制御性T細胞
2025年10月9日

制御性T細胞の発見で、ノーベル生理学・医学賞を、大阪大学特任教授の坂口志文氏が受賞することになった。「シモン」という名は、案の定、聖書に基づいて名付けられたらしい。
従来のこうした賞の内容は、説明を聞いてそれなりに概略を知ることはあっても、さほど自ら説明できるほどの知識とはならなかった。
だが今回は違った。「はたらく細胞」を見ていたからである。しかも「制御性T細胞」は、大好きな早見沙織さんが声を務めるキャラクター。クールビューティとでもいうのか、清麗な顔で静かに歩み寄っては、瞬発力鮮やかなキックで相手を一撃に倒す。それは、早見沙織さんが声を務める、SPY×FAMILYの殺し屋ヨル・フォージャーを思わせるキャラクターである。
早見さんのツイートもあり、日本中に「はたらく細胞」を絶賛する声が湧き起こった。
確かに、このマンガは優れている。楽しいギャグの要素を入れながらも、ちゃんとした知識を提供してくれる。また、血液組織のそれぞれに応じたアニメキャラが設定され、これが実によくできているのだ。
それでいても、キャラ化したが故に、学術的に認められたものばかりがそこにあるとは限らない旨、注釈が入れられている。その方が確かによいだろう。ただ、物語の展開上、用語が出てくると、一旦ストーリーを止めて、それを簡潔に説明してゆくから、実によい学習効果があるのである。
たとえば昨年末に於いても、「東大新聞編集部員がぜひ読んでほしいとおすすめする漫画作品」として、『はたらく細胞』(清水茜)を取り上げている。
アニメ化もいろいろされ、シリーズも多岐にわたる。そしてその記事は、そのときに実写版の映画として公開されたことを受けての記事だとは思うが、それ以前から、大学関係者にも、絶賛する声がよく出ていた。
映画は私も見た。よくつくられていた。アニメやマンガとは異なり、芦田愛菜扮する女子高生という「人間」が登場するオリジナルな構成だった。
血生臭い映画は私は好まないし、わざわざは見ない。だが、不思議とこの「はたらく細胞」は見る。考えてみれば、その「血」そのものの内部の出来事である。外部から入ってきた細菌を殺し、貪食するといったことに血生臭いも何もあったものではない。
そのアニメで、制御性T細胞は、ふだんからクールで、いざというときに頼りになる存在なのだが、最終回(実はその前編)のがん細胞の巻に於いては様相が異なった。がん細胞を攻撃するキラーT細胞(メモリーT細胞)とNK細胞をこてんぱんにやっつける。がん細胞を自己と認識するが故に、免疫細胞が攻撃するのを制するのである。この時、事務員服の制御性T細胞が、いかにもマッチョなキラーT細胞とNK細胞の攻撃を軽く受け止め、その後一撃で鎮めるのは、アニメならではの格好良さであった。
しかし、ふとしたことでがん細胞を守るべき対象と見なさなくなり、以後、キラーT細胞たちががん細胞と最後の決戦に挑むことになる。この物語は、実に教訓に溢れている。がん細胞の正義が、がん細胞によって語られるのだ。個体としての体というひとつの命を守るために、細胞たちが犠牲になっている。それよりも、何十兆もの細胞たちの方が自由になることの方に価値があるとは思えないか、と言うのである。
この問題は、個人が国家の犠牲になることへ、猛烈な抗議を示すものであるようにも見える。また、このがん細胞を「自己」と見なした制御性T細胞は、がん細胞に対する攻撃をすら、よしとはしなかった。それを外敵と認識するかどうか。外敵に対して過剰な防衛をすることを制御する働きが、体内にあるということは驚きでもあるだろう。敵はすべて潰せ、という命題は、必ずしも正義ではないのだ。
細胞は、それぞれのはたらきがあり、それぞれの使命がある。ひとつの細胞の考えが、全部の細胞にとり利となるわけではない。国内ファーストで他を一切敵とする原理に従って一人ひとりが自由を主張するのであって、すべては片付くのか。あるいはまた、キリストの体という全体に対して、「自己」すなわち神の国のアイデンティティとは何か、ということについても、私たちはいろいろ何かをここから学ぶことができるような気がしてならない。