【メッセージ】知ってか知らずか

2025年9月28日

(マタイ6:1-8, イザヤ55:9,19-20)

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1)
 
◆左手に知らせるな
 
高校生時分、ちょっとした奉仕活動の団体に属していて、街頭募金に立ったことがあります。そのためか、街頭募金活動を見ると、活動をしている側からの視点というものを意識することがあります。その後は、特に「あしなが育英会」のために学生たちが街頭に立って呼びかけているのを見ると、通り過ぎるようなことはできませんでした。近年、「あしなが育英会」の街頭募金を見ることがなくなったのは、私が街にあまり出ないからでしょうか。それとも、コロナ禍以降、そうした形ではやりにくくなったのでしょうか。
 
ほんとうにささやかな額でしかありませんが、私も寄付をすることがあります。阪神淡路大震災のとき、自分自身貧しかったのですが、同じく子育てをしている人のことを思うと、何かしたい、と少しだけですが寄付をしました。京都にいた私たちは、むしろ身近な人たちが現地に行くので、いわばその銃後を守るような立場でいたので、そのくらいしかできなかったのです。その後、日本国内外を問わず、地震災害の知らせを受けると、何か関わりをもつようにしています。オンラインでの募金ができるようになり、その気さえあれば、簡単にできるのはありがたいことです。
 
この数年間は、地域猫の世話をするボランティア団体と繋がりをもつようになりました。毎月、猫缶といくらかの額の寄付を届けています。コロナ禍に於いて、私たち夫婦が、猫たちにどれほど助けられたか、という事実によります。ただ可愛い可愛いで寄付をしているわけではありません。
 
こんなことを口にすることからお話を始めたのですが、これは実はとんでもない「悪」なのだ。そういうイエスの言葉を、今日は聞かなければなりません。寄付を自慢するようなことは、偽善極まりない、と断罪されているからです。
 
3:施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。
 
自分の左手にさえ知らせるな、というのはずいぶんと面白い表現ですが、だからなおさら、誰かに吹聴するような真似は、厳に慎まなければなりません。
 
◆善いことをするために
 
山上の説教を読み進めている私たちは、今日次の章、第6章に入りました。「次の章」と言っても、この章付けは、13世紀頃始まったと言われています。さらに節まで分けたのが、15世紀だと聞きました。聖書は長い間、いまのような数字で指し示すことができないままに、読まれ、また議論されていました。尤も、そもそも聖書という文書をじかに見ることができる立場にある人は、ほんの限られた人物であったはずです。
 
それが章と節を設けることで、聖書箇所の指摘が能率的になりました。それは必ずしも学問的認識に基づいた分け方ではなく、この辺りで分けられると見たことで分けたようです。いまとなっては適切でないと思われる分け方をした部分もありますが、伝統的にそれに従っていますし、確かに便利な方法です。
 
そのため、この6章の始まりも、5章と区切ってよいのではないか、と考えられたのでしょう。私たちも、少し話題が変わった、として見ることにします。6章は、まず「施し」と「祈り」がテーマとなります。「施し」は、ここにあるように「善行」の一つと認められます。イスラム教では特に大きく取り上げられたもので、私たちは仏教用語の「喜捨」をその役に充てています。
 
1:見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
 
善行自体に問題があるわけではないのです。他人に、自分は善いことをしていますよ、と見せびらかすような動機があってはならない、というのです。
 
3:施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。
 
これは先ほども取り上げました。印象的な表現です。他人に知らせて自慢するようなことを禁ずればよいであろうに、自分の右手がしたことを、自分の左手にさえ知らせてはならない、というのです。これはもう、自分の中でも驚異的な戒めとなるのであって、殆ど自分で、何か善いことをした、という気持ちにすらなってはならない、というようなものに聞こえます。姦淫の戒めのときに、色目を使うだけでだめだ、と言われて男たちが震え上がったのと、これは似た事態になっているように思えます。
 
だから、「寄付をしました」などと能天気に口にした私は、重罪を犯したと責められても、なんの弁解もできません。
 
◆偽善者
 
心して、もう一度イエスの言葉を聴くことにします。
 
1: 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。 2:だから、施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
いかにも滑稽です。さあ寄付をしますよ、というとき、外でラッパを僕に吹かせ、派手に知らせるのだそうだ。これではまるでマンガです。本当に、こんなことをしていたのでしょうか。何か類似のことはあったのかもしれません。やりもしないことを、このように揶揄するように突きつけることはないと思いますから。きっと聞いた弟子たちは、「あのことをオーバーに言っているのだろう」と推察できたのだと思います。
 
ここに、「偽善者」という言葉が出てきます。今日は、この言葉を真摯に受け止めたいと願っています。とはいえ、なんだか最近はあまり聞くことがないような気がします。以前は、もっと悪口のように、「おまえは偽善者だ」というようなセリフが、ドラマにもあったように記憶するのですが。
 
