【メッセージ】このように祈れ

2025年10月5日

(マタイ6:5-15, ダニエル9:9)

だから、こう祈りなさい。(マタイ6:9)
 
◆偽善者の問題

前回は、「偽善者」という言葉を中心に掲げました。「善行」に関して、偽善者の態度を、どこかユーモアを含めて示していました。それは「揶揄」と取られても仕方がないほど、滑稽な描写のようにも見えました。
 
その次が「祈り」についての「偽善者」はどのようであるか、ということでした。前回も、この点には幾らか触れていました。このどちらの場合でも、「人から褒められようと」(2)「人に見てもらおうと」(5)するところに偽善がある、とするものでした。
 
但し、それがわざとらしい演技であるのか、自ら善いと確信してやっているのか、そこをどちらかに決めることは難しい、と考えました。というのは、律法学者やファリサイ派の人々と言っても一括りにできるものではなく、そのどちらのタイプもいたのではないか、と思われるからでした。
 
6:あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 
偽善的な祈りを脱出するには、「奥の部屋」で「隠れた所」に神を覚える祈りが求められるのだ、という道が必要です。ここに、祈りの神秘的な要素がある、と見る人もたくさんいます。祈りの極意はここにある、と説く人もいます。それもよいのですが、ここでイエスは、人に見せる善行から、自分のもうひとつの手にすら知らせるなという次元へ映るその新しい福音と同じように、人の前で見せるために祈るのではなく、自分と神とだけのレベルで祈るべきだ、としているように思えます。いまはそのように見ておきます。
 
「偽善」という訳語は、いかにも「偽り」であることが強調されているように見えますが、原語では、仮面をつけることを意味し、古来演劇はそういうものである、ということも私たちは理解しました。分かりやすい役柄の表示のために、仮面をつけて演ずるのでしたが、そのような「演技」で「善行」や「祈り」をするのは、確かに非常に悪質なのかもしれません。
 
それでも、実はそれが演技であることに気づいていないで、本気でそう信じている場合についても、私たちは考慮すべきではないか。そのようなスタンスで、私はいまこのイエスの言葉に向き合っています。それはある意味で、子どものように無邪気でいることです。できればその無邪気さが、神の意に適うものとしてこの身に起こるように、と願わざるを得ません。
 
◆主の祈り
 
8:彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
 
「偽善」や「演技」から離れるべきだ。イエスがそのことを教えるために、私たちに必要なものを神がすでに知っている、ということを告げました。そうです。祈りの偽善の問題は、ここから様相を変えるのです。神に何かを求めるために祈るようなことは不要である。神に対してなんだかんだと説明をすることはない……。
 
9:だから、こう祈りなさい。
 
こうして、有名ないわゆる「主の祈り」が提示されます。教会では礼拝のプログラムとして毎週唱えられているところもたくさんあります。使徒信条や、中には十戒を唱えるところもありますが、主の祈りは尤もポピュラーでありましょう。なにせイエス自身が「こう祈りなさい」と指導したのですから、そう祈るしかないわけです。
 
私はこのメッセージの場で、2024年の5月末から7月にかけて、この「主の祈り」を少しずつ取り上げて、黙想のように、お話ししてきました。いま、それを再現することはできません。関心をもたれた方は、お手数ですが、過去のメッセージをお訪ねください。
 
「主の祈り」には、マタイ伝とルカ伝とに、似たものが掲載されています。教会の礼拝で用いるのは、マタイ伝の方です。ただ、礼拝で唱えられている「主の祈り」は、マタイ伝の末尾に、明らかにフレーズを加えた形のものを公式に用いています。「国と力と栄えとは、とこしえに汝の者なればなり。アーメン」というものです。
 
その由来は、必ずしも明確ではないようですが、教会の礼拝のプログラムとして用いるときに、「祈り」のスタイルの言うなれば「締め括り」のようなものとして、加えられたのではないか、と推測している人がいます。旧約聖書にダビデの作とされる詩が多々ありますが、その中には、このように神を称える終わり方をしているものがあるようですから、次第に分かりやすい「祈り」の形になっていったのではないか、と思われます。
 
確かに、「悪からお救いください」で終わる祈りは、どこか唐突であるような気もします。そして教会で加えられてからは、逆に、新約聖書のマタイ伝の写本の中に、「国と力と栄えとは、とこしえに汝の者なればなり。アーメン」と付け加えることもあったのです。しかし、聖書の文献的な研究からは、少なくとも最初のマタイ伝にはそれがなかったと考えられており、そのため私たちがいま手にするマタイ伝には、その部分が正式なマタイ伝としては組み入れられていないのが普通です。
 
