何でも祈ってよいのです

2025年9月21日

「なんでも祈ってよいのです。」老婦人は、にこにことそう言っていた。無牧時代の教会を夫婦で護り続けた、芯の強い信仰をおもちの方である。よくない病気に見舞われ、そのときはホスピスにいた。見た目は元気そうであるが、医学的には余命は限られている状態であった。
 
お会いできるのはこれが最後の可能性があった。別れ際に涙と共に祈るひとときをもったが、「なんでも祈ってよい」という信仰を、その日も告げていたと思う。祈るのは祈ってよいのだ。ただ、それを神がどうしたもうか、それは神に委ねるだけである。
 
何か困ったことがあると、「神」に願う。自分のしてほしいことを、神に求める。それを比した叶えてくれたら「よい神」であり、叶えないのは「よくない神」である。人間が素朴にもつ神観というのは、おおよそそういうものであろうか。
 
キリスト教の世界には、メガチャーチと言って、信徒何万人、何十万人、へたをすると何百万と称するような教会がある。そのうちのあるところは、信仰することにより社会で成功する、というような強調をしていたことがある。殆ど「御利益宗教」のような看板だが、それを以て僻む眼差しは、弱小教会の窓の中からであったのかもしれない。
 
それもまた、「求めなさい」には正直に従っているだけである、とも言える。「何でも祈ってよい」のであれば、成功を祈って悪い、ということもあるまい。しかし、実際に成功した人がそれを証しするものだから、それでは我も我も、とその教会に近づいてゆく、ということがあるのだろうか。
 
自分が願うことが、神の国と神の義に適うものであるのかどうか、それは人間には判断がつかない。もちろん願望は、適うものであってほしい。だが、それを根柢に置くと、何かが違っていってしまうだろう。
 
自分の欲望を叶える宗教に過ぎないのであれば、確かに「御利益宗教」という蔑称に値することになるに違いない。そして、教会の言いなりに盛んに献金しておいた場合、願いが叶わないと、教会が詐称して騙した、と訴える、そういうことも現実にあった。信じて献げたのだが、一種の洗脳のようなものだ、などと言うと、微妙な争いとなるわけだ。いまの統一協会にも、そういう向きで訴訟がなされているが、向こうからすれば、信じたのはそっちだ、という具合であるのかもしれない。
 
キリスト教会は、じり貧状態であると見られる。牧師という存在があるだけまだよい方らしいほどに、牧師が少なく、超高齢になっているともいうが、その牧師を雇っている以上、給与は出さねばならない。しかし教会の献金、あるいは収入は、余りに少なくなっている。となれば、従来教会の活動費として最大のものである「伝道費」を削らなければならなくなる。益々、外に向けて伝道をする、という気概が失せてゆくのが、しばしば見られるところであろうか。
 
自分がキリストと出会って、救われたのであれば、その救いをなんとかほかの人に、という情熱も生まれてくるものだろうが、肝腎の「牧師」自身に、その救われたという経験がない場合も現実にあるため、伝道ということが教会の使命だ、という意識が生まれない、という場合も、悲しいが実際にあるようだ。形式的に「説教」めいた作文を喋り、プログラムに従って日曜日に「礼拝」を開けば、宗教法人としてのキリスト教会は保持できる。組織を運営していれば、教会を立派に活動させている、という腹であれば、私から見れば残念なことである。
 
救いとは何か。霊とは何か。キリスト者は、問い直す必要があるのではないだろうか。神の世界と、神のもたらす救いを要としているのかどうか。建前だけが教会なのか。教会が、偽りの色に染まってしまうようなことが、感染して拡まってようなことがないことを、信じたい。
 
「信じる」ということは、平安をもたらすものでもある。それは、自分が楽になる、ということでもある。これもまた、御利益宗教の要素を満たしているのかもしれないが、そう祈ること自体は、禁じられるものではあるまい。
 
  幸いな者
  悪しき者の謀に歩まず
  罪人の道に立たず
  嘲る者の座に着かない人。(詩編1:1)
 
詩編はこうして、「幸いな者」の宣言から始まる。その宣言は、自分が「罪人」であることに始まるものだ、とイエス・キリストは新しい救いの道を拓いた。自分は罪人でありながら、罪人の道には立たない、立つことができない。キリストに出会って、キリストに救われた者は、間違いなく「幸いな者」なのである。「何でも祈ってよいのです」というあの笑顔は、いまもすぐそこに見えている。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります