イエスの祈り

2025年9月22日

教会にゲストが迎えられた。「主の祈り」について、午後学ぶ機会をもつためでもある。同じテーマで、礼拝説教として話してください。そういう要請の下に、この朝の説教が支度された。教会の名誉牧師としての立場の説教者であるが、いまの感覚からすると、十分若々しいお姿と、話し方である。力強いメッセージを受けることができた。
 
取り上げられたのは、ルカ伝の方にある、「主の祈り」である。こちらは、山上の説教の中でイエスが語ったとするマタイ伝とは異なるシチュエーションがある。
 
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。(ルカ11:1)
 
弟子たちがイエスに教えてほしいと願う。ここに、意味を見出すことになってゆく。が、まずは説教者は問うた。――どうして「主の祈り」と言うのでしょうか。
 
もちろん、通例、それは主イエスが教えた祈りだからだ、と答えるのが当然となっている。そこへ、説教者はもう少し掘り下げた見方をしてみたい、と提言した。主イエスが、私たちが祈れるようにしてくださった祈りではないか。あるいはまた、イエス自身が、祈ってくださっている祈りではないか。
 
説教者は、三つの点について語ると言ったが、私には何がどう三つなのか、よく分からなかった。スリーポイント説教ということをモットーにしている人が、いまなおいるが、何も三つに限定しなくて構わないけれども、項目を挙げてくださると、心に留めやすかったかもしれない、と思う。
 
しかし、なにも説教の要旨をここでつくるわけではない。私に与えられたもの、示されたものを神に向けて応えるというのが「レスポンス」の意味だ。さらにそれは、神に向けての私の「責任」でもある。神の言葉を語る説教に対して、私は応え、そして責任を担う。耳に留まった言葉、与えられた景色を、少しばかり言葉で描いてみたいと思う。
 
先ず、「祈りを教える」というこについて。説教者は、それは「神を教える」にも匹敵することを伝えた。それは、祈りをする人が、言葉を紡ぐ中で、「言葉が消えてしまう」という体験を話したことがきっかけとなって考えさせられたのだという。そして説教者自身も、その感覚は分かる、とも言った。ここが正直で、そしてまた真摯に祈っている人の証しでもあると私は感じた。
 
言葉が浮いている。何かしら、ただ言葉がそこにあるだけ。そう、祈りは、神との対話であり、神とのつながりに於ける交わりに違いなかった。だが、それが神に届いていない。というよりも、いったいその言葉は誰に向けての言葉なのか、空中を彷徨っているというわけだ。流暢で美しい言葉が、そこに流れているかもしれない。だがそれが、宛のないものであるか、甚だしい場合には、そこで礼拝を共にしている人々に向けて自分の信仰を誇示するために発されている、ということさえあり得る。イエスにしてみれば、まさに「偽善者」である。
 
弟子たちは、イエスが祈るのを見ていた。そしてそこには、父なる神との深い交わりが、びんびん伝わってきたのであろう。そのような神との交わりは、如何にして可能なのか。弟子たちは知りたいと思った。神を知りたいからこそ、「祈りを教えてください」と言ったのだ。説教者は、そういう風景を見せてくれた。
 
説教者はそれから、「父よ」という最初の呼びかけに注目した。ユダヤ教のラビたちも、祈っていた。弟子たちも、祈りといえばそういうものだと当然知っていたし、実践したであろう。だが、イエスの祈りは、その冒頭から決定的にユニークだった。「父よ」と呼ぶのは、画期的だったのである。何故ならば、自分が「神の子」であるからこそ、神を「父」と呼ぶことができるからである。
 
だから、この「父よ」という祈りの始まりは、画期的なことだったのだ。このことを説教者は、これによって私たちが、イエスと同じところに立つことができるようにしてくださった、と説いた。恐らくこの点が、二つめのポイントではなかったか、と感じている。
 
私たちは何を祈るべきだろうか。自分のために何かしてください、という祈りが、ないわけではない。「日ごとの糧」という言葉は謎が隠されているようで、私たちが日本語で捉えるほど単純ではないらしい。しかし、そうした神学的な問題を説こうとするのが説教ではない。マタイ伝とは異なり「毎日お与えください」としている意味をなんとか説明しようとするのが説教なのではない。
 