私は、墓前で手を合わせることを避けはしますが、神への祈りは献げます。そのとき、この「主の祈り」を心の中で祈ります。亡くなった人へというよりも、イエスの言葉を直にそこにもたらしたいと思うのです。それは、愛した猫の眠る場所に於いても、同様です。
 
◆主の祈りは何のために
 
さあ、イエスは「主の祈り」の言葉を弟子たちに教えました。マタイが福音書に記したことで、構成の信徒も、すべて同様にイエスが教えたという祈りを知ることができました。教会で共に声を合わせて祈るのに、最適な姿がここに現れました。
 
ある意味で、これはマタイが伝えたかった記録であった、と見なすこともできようか思います。
 
ルカ伝の方にも、これに匹敵する祈りを、イエスが弟子たちに教えています。特徴的なのは、マタイ伝のものよりも短いことと、祈りを教えた背景あるいは動機というものが、全く違うことです。
 
短いせいか、元来この短い方が原版であって、マタイはそれを長く伸ばしたのではないか、とよく言われています。それぞれのグループでの、祈りに対する解釈の違いがあるのかもしれません。こういう謎は、文献学者の情熱を掻き立てるようで、謎解きの話題には上ってきがちなのですが、たぶん福音書それ自体、そうした謎の文献などとして読まれたくはないのだろう、と思いますから、「ふーん」というくらいで私は眺めることにしています。
 
いえ、研究自体、頼もしく思っているのですよ。そのために、たくさん教えられることがあります。でも、マタイもルカも、書いたからには「信仰」の目で読んでほしかったことは確かだろう、と思っていますので、その気持ちを汲んで私も読みたい、と考えているだけのことなのです。伝えたいのは、イエスがキリストである、ということであるのだ、と。
 
では、マタイは何を伝えようとしていたのでしょうか。そのためには、この「主の祈り」を示した後の部分に目を移す必要があろうかと思います。大事なものを紹介した後には、その大事な点を指摘してまとめるのは一つのセオリーです。
 
14:もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。
15:しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
 
これで、記事のまとまりは終わっています。ここが、まとめなのです。だとすれば、「主の祈り」の主眼は、「赦し」にあったことは明白です。イエスは「だから、こう祈りなさい」と言って「主の祈り」を示した後、「赦し」で締め括っています。マタイ伝は、「主の祈り」は「赦し」の問題なのだ、と念を押しているのです。
 
他方ルカ伝では、「私たちにも祈りを教えてください」(11:1)と弟子の一人がイエスに尋ね、そのリクエストにイエスが応えた、という形で書かれています。特にまとめもありません。その点、マタイ伝は、意図が十分推測できるように思うのです。
 
◆このように
 
ただ、少しばかり気になるところがあります。それは、「主の祈り」を置く、一歩手前の部分です。プールならば、さあ飛び込むぞと構えたような場面です。
 
ルカ伝では、その祈りを示すときに、イエスが「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と言ってから、「祈り」の言葉を言ったと訳されています。とてもシンプルです。しかし原文には、「こう」という語がありません。「祈るときには、言え」と書かれ、その後に「祈り」の文が置かれているのです。
 
マタイ伝では、「だから、こう祈りなさい」と訳された文に続いて、「祈り」の言葉が置かれていました。こちらは、「こう」という語があります。原文の語としては、「このように・それゆえに・いのれ・あなたがたは」の四語です。ギリシア語では、「あなたがたは」と主語を置く必要はないのですが、わざわざその語を見せたのは、一般的には強調したのだ、と理解できます。それはそうと、ここには確かに「こう」と訳された語があるわけです。
 
その語は、「そのように」というふうに軽く示す様子が自然です。英語であれば「so」が一番近い語であるのでしょうが、意味を確定させるために、ここではよく「in this way」と訳されているようです。
 
ともかく、翻訳の問題でもあるのですが、「こう」祈れ、というのと、「このように」祈れ、というのは微妙に違います。「こう」と訳出するところが問題ですが、それでも、次の通りにやれ、という意味に受け取るのが普通です。それと似たものを自分でアレンジせよ、という指示ではなく、言われた通りに、という感覚です。事実ルカ伝では、表記の上ではそのように見えます。
 
