質問の大切さ

2025年9月25日

「質問はありませんか」
 
そう授業で問いかけて、「はい」と質問がくることが、殆どなくなった。口の軽い小学生の場合には、こちらがいまから説明をしようとするときに、「◯◯とは何ですか」と訊いてくることもある。流れを止めないために、ちょっと待ってね、とこちらの話を進めてから、改めて応えるようにはしている。だが、改めて「質問は」と問うと、教室は静まりかえってしまう。
 
確かに、クラスの皆の前で質問をする、というのには勇気が要るものと思われる。みんな知っていて、自分だけが分からないでいることが暴露されるかもしれない。私はこんなことはしないが、「そんな質問をするな」とか「愚問だ」とか、けなされないとも限らない。第一、大勢の前で目立って発言する、ということのハードルは、多くの生徒にとり、限りなく高いものであろう。
 
だが、そもそも何を質問してよいか分からない、ということがあるかもしれない。何をどう訊いてよいのか分からない。もっと深刻な言い方をすれば、何を質問したいかすら分からない、というのが一番本心に近い、ということもあろうというものだ。
 
自分の理解や、自分の感情を、適切に言葉にして他人に伝える。この能力が、年々下がってきているような気がしてならない。結局授業では沈黙の一途を辿り、後でテストのために復習をしながら、あれが分からない、これは何だろう、と疑問符にまみれるのである。
 
だから、生徒に時折呼びかける。「質問ができるほどに、勉強をしなさい」と。あるいはそれが抽象的であるというならば、「質問が生まれるような勉強をしなさい」の方が、少し考えやすいだろうか。
 
元より言語化するというのは、必ずしも簡単なことではない。テスト問題はよく解く子でも、何かが言いたいときに発言を促すと、やたら擬態語ばかり使って中身のない説明を始める場合がある。かつての野球の長嶋選手ほどの人であるならば、それも絵になるのであろうが、たいていの場合は、何を言っているのか伝わらないものだ。
 
疑問があったら、問うてみる。学びの場では、当然それはあることだし、あるべきだろうと思う。時に、師の側が説明不足や、誤った説明の場合があるかもしれない。教える側でも、問われてみると、自分の説明が伝わっていなかったことが分かり、ありがたいものであるし、もっとよい説明をすべきことに気づかされることがあるものだ。
 
教室の授業であれば、疑問が起これば問うことはひとつの道である。学ぶ道は、問うて答えをもらうことにより、進めるものである。しかし、教会の場合は、問うことは、さらに少なくなるのではないかと思われる。教会で道を求めている中で、教える内容に疑問が生じた場合、それはどうしてですか、と問う前に、黙って教会を去ってゆく、という方が楽だからだ。下手に問うと、よりムキになって説得されるようになるかもしれない。キリスト教会ではあまりないだろうが、宗教によっては、何かかなり強要力を伴って迫ってきたり、危害を加えたりする危険性を感じることが、あるかもしれない。あるいは、祟りがあるぞ、と精神的に脅されるようなことについては、現実に社会問題にもなった。
 
「あの人、急に教会に来なくなったね」と、信徒の間で心配に上るようなことがある。牧師が代表して電話などの連絡をとり、事情を探ることもある。ある程度話してくれればまだよい方だが、はっきりと事情を言わずに、あるいは当たり障りのない言い訳のようなことを答えて、これまでありがとうございました、とでも礼儀正しく言われれば、牧師としてもそれ以上追及はできない。要するにキリスト教が信じられないのだ、と露骨に言ってくれるようなケースは稀であろう。まして、牧師の説教がダメダメです、などとはっきり言うような人は、さらに少ないだろう。
 
これが、それなりに信徒としての歴史も長く、聖書についての知識もあり、信仰心の強い人の場合、牧師の説教がつまらないとか、牧師は救われた経験がないのでしょうとか、はっきり告げることは、あり得ることであるはずなのに、なかなか表に出てこないものである。
 
面と向かっては言いにくい場合もあるから、なにかの機会に教会への意見を書くことがあったら、そこにそういうことを書けば、一応伝わるであろう。しかし、せっかく探して得られた牧師である。教会も、特別すぐれた説教をする訳ではないが、飾りとして雇うにはちょうどよい、ということで、信仰などよりも仲良し倶楽部が好きなままに「教会」に長くいる人々は、批判の声など黙殺するようになる。せっかく問うことによって、教会が命を吹き返す機会が与えられているのに、その問いを無視することで、教会が生きる道を塞いでしまっているように、私には見える。そもそもそこは、信仰というものがそういう程度のものだったので、そういう人の集まりになってしまっていたのだろう。
 
聖書を、人間的理解で切り刻み、旧来の信仰は聖書を文献処理すれば偽りである、とでも言いたげな中では、果てしなく人間臭い組織だけが、そこに残ることになるだろう。疑問を呈すること、質問をすること、そうしたことがまるでないままに、ぬるま湯に浸り続けているのは、いまは気持ちよいが、やがてテストの日が来るときに、どうするのだろう。否、そんなテストなんか絶対に出されない、という人間的信仰があるからこそ、困ってなどいないのかもしれない。
 
それはそうとして、生徒諸君、授業の中で質問を促されたら、質問をすることができるくらいに、勉強はしてもらいたい。そのように散々問うた後で、授業直後こっそり質問をしに来るという気持ちは、分からなくもないが、舞台から降りた役者にまで、演技を求めるのは、できれば控えてほしいものだ。



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