御霊の実

2025年10月6日

正にいま世界に高まっている不安というものに対して、楔を打ち込むような説教が届いた。
 
宣教師とお呼びしてよいのかどうか分からないが、牧師という肩書きをもっているわけではない。プラクティショナーという呼び方がなされることがある。「実践者」というような立場であるのだろうが、今回の説教者は、世界を舞台に働くアメリカ人である。英語で短いフレーズを語る横で、通訳者が日本語で訳す。英語そのものも、ゆったりと、聞きやすい発音で語られるため、私のような者でも概ね伝わるようなメッセージであった。
 
さて、そこから受け取った何球かのボールについて、触れてみようと思う。
 
まず、世界の世相とでもいうのか、時代の危機感について掲げることからそれは始まった。「自国主義」や「二極化」などの問題を挙げ、最初に挙げたように、世界に不安が高まっていることを指し示した。若者は意味を探しているが、情報環境は、リテラシーの定まらないままに、誤った方向に一気に走って行く危険を隠しもっている。もちろん、それは若者に限らない。いい大人が、ちょっとしたことで選挙という現代では絶対的な権威をもつ方法に於いて、簡単に流されていってしまいもするのだ。
 
社会はバラバラになってゆく。それは必ずしも悪いことではないかもしれない。かつては無理にでも統率されて、一つの思想や宗教、教育観を信奉しなければ生きてゆけなかったこともあったのを思うと、様々な意見を表明できることは、まだよいことなのかもしれないというわけだ。思想統制された国は今でもある。それを良いと評価することは、さすがにできないであろう。それを「多様性」という言葉が象徴している。
 
だが、その多様性なるものが、個人の中で生じているとしたらどうだろうか。自分の中で、こういう顔をしなければならない、でも本当はこういう気持ちだ、そうした「分断」が強いられる日々で、果たして私たちは健康でいられるだろうか。
 
しかし説教者は、この荒れ野のような心の状態を、私たちがここからイエス・キリストの姿に変えられてゆく途上なのだ、という明るい希望の角度から説くこともした。これは、世界へ向けてのメッセージではない。信じる者たち、会衆へ向けてのメッセージである。このように、教会は、信徒のためのメッセージと、世界のためのメッセージと、明確に区別してよいと思う。また、そうでなければ、なかなか真実の言葉を告げることはできないであろう。それは、二心になる、ということとは違う。摘みの指摘と救いの福音とは、別のことではなくて、同じひとつのことの両面のようなものだからである。
 
今日開かれた聖書箇所は、ガラテヤ書5:22-25である。いわゆる「御霊の実」と呼ばれるもので、聖書協会共同訳では、「霊の結ぶ実」と訳されているものである。具体的には、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の九つをいう。パウロが、思いつくままに挙げたのか、綿密に計算して並べたのか、それとも必然的なイメージの連想がもたらしたものか、それは私には分からない。ただ、「私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか」という提言を、いまここで私たちにも投げかけられることを思い、それを励ましとして、ここから私たちは生かされて出てゆくのだ、という説教のもたらす命が、最後まで溢れていたことは確かである。
 
ヘンリ・ナウエンのエピソードや、最後に挙げた自身の父親のエピソードなど、心に響く実例が幾つも語られたが、それらをここでは詳細に扱うことはしない。
 
こうした御霊の実は、人間自らの努力によって達成されるのではない。だから、神から与えられる「賜物」がそれを形容してよいだろう。英語ではこれを「ギフト」という言い方で告げていた。面白いもので、教室で子どもたちに、日本語の意味が伝わらないときが良くあるが、それをカタカナ英語にすると、皆が納得する、という場面を毎日のように経験している。その「場面」くらいなら通じるが、「シーン」だというともっとよく伝わる。イカの外套膜の「外套」はもう中学生でも壊滅である。しかし「コート」だと教えると皆が納得する。さて、この「ギフト」はどうだろうか。近年は、余りにも突出した特殊な才能の持ち主(ギフテッド)について、この語が使われることがあるが、正にそれは「天賦の才能」である。
 
ところが、パウロがこの御霊の「実」と言うとき、それは単数形を使っている。実は単数でありながら、先の九つを挙げているのである。つまり、あの九つは、別々の実が並んでいるのではない、ということである。それら九つは、一人の人格の中に、分断することなく与えられている、ということではあるまいか。説教者はこのことを、しきりに、「イエスの中に根を張ること」あるいは「イエスに根ざすこと」というイメージを打ち出して伝えようとしていた。
 