他方、マタイ伝の「こう」はどうでしょうか。その語ははっきり書いてあるのでした。しかも、「このように」の意味合いが強い言葉でした。ここでも「このように」であるとして、触れてゆきます。この言い方は、私には、全く同じようにやれ、というふうには聞こえません。お手本を見せてやるからそれを真似してごらん、但し結局それは自分でやるんだよ、というときに、「このように」という意味の言葉を使うように思うのです。「祈り」の場合、この言葉で必ず祈れ、のようには感じないのです。
 
ルカ伝の場合には、弟子たちに問われて、祈りを教えてくれ、と迫られた応えとして、イエスは教えました。だから、先生が言った通りに言ってごらん、のようなふうに思えます。マタイ伝では、イエスがとにかく偽善者のようにするな、という流れから「祈り」についても言及したのでした。偽善者でない祈りとは何か。特に、私たちが見たように、「赦し」を祈るとはどういうことか、イエス自らが率先してお手本を示そうとしたのは確かですが、先生の言葉をそのまま暗誦しなさい、とは違い、先生がやるその意味を学び取り、皆さんがそれぞれにやってみましょう、というように思えてならないのです。
 
◆主の祈りのこころ
 
ただその言葉を暗誦して唱えればよい、ということではない。私には、そのように聞こえました。「このように」とは、しかし「どのように」なのでしょうか。イエスの示したお手本から、私たちは「祈り」の中に、何を学び取ればよいのでしょうか。くどくならない程度に、いま私が感じたままに、ひとつの例を挙げてみることにします。たぶん皆さんは、それとは違う捉え方をなさるだろうと思います。私などより、もっと広くて深い感じ方をなさることと期待していますので、どうか反面教師として、冷ややかに眺めて戴ければ、それで結構だと考えています。
 
「天におられる私たちの父よ」――私は、聖書のただひとりの神に向かって呼びかけます。ほかに神はないのです。
 
「御名が聖とされますように」――主の名をみだりに唱えません。名は主そのものです。神を崇めます。
 
「御国が来ますように」――あなたは王です。あなたが全世界を治めるお方であることを信じます。そして、その時が必ずくることをも信じています。そのために、私にきっと役割が与えられているであろうことも、弁えています。
 
「御心が行われますように/天におけるように地の上にも」――神の国はあなたの支配するところです。どうかあなたが聖書で告げていることが、この世界でも実現することを望みます。
 
「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」――実はここは解釈が難しいとされています。この訳語の意味でよいのかどうかさえ、いまなお曖昧なのです。そこで、暫定的にですが、今日自分が生かされていることを感謝し、私の命をどうか支えてくださるように、と神に生かされる自分を意識する場面だとして受け止めておくことにします。
 
「私たちの負い目をお赦しください」――自分は罪人です。どうか傲慢にならないように守ってください。赦しは、イエス・キリストに於いてすでに成就しています。それでも、人に対して悪を為したことを認めないわけにはゆきません。
 
「私たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」――そうです。赦してください、と願うより先に、自分がひとを赦すことから始めなければなりません。誰かに怒りを抱いていたら、自ら和解を求めることをしてでも、関係の改善に努めるのです。そのために、イエス・キリストの十字架の赦しを、いつも目の前に置きます。
 
「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください」――悪魔に支配されないように、神よ助けてください。悪については、人の力では太刀打ちできませんから、あなたの力に縋ります。
 
「祈り」は、神に願うことだけを謂うのではありません。神とのつながりがあるところにこそ成り立つ、神との対話のようなものです。神と向き合っているからこそ成り立つ、魂の交流のようなものです。そのときに必要なエッセンスが、こうして見ると「主の祈り」の中に、よく鏤められていることに気づかされます。
 
◆祈りと偽善
 
マタイ伝でこの「主の祈り」は、さあそれを教えよう、と主目的のように準備がなされていたというよりも、人の「偽善」を暴く中で、「祈り」に言及したときに、イエスがひとつのモデルのように教えたものだった。いま私は、そのような角度から、「主の祈り」について捉えようとしてきました。
 
そしてここで、この「主の祈り」が、唱えるべき「祈り」であるというよりも、ひとつのモデルであるかのように、受け止める道を実験してみました。神と自分との関係をベースにして、「赦し」を基調とした生き方、考え方というものが求められているものとして、捉えてみようとしました。
 
