【メッセージ】悪人と敵を超えて
2025年9月21日

(マタイ5:38-48, 箴言28:18)
だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。(マタイ5:48)
◆復讐
38:「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。
39:しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
山上の説教を少しずつ共に読み始めています。「しかし、私は言っておく」というイエスの常識の逆転の言葉により、ここまでもかなりショッキングな指摘を受けてきました。他人を馬鹿と言っただけで人殺しなのだ。色目で異性を見ただけで間違いを犯したことになるのだ。誓うことは罪だ。ずいぶんと刺激のある教えです。
しかし、それらはいまひとつ精神的な部分に関わるだけに、人間としては、なんとかごまかして言い訳することもできたかもしれません。ところが今回、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ときました。具体的で生々しい表現です。被害を受けたらもっと被害を受けるようにせよ、とでも言いたげです。泣き寝入りどころの騒ぎではありません。
常識はどうでしょう。「目には目を、歯には歯を」(レビ24:20)というのは、律法にも記されている掟でした。紀元前18世紀のメソポタミア文明にて発掘された「ハンムラビ法典」の中にも、この言葉があるとされ、中東地域の文化に於いては、広く常識的な法律とされていた可能性が推測されています。
目を傷つけたら自分も目を傷つけられるべし。「同害報復」の原則は、時に残酷にも見えますが、実際には、金銭的解決が行われていた部分もあろうかと思われます。また、これを残酷だと言われたキリスト教サイドでは、目をやられたら目以上の復讐をしてはならない、というブレーキをかける法律だったのだ、などという説明もよく行われます。
現代的にはきっとそのような解釈で私たちは満足するでしょうが、私は必ずしもそれが真実だと宣伝したくはないと考えています。当時の社会の考え方や人生観や精神風土のようなものが、様々に影響を与えての規定だっただろう、というくらいに留めることにします。
「刑」を何故課すのか。法学の方面では、大きく「応報刑」と「教育刑」の考え方が提言されています。「目には目を」は、もちろん「応報刑」の考え方です。古来、ひとはそのように考えるのが自然であったのだろうと思います。そしていまでも、その意味は保たれていることでしょう。やはりハンムラビ法典の言葉はその説明に引用されることがありますが、他方、罪を犯した人が人間として改善され、あるいは更生するためには、「教育刑」という考え方を大切にするべきだと受け止められています。
日本弁護士連合会が、裁判員裁判が施行される際に、「知ってほしい刑罰のこと」と題するパンフレットを作成し、ウェブサイトで公開しています。関心がおありの方は、覗いてみてください。
◆反対の頬をも
38:「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。
これは、人々が普通に聞いて「常識」として納得している原理だといいます。当時の刑罰観は、基本的にこれでよかったのでしょう。
39:しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
そう、イエスはここでも「しかし、私は言っておく」という言葉を挟み、方向転換します。その常識のままではいけない。新しい教えはこうだ。メシアに基づく新たな神との契約は、違う原理により結ばれているのだ。そう言うのです。これがイエスの福音というものです。
一説には、最初に右の頬を打たれるというのは、相手が自分を、利き手の右を使うならば、手の甲で殴ったことになる、というのです。平手で打つよりもそちらの方が痛いでしょう。つまり、相手は自分に、屈辱を噛ました、というわけです。そうした非常に屈辱的な仕打ちを受けたときもなお、残った頬を差し出すほどに、「悪人に手向かってはならない」というのです。
確かに、暴力に見舞われたら、そして逃げ出すことができなかったら、無闇に逆らうことは、より危険かもしれません。今度は加害者の方が恐れて、さらにムキになる可能性が高まります。
福岡の作家・五木寛之に『青春の門』という名作があります。筑豊を舞台に、逞しく育つ若者・信介を描きますが、忘れられない箇所があります。堅気の者がプロのヤクザと喧嘩をすることを恐れるな、というのです。プロは、どうすれば相手が死なないかを知っているから、無闇に素人を殺すようにはしない。だが下っ端はそれが分からず必死で攻撃してくるから、喧嘩をするとこちらが命を落としかねない。そう言うのです。
しかし左の頬をも差し出すというのは、一見弱虫のように見えないでしょうか。意気地なしの精神のようにも感じられます。ニーチェが、キリスト教道徳を弱者の宗教だと非難したのも、理由がないわけではありません。
イエスが頬についての事例を語ったのは、それがひとつの象徴だったからでしょう。これに続いて、別の例をも挙げます。
40:あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