弟子たちには、分かったはずです。福音書の読者には、分かったはずです。この「偽善者」というのが、誰の姿なのか。目立つように施しをするのも、次に挙げるように人々の前で祈るというのも、律法学者やファリサイ派の人々のことでした。山上の説教のこの場面では、「彼ら」と暗示しますが、はっきりと律法学者やファリサイ派の人々という言い方はしません。でも、それ以外にはありません。
 
律法を正しく守って神の掟の通りに生活していると自負する彼らに対して、イエスは、真っ向から戦いを挑みます。特にマタイはそうです。マタイは、「律法」を尊重します。しかし、イエスの十字架の贖いがその律法を完成したのであって、当時支配していたユダヤ人エリートたちの「律法」の扱い方については、マタイの描くイエスが、激しく非難している様子を知ることができます。
 
同じマタイ伝の23章になると、マタイの描くイエスは、何かに取り憑かれたように、律法学者やファリサイ派の人々を徹底的に粉砕しにかかります。すでにエルサレムに入城し、恐らく律法学者やファリサイ派の人々が聞いているであろう中で、しかし弟子たちに、激しい呪いのような言葉を聞かせています。
 
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(マタイ23:27)
 
あなたがたこそ「偽善者」だ、と、山上の説教で匿名化していた者たちを、目の前に引きずり出します。さらに、こうも言います。
 
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。(マタイ23:29)
 
「災いあれ」と訳されている語は、ギリシア語の「ウーアイ」です。黙示録で、天上の鷲が、悔い改められない人々のことを嘆いて繰り返し叫ぶときの言葉です。嘆きの声のオノマトペだろうと思います。
 
◆面
 
この「偽善者」という言葉が、本来「演技」や「俳優」という意味をもつ語と深い関わりがあったことは、よく知られています。そして、古代の演劇はたいてい、「仮面」を被っていた、とも言われています。生の顔の俳優が舞台や映像の中で演ずる現代では、その人物がどのような役であるかは、物語が進展する中で嗅ぎ取ってゆくものですが、古代では、その登場人物がどのような存在であるか、一目で分かるような顔を見せる必要があったのです。
 
古代ギリシアでもそうだったというが、日本人の私たちには、もうひとつピンとこないかもしれません。しかし日本の演劇の文化にも、それは確かにありました。私たちは「能面」などと言いますが、「能」ばかりとは限りません。
 
中国から渡来した芸能は、元々「散楽」と呼ばれました。優雅な音楽として同時に伝わったのが「雅楽」と呼ばれ、宮廷芸能となっていったのに対して、「散楽」の方は、やがて「猿楽」へと発展してゆきました。これは、物真似を楽しむ傾向があったようです。しかし、より抽象的な表現を求めて舞うものとして、「田楽」と呼ばれるものが生じています。こちらは都でも受け容れられましたが、猿楽の方は、地方が中心だったそうです。
 
因みに、猿楽や田楽を見物するとき、観客は「芝」の上に座ったことから、「芝居」という言葉が生まれたとのことです。
 
猿楽を、いまでいう芸術の域にまで高めたのが、観阿弥・世阿弥父子でした。世阿弥によって、「能」と呼ばれる分野が確立し、大成したとされています。
 
日本の「能」では、その「面」もまた芸術的に高められ、いまも多くの作品が遺されています。西洋では、そのような歴史的史料として昔のものが遺っているという話は、私は聞いたことがありません。東洋には、文化的にもそうしたものが各地に遺っているようです。
 
その「面」によって、観客は、それがどういう存在で、どういう性格をしているか、を知ることができます。犯人捜しの推理ドラマでそのように表現されると困ると思いますが、キャラクターの性格を明確にする、という意味では、最近のアニメでは、当たり前のことのようになっています。昨今、キャラクター一人ひとりの髪の毛が、やたら派手になり、異なる色で描かれています。高校にあんなに髪を染めた生徒ばかりということはありえないのですが、同じような顔ばかりが登場する中で、人物を区別するため、という目的の他に、その髪の色により、その人物の性格付けが表されているのだそうです。たとえば「赤」は情熱的でエネルギッシュ、「青」は冷静で知的、「黄色」は明るく陽気(イラストレーター・小林けいこさんの解説)、といった具合です。
 
文化は、古いも新しいも、何かつながりがある、というわけでしょうか。
 
◆演じているのか
 
さて、「偽善者」は、そうした仮面を被っている、というような説明も、ここから可能になるように思えます。
 
5:また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
祈るところにまで、偽善者は登場してきました。聞いただけで噴き出しそうな情景ですが、これなど、まるで演技をしているのだ、ということがよく分かる例ではないでしょうか。正に善人の仮面を被って、信仰深く祈る人という姿を見せびらかしているのです。
 