「赦し」を主眼とするというこの祈りに於いては、「罪」というものの強い自覚が必要です。マタイ伝ではそれを「負い目」と呼び、「負債」や「借金」という実務レベルで用いるような言葉を以て示していますが、「罪」をより重視するルカ伝では、はっきりと「私たちの罪をお赦しください」(ルカ11:4)という言い方もしています。
 
もしも、こんな考えの人がいたとします。「信仰というのはよく分からないし、自分の罪もよく分からない。でも、イエスが教えたこの祈りさえ日々唱えていれば、立派なクリスチャンだと言ってよいのだ。牧師にでもなれるぞ。」
 
おかしいとは思いませんか。この「主の祈り」は、そういうことのためにあるのではない、と、多くの心ある方はお思いになるはずです。そして、ここではっきり申し上げたいと思いますが、このような考えの人こそ、「偽善者」ではありませんか。「祈り」に於ける「偽善」を絵に描いたような発言だと、気づかれるだろうと思います。
 
「このように祈りなさい」を「こう言え」と思い込み、この文言を唱えていればクリスチャンだ、と認め合うようなところに、この「偽善」か入り込みます。「祈り」のエッセンスである「赦し」とその背景にある「罪」でさえも、唱える文句でしかないことにしてしまうような――差し支えがありますから仏教の言葉は用いませんが――「呪文」扱いをするとすれば、イエスが善行について揶揄半分に説いた「偽善者」が、神と人との間の関係の中にさえ紛れ込んでしまい、もはや改善の仕様もないほどに、霊を蝕んでしまうことにならないでしょうか。私はそこを、問いたかった。
 
「主の祈り」を、礼拝のプログラムで唱えることを批判しているのではありません。もしそれが毎週お決まりのルーチンワークになってしまい、「祈り」ではなくなってしまっていたとしたら、それは「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ること」になる。そのように、私には見えてしまう、というわけです。
 
6:あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 
これはそれぞれの方が、霊的に捉えてくださればよいと思います。機械的に呪文のように唱えることから離れた、自分の魂の奥底をえぐるように、自分の霊で祈ることが求められている。私は、そのように受け止めることができると思いました。「隠れた所」とは、私の中の魂の根柢です。うわべの口先ではない、自分でこの「主の祈り」の言葉をさえさらに深めたような格好で潜っていった、魂の根柢です。
 
まして、神に何かを願い求めるばかりのような、御利益宗教の真似をする必要もありません。「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だと釘を刺すのは、「祈り」というものはそんなものではないところに本質がある、と言っていることのような気がします。
 
◆赦し
 
「赦し」をあなたの中での中核に置いて、このように、しかも自分に照らし合わせて自分の言葉で、自分の信仰で祈りなさい。「主の祈り」の中から、私はそうした声を聴きました。このイエス・キリストに、私は赦されたことがあります。確かにあの日、赦されました。自分の罪に頭をハンマーで殴られたようなショックを覚え、惨めな姿でずるずると十字架の前に引きずられていったとき、見上げた十字架の上のイエスに、「赦す」という言葉を告げられたのです。
 
私は、神と出会い、赦されました。
 
旧約聖書のダニエル書という、神秘的な書の中に、預言者ダニエルが、荒廃したエルサレムを、イスラエルの罪のためだとして、悔い改めて赦しを神に乞う祈りがあります。恐らくエレミヤの預言を知り、イスラエルが回復する希望があることを知ったダニエルは、罪の悔い改めを告白し、主の赦しを求めます。ダニエルは、自分自身の罪も、そこに意識して祈っています。この祈りに応えて、天使ガブリエルが飛んできて、神からのメッセージを伝えることになるのですが、ともかくここには、「主の祈り」の本質的なところがよく含まれているように思えるのです。
 
私たちが神に逆らったにもかかわらず、憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。(ダニエル9:9)
 
この一句だけでも、今日持ち帰って戴きたいものです。神は赦す神です。その赦しによって、自分は生かされているのです。イエスは他のところで、「私があなた方を愛したように」というような言葉を弟子たちに投げかけますが、私にはそれが、「私があなたがたを赦したように」というように聞こえて仕方がありません。
 
罪を他人事のようにしているわけには参りません。悔い改めは自分には関係がない、と考えることできません。聖書に書いてあることは自分のことではない、自分は、神の味方であるようにいつも書いてある、のように勘違いしているままでいてはなりません。
 
「主の祈り」を偶像化するような「偽善者」とならないように、私に気づかせてください。イエスのあの壮絶な赦しの情景を胸に刻み、片時も忘れることがありませんように。



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