支えます。
 
実際、この「断食」の規定については、イスラム教に於いても、病人や妊婦などに対しては適用しないと言われています。当たり前のことです。
 
また、他にも聖書全体の思想を考慮したときにも、「断食」には、「善行」や「祈り」とは異なる評価ができる理由があります。今度は霊的な事柄です。「善行」は、そもそも聖書全体が、励行していると見ても狂いはないでしょう。苟も善行を勧めない宗教というものは考えられません。
 
「祈り」は、凡そ神を信仰するという場面で、なしで済ますわけにはゆかないでしょう。「祈り」神との関係を築きます。信仰生活そのものを支えます。旧約聖書でも、ごく当たり前の信仰生活の要素として、特に説明もなく多くの祈りが現れます。神の許にいる者は、祈るのが当然中の当然なのです。
 
しかし、その点「断食」はどうでしょうか。「断食」をしなければ信仰生活とは言えないでしょうか。だったら、私たち現代のキリスト者の多くは、信仰していないことになりかねません。
 
尤も、韓国の教会では、この「断食」がことのほか大きく取り上げられ、「断食祈祷会」というものも、普通にあると聞きます。「断食祈祷院」なる施設もあるのだとか。韓国と日本は、その言語の特徴も似た部分が多く、顔つきも一般に似ていると見られますが、性格というか心理的な方面ではずいぶんと異なると見られています。島国と大陸の国という違いもあるでしょうが、韓国の方々が強く意見を言い、情熱的に行動するところは、日本とは異質なものを感じることが度々あります。「祈祷会」といえば、「徹夜祈祷会」も当たり前のようにあると聞いたことがあります。
 
このように、同じ律法学者やファリサイ派の人々の偽善を暴くような言い方をしているこの箇所の中でも、「断食」だけは、少し違う、特殊なことのように見えます。「断食」について指摘することが、そんなにも必要なことだったのでしょうか。まあそれも、律法学者やファリサイ派の人々がよくやっていたから、と言われたらそれまでのことなのですが。
 
◆神の報い
 
先に申しましたように、旧約聖書には37もの節にわたり「断食」の場面があり、新約聖書も16の節にそれがありました。それは、ともすれば生命に関わることでした。しかし、そこまで極端に走らなければ、これは人間の「禁欲」に於ける闘いであったと言えるかもしれません。その命懸けということについても、それくらいの姿勢で神と向き合うのだ、ということを読み取ることが必要なのかもしれません。
 
イエスは、「断食」を特別に扱っているのではなさそうです。私たちは、もっとこれら3つの「偽善者」を生みやすい行為の中に、共通点を探すことの方に意味がありそうです。イエスが3つの「偽善」を暴く場面ですが、もちろんもうすでにお気づきの方も多いだろうとは思いますが、イエスは、これら3つの行為に対して、殆ど全く同じような評価を下していたことに、いま注目致しましょう。比較対照したい部分だけを拾い上げて、並べてみます。
 
「人から褒められようと」(5:2)すれば「その報いをすでに受けている」(5:2)
「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(5:4)
 
「人に見てもらおうと」(5:5)すれば「その報いをすでに受けている」(5:5)
「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(5:6)
 
「人に見えるように」(5:16)すると「その報いをすでに受けている」(5:16)
「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(5:18)
 
こうして並べると、いまさらながらに驚くのですが、イエスは、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とばかりしか言わないのです。先々週から私たちは、イエスのこの声しか、実は聞いていなかったのです。
 
すでに報いを受けた、というのは、人間の評価を目的としていることを意味しました。人を目的にする行為は、人から報いを受けて、それで終わりだというのです。けれども、キリストの弟子たちに必要なことは、神からの報いです。
 
人間の視線は、いま見られている、ということがすぐに分かるし、その視線を意識して大袈裟に振舞うのが私たちの常ですが、神の視線というものを、私たちはあからさまには感じることがありません。明らかに神の視線がある、というふうには、人間は知ることができないのです。けれども、イエスの指摘によれば、神は隠れたところから、必ず見ておられます。神はちゃんとご存じなのです。
 
ここで私たちは、「断食」について教えを受けてきました。しかし、問題は断食ではありません。断食がどうの、というのではなく、人の視線ではなく、神の視線を知ることが問題だったのです。神は豊かな報いを用意して、あなたを見ている。それを確認するべきだったのです。
 
最後に、もう一度イザヤ書の言葉を掲げます。やっぱり私たちは、偽善かどうかということで礼拝を閉じるよりは、希望の輝きを受けて、家路に就きたいと思いませんか。それを餞としたいと願います。
 
その時、曙のようにあなたの光は輝き出し/あなたの傷は速やかに癒やされる。/あなたの義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。(イザヤ58:8)


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