突然ですが、Eテレに「てれび絵本」という番組があります。実のところ、私は絵本は読み聞かせることに意義を見出しており、静止した絵だからこそ、あとは子どもたちの頭の中で動かすべきだと考えていますので、絵がいくらかでも動くこの番組は、これでよいのか、という疑問をもつ者です。が、確かになかなかよくできています。
 
「パパのしごとはわるものです」も、そんな中のひとつのお話でした。パパは何の仕事をしているのだろう。ボクはある日、仕事に出るパパの後をつけます。そこは、プロレスの会場でした。覆面をしていますが、ボクには分かります。パパは、ゴキブリマスクという悪役レスラーだったのです。観客は、皆ゴキブリマスクをけなします。でもボクは……。
 
仮面をつけたパパは、ボクにとっては本当のパパではありません。ゴキブリマスクは演技であることが分かっています。でも、世間のすべての人は、パパはゴキブリマスクそのものです。
 
少し前に、若い男女の恋愛模様が、ドラマ仕立てで映され続ける番組がありました。それがわざとらしければ視聴者はつまらなく思います。リアルさが番組の命でした。しかし、それらは一定の筋書きにより成り立つドラマであって、意地悪をするヒールがいました。すると視聴者は、そのヒールに向かって、SNSで徹底的に叩き始めたのです。それも、本当に憎しみをこめて、多数が責め続けたのでした。ついにその役の人が、自ら命を絶つほどにまで……。
 
今月「羽鳥慎一モーニングショー」で紹介されていたのを偶々見たのですが、中国に李雨澤(中国では最後の字は簡体字でさんずいに又の下にキ)という俳優がいて、抗日(好日ではありません)映画でよく日本兵を演じているのだそうです。こうした映画は、何千万単位の観客を呼ぶのだそうですが、中国人の感情を掻き立てる内容になっているといいます。李雨澤さんご本人は「好日」だといい、俳優としての演技を評価する人も少なくないのですが、一般国民の中には、誹謗中傷をこの俳優にSNSで投げかける人も少なくなかったのだそうです。
 
演技にはリアルさを求めつつも、それはもはや演技ではないということにしてしまう。自分の感情を発散させるために、自分一人くらいどうということはない、という感覚で攻撃を加える。しかし当人にとっては、何万人という攻撃を一手に食らうことになるのでした。
 
演技というものは、リアルではない、というお約束があったはずです。その意味で、「面」を被ることは、お約束であることの現れでした。でも、役者としては、もしかするとそれが「役」ではないように見せることこそが、誉れであるような時代になってきたのかもしれません。タレントたちが雛壇でガヤガヤと騒ぐ番組にしても、台本や演技に基づくものであるにしても、素であるように見せることこそが、「芸」の真骨頂であるのかもしれません。
 
あるいは、素を出しているタレントも、中にはいて、それが視聴者には面白くてたまらない、ということもあるのでしょう。「確信犯」という言葉はよく誤用されていますが、自ら心底そう思って、変なことをする場合に使う言葉です。「確信犯」は演技ではありません。しかし、「確信犯」であるかのように演ずることが、いまの役者には求められているのかもしれません。
 
律法学者やファリサイ派の人々は、どちらだったのでしょう。「偽善者」とイエスが非難したその態度は、彼らにとっては「演技」の内に入っていたのでしょうか。それとも「確信犯」だったのでしょうか。
 
◆偶像
 
私はふと、イザヤ書の中に、こんな言葉を見つけました。55章です。
 
20:彼は自らの魂を救うことができず/「私の右の手にあるのは偽りではないか」/とも言わない。
 
これだけでは、何のことを言っているのか、分からないでしょう。実はこの55章というところは、「偶像」についてイザヤが、ねちねちと攻めてくるところなのです。これでもかというほどに、具体的に、偶像を造り拝むことの愚かさを描きます。あまり具体的にこれを挙げ続けるのは趣味が悪いので、かいつまんでご紹介することにします。
 
「誰が神を形づくり/何の役にも立たない偶像を鋳たのか」(10)に始まり、職人たちがどのようにしてその像をこしらえたかを細かく描写する。木を育てるところから始まるから芸が細かい。薪にするような木でしかないことを知らせ、肉を焼いたり、「ああ、暖かい、炎を感じる」(16)と言い合ったりする。残った木を神に仕立て上げ、拝むのだ。「救ってください。あなたは私の神だから」(17)などと言いながら。
 
9:偶像を形づくる者は皆空しく/彼らが慕うものは役に立たない。/彼ら自身が証人だ。/彼らは見ることもできず、知ることもできず/ただ恥じ入るだけだ。
 
結局、結論はこのように最初に書かれてあったことになります。これらの描写を見ていると、イザヤは彼らが偶像と知っているのか知らないのか、どう思っているか分かりにくいようにも感じられますが、最初に引用したところから、気づいていないことが分かります。
 
