天拝山
2025年10月1日

先日、天拝山に登った。登った、とは言っても、高々標高250メートル余りの小高い丘のような山である。福岡市の南、筑紫野市にある。妻が何かで見つけて、行ってみたい、と言ったのだ。地図で場所を調べていたら、近くに古民家カフェがあることが分かった。妻は、古民家カフェのファンである。これまでも幾つか訪ねた。それが、行きたいところの近くにあるというので、喜んでまずそこに行ってみた。とても美味しいランチを食べることができた。
さて、目指したのは、天拝山歴史自然公園。天拝公園ともいう。そこから、整備された山道を歩いて山頂まで行くことができる。軽装登山は危ない、とさかんに報道されているが、私たちは完全に軽装だった。ただ、ここはさすがに「登山」と呼ぶような道ではなく、「ハイキング」と称するくらいがちょうどよいコースではないかと思う。
それでも、歩き慣れない妻にとっては、坂道はしんどかったようだ。私も、確かに楽ではない。ただ、山はそれなりに歩いたことがある。とは言っても、よく歩いたのは小学生のときだった。道路を渡ればそこは山の麓と言えるようなところに住んでいたため、土曜日の午後などには、時々独りでそこに向かった。山の尾根に沿って歩くと、両側から吹き上げる風が実に気持ちよかった。いやいや、思えばとても危険なことだった。何かあっても誰も気づかず、助けにも来てくれないだろう。もちろん軽装である。水筒すらふつうもっていない。本人は、ただの散歩という意識でしかなかった。山頂まで行くわけではなかったが、かなり高い場所で、見下ろす風景は、子どもの私にとっては絶景だった。
さて、天拝山であるが、「一合目」「二合目」……というように、ところどころ歌碑が建っていた。天拝山は、大宰府に流された菅原道真に関わる山である。歌碑は、記されておらずとも、道真の歌であることは容易に推測できた。これが「九合目」まであることは、調べて分かっていた。「まだ……?」と立ち止まる妻を励ましながら、ゆっくり歩き続けた。
しかも、最後の九合目からは、463段の階段がある。丸木で区切った階段だが、最後にこれが控えている辺りが、また試練である。握るロープが整備されているのは有り難かった。そして100段毎に、言葉が記されている。まず「さあ今から大変」とあったが、次に200段目には「まだ・まだ」などと書いてある。最後には「山頂です。お疲れ様でした。」という札が見え、やがて見下ろす風景が現れた。
こうした指標のような札は、基本的に励みになる。私は読み通したことがないのだが、パニヤンの『天路歴程』という本は、クリスチャンの信仰の旅が描かれており、札こそ下がっていないものの、その世界やそこで出会う人が、一つひとつ区切られて物語が展開してゆく。信仰の旅は、先が見通せないにせよ、「まだ・まだ」とか「あと一息」とか、そんなコーナーがあるのかもしれない。
それは、山頂のその風景、またそこで受ける風、それを目指してきた者だけが味わえるものでもあるだろう。このために、ここまで労苦してきた。人生の中で、そのように思えることがあったとしたら、それはひとつの幸いであろう。キリスト者は、後の世でそういう気持ちを味わうことを夢見ている人々であるのかもしれない。
山頂のベンチで、軽い食事をとっている老夫婦がいた。さぞ気持ちが良かったことだろう。私たちときたら、車の中に水筒を置き忘れてきたものだから、水分すら摂れない。古民家カフェでもらったコーヒー飴が2つあるだけで、それを舐めて渇きを癒やした。酷く暑くない日でよかったが、あまり推奨できない態度である。
降りるのは、登るよりは楽であった。だが、思ったよりも長いこと歩いた気がした。逆に、登るときにはそれだけの長い道を歩いてきたのだ。よくぞ途中でへたれてしまわなかったものだ。
降りた後、駐車場のところにある「つくしちゃんカフェ」でひとよこい。ここで運命的な出会いがあったのだが、ここには敢えて記すことはしない。お近くの方でもしも天拝山にこれから登ってみよう、と思う方がいたら、何か少しでも参考になったらよいと思い、綴ったまでである。