41:あなたを徴用して一ミリオン行けと命じる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
42:求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。
被害者となったら、それを甘んじて受けよ、と言われているようにも聞こえます。しかしだんだん、程度か柔らかくなってゆきます。衣服を取られるのは確かに夜の寒さのために命を失いかねないことですが、徴用されたら、相手と「一緒に」行けというように、嫌がらずに倍の徴用をもむしろ受けよ、とでも言っているのでしょうか。
そして、あなたに何かを「求める者」がいたら、抵抗せずに与えよ、と言います。「貸してくれ」とくれば、拒否せずに貸せ、と言います。無抵抗の徹底です。
◆悪人
頬の例がショッキングなために、私たちは大切なところを忘れてしまいそうです。すでに聞き逃しているかもしれません。私たちは、すぐに自分たちの理解で事を進めてしまいがちなのです。
イエスはここで、左の頬をも向けるに至るための、大切な原則を提示していました。
39:しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
頬を出せ、というのが原理ではなくて、結論的に重要なのは、「悪人に手向かってはならない」ということなのでした。
私を攻撃してきた者は、「悪人」だと言っているのです。詩編はその冒頭から、「幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人」(1:1)と告げて在したし、この短い第1編の6節の中に、四度も「悪しき者」という語が登場し、「正しき者」と対比されて、悲惨な姿が示されているのです。聖書にとって「悪人」とは、とことん神に反し、悪辣であり、裁きを受ける最悪の者たちでした。あなたに害を加える者は、そのような「悪人」である、ということが、ここでの前提なのです。
確かに、正義を行使することは、いまの世の中では控えられる傾向にあります。私もそうです。駅のホームでマナーの悪い人に注意をしたことで、暴力を揮われたり、殺されたりした人がいるという報道を、幾度も耳にします。
小学生たちに、マナーの悪い人がいたらどうするか、と作文をあるとき書かせたら、「注意する」と書く子が多いのに驚いたことがあります。たぶん本当に注意することはしないでしょうが、入試のための作文には、そのように書いた方が良い子に思われて合格するのではないか、との心理も隠れているかもしれません。ただ、小学生は事の善悪についてはよく教えられており、守らねば、との思いがあるのも本当ですから、書いている内容については嘘のつもりはないのだろうと思われます。
しかし大人は、「君子危うきに近寄らず」という言葉に従うでしょう。しばしば「キレる」という言葉が物語りますが、何をされるか分からない世の中であることは確かです。昔はそれを冷たいとか無関心とか批評する口先だけの批評家もいましたが、近年は減りました。さすがの私も教室だと子どもたちに悪いことはさせずに干渉しますが、世の中は教室とは違いますから、大人のどうしようもない人々を見かけても、「あれは悪人だ」と自分に言い聞かせて放置することを常としています。たぶん多くの人もそうでしょう。
加害者が「悪人」である、という情況が、このイエスの話には前提されています。そしてあなたは被害者に当たります。イエスの教えを受けている者、キリスト者は、あくまでも被害者として、この教えを受けているわけです。この点を押さえておかないと、この次の教えにも、適切に入れない可能性があります。これに続いてイエスは、「敵」について語っています。
◆敵を愛せ
43:「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。
44:しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
普通は、別々に説き明かされる箇所ではないかと思います。私たちは、「悪人に手向かってはならない」と、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とをリンクさせて受け取ることにしました。たぶんマタイも、そういう意図で並べ置いたのだと思うからです。
「隣人を愛し、敵を憎め」とは、聖書には直接書かれていないように見える言葉です。ということは、「言われている」わけで、そういうふうに世の中では教えられている、ということになるでしょう。なんのことはない、当たり前のことです。誰もが普通に教えられ、そうだと信じ、実践していること、つまり常識ではありませんか。
「ひとに親切にしましょう」というときの「ひと」は、ここでいう「隣人」です。それを、「親しい人、弱い人、自分に害を加えない人」の意味で使っているだけです。そしてその「ひと」の範疇に入らない者たちを、私たちは「敵」と呼ぶのです。
イスラエルでも当然、「隣人」と呼ぶ対象は、自分の味方や同胞などのことを指すことが当たり前であったはずです。そして、そうではない対象は、「敵」と呼ぶのです。旧約聖書は、その考え方に満ちています。神自ら命じているのですが、原住民や周辺諸国の人々は、異教をもたらすが故にでしょうが、「殺せ」と言い、「滅ぼせ」とまで言っています。その一方で、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18)と言っていたのです。