20:彼は自らの魂を救うことができず/「私の右の手にあるのは偽りではないか」/とも言わない。
 
これは偽物の神だ、などとは言わないし、気づいていないようなのです。それとも、それが神でも何でもない、ということになれば、自分の職人としての仕事がなくなるから、偽りだと分かっていても、偽りだなどとは言わない、という意味なのかもしれません。そうなると、一つ深いところで理解ができそうです。
 
律法学者やファリサイ派の人々は、どちらだったのでしょう。「偽善者」とイエスが非難したその態度は、彼らにとっては「演技」の内に入っていたのでしょうか。それとも「確信犯」だったのでしょうか。
 
私には、そのどちらのタイプも現実にいたのではないか、と考えます。そしてイエスが非難したのも、そのどちらの場合であっても拙いのだ、という角度からであったのではないか、と推測するのです。
 
ひとは、どちらにもなり得るのです。分かっていても、何かしら理由をつけてやってしまうことが。あるいは、自分がやっていることについて認識が全くないままでいることが。
 
自分は善いことをしている。そう完全に思い込んでいる場合もあるでしょう。いわゆる「確信犯」のやり方です。しかし、他人の目から見れば、それはとんでもないことだ、ということがあります。あるいは神の目から見て、間違っている、というふうに見てもよいかもしれません。自分では善かれと思ってやっていることが、実はそうではないのではないか。人の知恵は、それを確実に認識することはできません。しかし、その可能性を常に問わなければならないでしょう。
 
どちらが良いか悪いか、と考えるのは適切ではないでしょう。しかし、自分のしていることが悪いことだと分かっていながら、わざと演技をしている、というのは、私から見れば、より悪質であるような気もします。私たちが「偽善者」という言葉を使うときには、そのような感覚が伴います。「善を偽っている」という漢字の意味はそのように感じさせます。知らずに自らそれが善いと確信してやっていることについては、「偽る」という言葉を私たちは使わないからです。
 
◆祈りはどうか
 
善行と施しとは、別のことのように挙げられているように見えますが、イエスはひとつのこととしてここで挙げているのだと思います。というのは、これら二つの事例がそれぞれに挙げられていようとも、「偽善者」という言葉が、その内で一回しか使われていないからです。
 
そこへいくと、もう一度「偽善者」という言葉か使われているのは、次の、別の話題に於いてです。
 
5:「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。
 
ここで「偽善者」が再び現れます。テーマは「祈り」です。施しもそうでした。人に見せるための善行は「偽善」だとイエスは言ったのでした。そしてさらにこう続いています。
 
6:あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 
ここには、祈りの神秘的な要素がある、と見る人がたくさんいます。祈りの極意を説こうとしてここを挙げる人もいます。それもよいのですが、ここでイエスは、人に見せる善行から、自分のもうひとつの手にすら知らせるなという次元へ移るのと同じように、人の前で見せるために祈るのではなく、自分だけの問題として祈るべきだ、としている。いまはそのように見たいと願います。
 
7:祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。
8:彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
 
さらに付け加えているのは、「くどくど」ということですが、これは確かに「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)とつながるような気もします。
 
よく思うのですが、教会の礼拝での祈りには、原稿を書くタイプと、その場で指名されて祈るというタイプとがあることに気がつきました。司会者も、祈ることが事前に分かっていながら、原稿をつくらないタイプの教会もあります。どちらがよいと言いたいのではありません。
 
ただ、その場で祈る内容が新たに加わったり変化したりすることがあるから、送辞や答辞のように原稿化する必要はないかもしれない、と思います。祈りが霊のなす業であるなら、そのときの風に身を任せるがいい、というのが正直な私の感想です。もちろん、そうでない形式を悪く言うつもりはないのですが。
 
それでも、公的な祈りには、いつもこのイエスの言葉が響いてきて仕方がないのです。人に見てもらおうと祈ることと、無関係ではないからです。イエスはそこに「偽善者」という言葉を向けました。神への祈りですら、偽善となりかねない厳しさを覚えるのです。
 
この「祈り」については、次回に改めてそのことだけに的を絞ってお話しすることにします。
 
そして、神経質になりすぎないように気をつけながら、気づいていない意味での「偽善」という問題と、向き合う機会をもちたいと思います。私たちが「仮面」をつけて「演技」していることは、必ずしも「偽っている」のではない、という元来の意味に固執しながら、正に祈って求めたいと願うのです。
 
そのとき、何か強い力と共に、イエスの言葉がまた響いてくるのを待つことに致しましょう。「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)との声です。今日のところは、「偽善者」という言葉が、自分の問題だ、ということを教えられるに留まっておくことにします。



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