次に説教者が強調したのは、「ストレンジャー」という語であった。ヘブライ書の「旅人をもてなす」という言葉遣いの中に、「ストレンジャー」に匹敵する意味があることを取り出す。それは時に「敵」である。少なくとも「違和感を覚える人」である。そのストレンジャーと友になれ、否愛せ、というのが新約聖書の世界の掟となる。実は、『よそ者/ストレンジャーの社会学』という本が読みたくて、しかし少々高価であることと、自分の専門ではないことで、ずっと「あとで買う」リストの中に入ったままである、という事情がある。いまや、グローバルな人の動きがある中で、ストレンジャー抜きでは社会が考えられなくなってきている。「誰もがストレンジャーとして共生・共存する社会の構成に向けて多くの示唆を与える一冊」という売り文句があるが、読んでいないその本のことを、今日思い出した。
 
説教者は、このストレンジャーを愛する愛があるべきだ、とし、教会とはそれが実践されるスペースだ、と告げた。心に残った。
 
その「ストレンジャー」には、たとえば障害を負った人や、何らかの事情で心を閉ざしている人も含まれるであろうか。特別な立場にいなくても、私たちの誰もが、そのようであり得る、というのが私の感覚である。孤独や劣等感に苛まれるというのも誰にでもあることだし、そしてクリスチャンの場合、その信仰告白だけで、この世の社会からは、「ストレンジャー」であるに違いないのだ。否、「ストレンジャー」でないクリスチャンがいたとしたら、それは世に順応してしまっており、信仰を生きているのではないのかもしれないのではないだろうか。
 
こうして私は気づかされる。最初に挙げた世界の問題点、「分断」の本質は、互いに相手を「ストレンジャー」だと見ていることに他ならないのではないか。人間が社会的な存在として出会う場面に於いては、この問題は否応なく降りかかってくる。国家や民族といった大きなレベルではもちろんだが、教会内でも大いにあり得る。もしこぢんまりとまとまった良い教会があったとしても、キリスト教会を広く見れば、教派や教団、組織毎に、どれほどの分断があるか知れない。そして互いに、ストレンジャー呼ばわりを心の中でするほどに、隔てられているのである。
 
だが、イエス・キリストは隔ての壁を取り払う。その十字架が、分断した神と人との境界を縦に貫き破ってつながりをもたせたように、人と人、社会と社会、国と国との分断の境界を、分け隔て無い関係へとつなぎとめることができるはずなのである。
 
説教者は「聴くこと」の大切さを丁寧に説き明かし、そこからひとつにされてゆくことを、体験を交えて語った。そしてこの教会に於いてはどうかというと、教会と世の中との関係がひとつの分断にあることを想定しているように見えた。有り体に言えば、「聖と俗」である。「聖」とは、気取った自慢めいたものではなく、世とは「分離」されたものである、という意味である。だから、ある意味でそこに「分断」があることは、適切なのだ。そして、その分けられて「聖」となった教会へ、人々を招き入れることが必要な働きなのだ、というわけである。
 
そのとき、「御霊の実」が意識されるとよい。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という、一つであるものとしてつながっている実は、個人が自己満足してほくそ笑むためのものではない。神の許へ、救いの礎へ、魂を集めるためであるのではないか。神の国の実現のために、それらの「実」は力を発揮することだろう。「御国を来たらせた前」という祈りは、まさにそれらの実によって結実するのだ。キリスト者は、自分の努力によってそれを達成するのではない。達成しようと焦る必要はない。ただ、静かに御霊の実を、平和の爆弾として仕掛けたいものである。
 
キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。(ガラテヤ5:24-25)
 
ここに私たちは、ガラテヤ書の中に燦然と輝く、命の奥義を思い起こす。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(2:20) ここから、「霊によって生きている」という、パウロのさりげない言葉に命が吹き込まれる。こうして、説教は信ずる者たちへ、特別な福音を今日ももたらすのである。私たちキリスト者一人ひとりが、この暗い世界に光である方を指し示し、神と人との間はもう分断されず結ばれたのだ、という喜びの声を届ける使命を帯びて、ここから歩み出すために。そして、相手から見ればストレンジャーである私たちと、共に生きるその相手とが、深い意味での和解を果たす道を見出すために。



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