「学力低下」という言葉
2025年9月27日

平均寿命を数字の上で延ばす最大の方法は、乳幼児の死亡率を下げることである。医療や福祉などの整備が進まない地域では、平均寿命は計算上引き下げられることとなる。そういう社会に老人がいないわけではなく、幼くして亡くなる子が多い故に、数字が下がるのである。
学力低下を数字の上で延ばすためには、言うなれば零点を減らすことが、最大の効果を招く。なぜなら、元々高得点を取る子の数字を伸ばすことは難しい。となれば、平均点が低下しているからには、低得点層が増えている点を問題にすべきだ、ということになるだろう。
もとより、いまの教育制度の中では、文字の読み書きができない、習っていない、ということは稀であるように思われる。もちろん、障害や病気のせいで、そのようなことの難しい人たちはいるであろうし、私たちの社会が定めた「学力」というものが絶対的に正しく、それに見合わない生き方をする人が否定的に扱われるだけ、という構図は望ましくない。「学力」は、一定の枠組みの中のひとつの指標に過ぎない。それを以て人間の価値や、経済的環境が決まってしまう現実社会があるとすれば、それが問題である、とも言える。
いまは「学力低下」に焦点を絞るが、その背景に、「文章の読解」の必要のレベルが上がっていること、そしてその期待度に実情が追いつかないこと、あるいはまた追いつけないこと、そこに光を当てることも必要ではないかと思う。
元来、文字の読み書きというものは、その文明の一部のエリートだけが可能とされていた。特別な教育を受けることのできる立場にあり、養育された者たちだけが扱える技術であり、「書記」と言えるような仕事は、エリート中のエリートである場合があった。あるいは、王侯貴族の重要なブレインとして重用されていた。
言うなれば、法の運用について特別な訓練を受け、資格と能力をもつ弁護士などの法のプロのような姿をイメージしておくと、ちょうどよいのではないかと思う。
いま私たちが、文字を読み書きし、それにより高度なやりとりをしているというのは、本来万人がうまくできるような事柄ではないのではないか。
近代の人権意識や市民社会の形成は、確かに教育を隅々まで行き渡らせることに役立った。一人ひとりが考え、責任を以て行動することへの道を拓き、自己実現の機会を活かせる社会をつくってきたと思う。だがそこへ、「学力」という物差しをあてて、その基準によって何らかの上下感覚を数値化してきた、という実情が、いまの制度の背景にあるかもしれない、と危惧するのだ。そして、その数値の低いことは問題であり、引き上げねばならない、とすることが、必然的な真理であるかどうかは、もっと議論してよいのではないか、と考えるのだ。
社会が法により運営されているため、全員が六法全書を覚えなければならない、それができない人がいるのは問題だ――そのようには、誰も考えないだろう。そういうことは専門家に任せ、その専門家が信頼のおける存在となっていれば、そこまで法に深入りする必要は、万人にはない。本当は、そうした信頼がありさえすれば、多くの問題はもっと楽観視できるはずなのである。
実に高度な読解により、契約書や仕事の運用マニュアルは形成されているが、それを読みこなすことは、専門家以外には至難の業なのだ。学校が要求している技能は、その専門家の育成のためには必要かもしれないが、万人に求めて然るべきものであるかどうかは、まだまた検討の余地があるように思われる。
私もそうだ。世間の多くの大人はそうだ。ちょっとした文章の意味を読解するのが、それほど完全である訳ではない。そのことを指摘した新井紀子氏の研究は、私たちの考察の指標になり得るものと考える。
もちろん、読み書きもその子のいまの力に合わせて、ある意味でなあなあで済ませればよい、というのも暴論である。ふとしたことで勉強に目覚め、自分の隠れた力を開花させてゆく、という可能性を塞ぐことは好ましくないだろう。時折持ち出される、学校では劣等生であったエジソンやアインシュタインの例は、極端な例かもしれないが、その才能を何らかの形で認めた人が大切にしてくれた事情があるかもしれない。黒柳徹子さんもその一例であると言えるだろうか。
マスコミが報じ、また一部の見識者が警告する「学力低下」の言葉、もっと多角的に、また根柢的に、検討してよいのではないかと考えている。
なお、誤解して戴きたくないために蛇足ものを付け加える。学力をつけることを目指して、どんな子でも機会が与えられることに対して、ここで異を唱えるようなつもりは全くない、ということである。勉強ができるようになって、生まれや育ちに決定されず、才覚を活かす道が備えられることは、喜ばしいことである。
ただ、現状では、一部言葉を器用に操る者が悪意をもつことにより、その言葉を正義だと偽ることによって、他者や社会をも操るようになってゆくことがあるものだから、勉強の力だけを過信したりそれによって権威づけられたりするような価値観が社会を覆うことに、危険性を感じる、という背景を意識しておきたい、とは考えている。
平板な言い方になってしまうけれども、要するに互いに信頼し合える社会であったならば、学力云々をとやかく言う必要もなかったのではないか、とも思うのだが、この辺りをいまはうまく表現できる自信がない。