「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている」というのは、旧約聖書の常識からすれば、当然のことでした。そして現代の私たちもまたふ、当然のことのようにそうだと認識しています。国民第一という高らかな声を心地よく聞き、その殆どが善良である外国籍の人々に対してさえも、ヘイトの声や態度を表しています。外国籍の人も犯罪や迷惑行為はします。しかしそれ以上に日本人がそうしていることについては、全く触れないままに、排斥の一心で事例を挙げるわけです。
イエスの教えは、私たちが全くできていないことです。できないと嘆くくらいならばまだよいかもしれず、できないのは正義である、と開き直ってさえいます。私たちは、このイエスの投げる直球をまともにくらっています。打ち返せないどころではありません。体にぐさりと刺さってくるような球です。野球なら「死球」と言いますが、私たちの魂は、このイエスの言葉によって、死ぬのです。私たちの甘い見通しや、愛され気分の安楽な信仰の真似事は、脆くも崩されてしまうのです。
現実のイスラエル国もまた、そうです。しかし、彼らにしてみれば、旧約聖書の教えそのままに、「隣人を愛し、敵を憎め」を貫いているだけなのかもしれません。神の言葉に従っていると信じているのでしょう。イスラエルに、イエスの救いの言葉は届かないものでしょうか。
先ほどのレビ記の引用箇所を、その節全体を挙げてみますと、こうなっています。
復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。(レビ19:18)
どうでしょうか。「目には目を、歯には歯を」というのが復讐に関することであり、「隣人を愛し」云々というのが隣人愛であるとすると、このレビ記の一節には、そのどちらもが盛り込まれているではありませんか。だから、マタイはここでのイエスの2つの教えを、一つのものとしてここに置いているはずだ、と私は思うのです。
◆ついに完全へ
イエスの命令は、実に残酷です。左の頬も向けよ、というものでさえ実現は不可能なように思えるのに、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」などとは、とてもできそうにありません。
でも、聴くのです。この「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」には、はっきりと目的が置かれています。それを知ることなしに、勝手にいじけるのはやめましょう。
45:天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
「父の子となる」ことが、イエスの言葉に従う者の行き着くところなのだ、と言っています。父なる神にとって、悪人と善人とを区別して太陽の光を与えているのではありません。正しい者と正しくない者と、どちらにも雨の恵みを等しく与えてくださいます。
「悪人に手向かってはならない」が被害者への命令であるならば、さしあたりそちらは「善人」と呼ばれているのかもしれません。あなたは「善人」である前提で、このイエスの言葉を聴いています。あなたにとり「隣人」は、自分と共に「正しい者」であるかもしれず、「敵」は「正しくない者」と見なしているものたちのことです。しかしそのどちらにも、太陽の恵みも雨の恵みも、神は注いでいます。神は、人それぞれが生きるように、命の源を与えてくださいます。
そしてそのことはまた、本当にそれが「悪人」や「敵」といったものの全てなのか、という点を私たちに問うように仕向けます。本当に、あなたを加害する者が「悪人」なのか。本当に、あなたが憎んでいるあの者こそが「敵」であるのか。否、神からすれば、私がその「悪人」であるのかもしれません。私がその「敵」であるのかもしれません。少なくとも、相手方から見れば、私はまさに「悪人」であり「敵」であるに違いないのです。
46:自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47:あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。
自分を正しい側に決めているところから、戦争は起こります。自分が正しい、という前提でものを考えているからこそ、相手をなじります。相手を責め、痛めつけます。しかも、それを正義だ、と主張します。
しかしそれは、罪人の発想です。神を知らない異邦人も同じことです。イエスはそのような事実を突きつけます。私たちはいよいよ苦しくなります。自分たちが徴税人、つまりユダヤの民が普通に考えていた「罪人」の代表であり、神を知らない「異邦人」と何も変わらないことを思い知らされるからです。そして、イエスはとどめを刺します。
48:だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。
やたらひとつの言葉が輝いて見えます。というか、もはやその言葉しか見えません。そう、もちろん「完全」です。そして、その言葉は私たちを打ちのめします。立ち上がれなくします。「完全な者となりなさい」という言葉を、聖書から消してしまいたい、というくらいに考えます。しかし、「完全」という言葉は、聖書にはほかに幾らでもあるのです。
