人の移動
2025年10月7日

川崎市の東急田園都市線で10月5日夜に起きた事故は、丸一日電車が動かないという事態を生んだ。混乱もさることながら、とにかく帰宅しなければならない人々、翌6日に出勤しなければならない人々の苦労と疲労は如何ばかりかと思う。
ふだんは当たり前のように利用している電車ではあるが、一箇所で止まると、つながる路線すべてに影響が出る。道路を走る車は、迂回をすればなんとか目的地へ向かうことができることが多いが、線路が定まっている鉄道だと、そうはゆかない。何事もなく動いている場合には感じないが、いざこうして止まってしまうと、交通機関のありがたさというものを強く覚えるものである。
私は職場が近くない。だんだん遠くなってゆくのは、なんだろうかとも思うが、電車の中では専ら本に浸るという形で、時間を無駄にはしないように工夫している。とはいえ、困るのがこの電車が止まる事態である。経験した範囲では、大雨で止まったことがあった。いくら駅で待っても動く気配がない。近年は、インターネット情報で、運行状況が分かるが、以前はアナウンスを信じるしかないようなこともあった。だが駅員も、多くの乗客に問いかけられるなど、気の毒でもあった。
西鉄バスは、強い。バスが止まるというのは、殆ど記憶にない。そのときにも、バスを乗り継いで、ずいぶんな時間をかけて、なんとか家に辿り着いた。足元がびしょ濡れになることくらい、もはやどうということはなかった。日頃利用しないバスだが、なんとも頼もしく見えた。
「困る」という表現だと批判を受けそうだが、人身事故は天候に関係なく、予測がつかないので困る。当事者のことは、いまは触れないでおこう。あるときは、夜に帰宅しようとするその駅で、寸前に人身事故があった。駅には、赤々と点滅して見える消防車が十台くらい来ていただろうか。
このときには、駅で待った。人身事故の処理(これもなんだかイヤな言葉だ)は、1時間余りが常識である。それくらいなら、本を読んでなんとか凌げると考えた。しかし、事故から1時間過ぎても、何の変化もない。現場はホームからすぐそばだが、直接は見えない。それでいて、難航している。これはよほどの情況ではないか、と背筋が寒くなったが、その後だいぶ経って、ようやく動き始めた。どのくらいの時間を経ていたのかは記憶がない。家に帰ることができたのだけは確かだ。
関東の場合は、翌日の出勤にも影響が出たという。登山靴を履いて歩いて出勤したという会社員を、番組が取材していたが、昼過ぎにやっと会社に到着したそうだ。その人は、日頃が30分余りの通勤時間なので、なんとか歩けたであろうが、いまの私はそうはゆかない――そう思い込んでいたが、改めて計算してみると、5時間ほどあれば着くようだ。帰宅がもしそうならばとんでもないことになりそうだが、それも山道を通る距離計算だから、少し安全な道を考えるならば6時間は下らないだろう。
地震災害のときにも、帰宅困難者のことが話題に上った。今後の災害に於いても、懸念される。仕事が家の近くでなされたであろう昔とは異なり、交通機関の発達した現代では、職場が遠方になるのが当たり前だ。職場付近で暮らすことは、住居費からして無理なのだ。
人が大いに移動する社会。感染症も、そうした移動が広めるのだ、という指摘があったが、西欧では中世から、そうした移動が目立ってきたという。「人の移動」という考察テーマもあるという。それが社会をどのように変えたか、ということである。そうした時代に、民族移動があったことで、世界史は変わっていった。また、パウロは幾度も大きな旅をした。その旅が、キリスト教を拡大したのは事実である。
何故人は移動するのか。その移動は、何を前提としており、何をもたらすことになるのか。この観点は、案外いろいろな、大きな実りをもたらすことになりそうである。