私たちは、もっと想像力に重きを置かねばならない。今日の食べ物に困っている人が、本当にいるということに。世界にも、恐らく日本国内にも、たくさんの人が、食べる物に窮しているという事実に。かといって、いまここでどうすることもできないもどかしさもある。
 
私は、一杯のコーヒーを朝飲むことを日常としている。だが、コーヒーを飲むことの贅沢は当然だが、それよりも、その一杯のコーヒーをつくるために、カップを温めたり器具などを洗ったりするために、いったい何リットルの水を消費しているか、毎日心苦しくて仕方がないのだ。だったらコーヒーを飲まなければよい、というものでもない。何をするにしても、私たちは、コップ一杯の水を求めて死線を彷徨っているような人の願いを踏みつけるようなことをしているのだ。そんなことを考えても無駄だ、とせず、その痛みを覚えながら、過ごしていくべきである。いまは、そうとしか言えない。
 
説教者は、戦争や貧困についても、私たちは視野を拡げるべきではないか、と問うた。私たちは、自己欺瞞と共に、腕組みをして、心を閉ざしていてよい、としてはならないのだ。
 
あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。(申命記15:7)
 
主の祈りは終わりに向かうところで、「私たちの罪をお赦しください」という祈りを呈する。私たちは、切実にこれを祈らなければならない。但し、ここで気づかなくてはならない。説教者は強調する。イエスのみ、これを祈る必要がない、ということに。これが恐らく三つめのポイントであっただろうと思う。このように祈れ、と祈りのエッセンスを伝える中で、その教えた先生であるイエスだけが、その祈りを自ら祈ることは決してないのだ。
 
だが、イエスはある意味で、これをイエス自ら祈るだろう。だからこそ、「祈りを教えてください」という求めに応じて、「祈るときには、こう言いなさい」と例示することができたのだ。説教者は、イエスが私たちと一緒に祈っていてくださる、と説明した。
 
これはまた、トリッキーなからくりである。「罪をお赦しください」と祈れ、とイエスが弟子たちに教える。そのイエス自身は、罪を赦してもらうという必要が完全にないお方である。そして、その罪を赦す本人が、このイエスなのである。罪を赦す力をもち、席を担うイエス自身が、罪を赦してくださいと祈れ、と教えているのである。それは正に、イエスが共に祈っているという図式を物語らないだろうか。祈りが祈願や一方的な発言ではなく、神と人との間の関係をつなぐコミュニケーションのようなものとするならば、罪を通じての一体化した構造は、イエスと私とが、私の罪を介してイエスの赦しによりつながる梯のようなものを表しているとは言えないだろうか。
 
こうなると、イエスを見つめるということだけで、この教えてもらった祈りの言葉がつくりだす時空の中へ、私たちはすっかり引き込まれているのであり、そのようにイエスに呼び寄せられて、神との関係の中に立たされていることになっている。それは私たちが祈るべき信仰の言葉であると共に、イエスの真実が保証し構築する有様を示すものとなっている。これは、洗礼者ヨハネがその弟子たちの教えたであろう祈りとは、次元が異なっている。祈る対象の神が、直々にいまこの祈りを教えているのだ。神自らが私たちと共に祈っているような、逆説的な関係を実現していることになっている。
 
機械工学を学び、エンジニアとしての経歴をもつ牧師である。説教全体が的確なプログラムにより設計され、一つひとつのネジを確実に締めてゆくような技術者が、神の言葉によりひとつの作品をつくりあげてゆくような業を垣間見たような気がした。また、その話しぶりは落ち着いた語りで、急がず、しかしてきぱきと、聴く者が考える暇を確かに与えながら、完成へと進んでゆくのだった。
 
惜しむらくは、この説教の直後、「使徒信条」を唱えるプログラムであったことだ。これだけ主の祈りについて語られてきたのだ。その感動の止まぬうちに、「主の祈り」を皆で祈るという構成にはできなかったのだろうか。その後しばらくして、では主の祈りを、というふだん通りのブログラムが消費されたが、そこがちぐはぐであったことが、少し残念だった。私は、すぐに「主の祈り」だろうという「霊の流れ」を感じていたのだが。



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