18:完全な道を歩む人は救われ/曲げられた道を歩む者は直ちに倒れる。(箴言28:18)
◆行き着く目的
世には毎年、教会の数の50倍あまりの礼拝説教が、語られています。聖書が66巻あり、そのごく一部だけが、毎週の礼拝説教のために引用されます。今日のこの箇所について説き明かすということは、非常に確率が低いものなのかもしれません。しかし、注目されるという意味では、大いに語られ得る箇所だと言えるでしょう。
そこで多くの説教者がこの説き明かしについて、いろいろ説教者が頭を捻っていることと思います。なんとか辻褄を合わせて、なんとか常識的な説明を施そうとしているのではないかと思います。筋道の通る説明をつけて、イエスの本意はこうである、という道を示そうとしてくれています。
それはそれで説教だと思います。でも私は、そういう説き明かしをしようとは思っていません。私が、イエスの本意を説明することなど、できないと思うからです。私はただ、いま私に与えられ、私に魅せられた景色をここに描こうとするだけです。そして皆さまも、一人ひとりが、それぞれの「逃れる道」を見出せばよいのです。
ただ、イエスが実際に言っていることについては、もう少し追究してみましょう。先に触れたように、私は「悪人」に悪いことをされた、という言い方をされていました。頬を打たれました。訴えられました。徴用を命じられ、ああせいこうせいと求められました。ただ、「悪人に手向かうな」というのが、「目には目を」とはしない件についての、イエスの端的な回答でありました。
隣人とは呼べないような敵を愛せ。そう言われましたが、こういう理解の中では、敵は悪人でありました。ただ、先ほど、相手から見れば私もまた悪人であり敵であるという見方をする必要があることを試みました。
しかしそれでも、まだ解決できていないことがあります。そのままでは、互いに相手を悪人とし、敵とする見方そのものは、依然として遺っているからです。
自分もまた、悪人なのかもしれない。自分も、相手からすれば敵なのだ。その自覚は大切です。それさえないところには、平和はないでしょう。互いに自分が正義だと確信しているならば、相手は不正義だと決めつけている心が消えるわけではありません。それはまだ、小手先の方策に過ぎないのです。
イエスはこうした言葉を弟子たちに向けながら、その目は、一つのところを見つめていました。イエスの心は、目に見える弟子たちの姿を超えて、一つのところを見つめていました。
45:天におられるあなたがたの父の子となるためである。
そしてそれはより具体的に、このようにも言われているのでしたね。
48:だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。
◆それでも信じるならば
言うまでもなく、「完全」の言葉は神にこそ似合います。神は完全です。人類は、この命題に束縛されています。だから「完全になれ」の言葉を、「神のようになれ」の感覚で受け止めてしまいます。
確かに言葉としては、同じ「完全」です。しかしもちろん、神のもつ完全性と、人に求められる完全というものとは明らかに異なります。中には、それは同じだというような錯覚を妄想する者が時折現れます。でも、そういう輩を相手にする必要はありません。自分はメシアだとほざく者が現れる時代がくることが、福音書には予測されていました。
人間に求められる「完全」とは何か。これについても、神学者や説教者は、いろいろと説明を加えることがあります。ありがたいものです。それぞれの解釈には、学ぶところがあります。分かっています。罪を犯さなくなる、というような意味ではありません。欠陥がない完全性であるはずがありません。
完全になるというのは、私が、人が、神のような完全さをもつ者となれ、という意味であるはずがありません。しかし、何かが完全なのです。人間そのものにただ完全性が身につくというのでなければ、その完全性は、どこにある可能性があるでしょう。神との間です。神と人との間にのみ、人に関わる完全なものが、あり得ることしか、期待できないと思うのです。
もう少し言えば、完全になり得るのは、「神との関係」です。「神との関係」が十分に結ばれるということは、期待できるかもしれません。それは、「信仰」に於いてのみ成り立つ「関係」です。私たちは信じるのです。イエスを信頼するのです。人間性がどうだこうたぶと誇ることなく、イエスの完全性を崇め、信頼をそこに置き、自分の存在をイエスに委ねるのです。イエスの完全性を握り絞めるのです。神が、それを完全と認めてくださっているのです。
そのイエスとは、神の愛の現れでもありました。コロサイ書には、その結びを約束してくれる言葉がありました。
さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。(コロサイ3:14)
このことについては、最後にもう一つ、フィリピ書3章の言葉も、付け加えておくことに致しましょう。マタイ伝ではありませんが、この言葉が、重なって響くことを願いながら、お読みします。
私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、完全な者は誰でも、このように考えるべきです。(フィリピ3:12-15)