素朴な信仰

2025年9月19日

知者であることを誇る者は、知の大切さを説くだろう。そうやって聖書を、如何にも人間らしい理屈で説明することが正しいものだ、との使命を受けているかのように。
 
他方、そうした妙な知識とは無縁に、聖書を素直に信じて生きる人を、私は心から尊いと思う。ただ、ふとこの知的な空気によって、言いくるめられたり、嘲笑されたりすることがあるかもしれないと思うと、少しでもその信仰が支えられるような視点を、紹介することができたらいい、と願うのだ。
 
私もまた、偉そうな口を利いているばかりだ。「この人はなんなの」と呆れられているものだろうと思う。とてつもなく無知な者が、理解できないような愚かなことをほざいているばかりに見えることだろう。その道を誠実に究めた人から見れば、何もかも中途半端で、自分本位で、そして才能もなく、ただの素人の思い込みばかり綴っている、というのが私の姿であるはずである。
 
無知なことを、皮肉たっぷりに蔑まれたこともあるし、自分の聖書解釈からすれば確実におまえの考えは間違っている、と突きつけられたこともある。もちろん、誤解や思慮の足りなさを指摘してもらえるのはありがたい。しょせん知らないことばかりの者の言うことなど、取るに足らないばかりか、無視するほか何もない、とされても、当たり前だと思う。万一少しでも同調するような態度をとると、今度は自分がバカの仲間に数えられる、というふうに、自分の同輩たちの視線も意識することがあるかもしれない。
 
だが、私は、人間はそれほど立派なものではない、と考えている。立派な人はいるが、稀であるのではないか、というくらいにしか考えていない。パウロは自らを罪人の頭と称したというような証言が、聖書にはある。私が自分を底辺に置いても、何も卑下しているようなレベルのことではないだろう。
 
キリスト教会という看板を出していても、それが聖書に基づいているとは限らない。聖書を求めようと努めているとは限らない。愛に満ちている教会は、極めて稀である。それはそれで理解しているのだが、聖書がただの飾りにしかなっておらず、知識を誇っているのを実際に見ると、やはり悲しい。そして、復活はないとか、奇蹟などないとか、そんな「教え」を振り撒くようにすらなってゆく。
 
素朴な信仰は、聖書を誤って解釈している。そのように、言う人がいる。どこかその口調は冷たく、どこか見下したような響きに聞こえる。果たしてイエスは、人々にどんな信仰であるように、と述べているのだろうか。そこに戻って、また聖書から聞くことを始めたい。聖書の言葉によって、自分が変えられた、新しい命に生かされた、ということは、ひとつの証しである。それがまた、何ものかの仕業でそう思い込まされている、という危険性があることは確かだが、雲のように取り巻く証人に励まされて、勇気を与えられて、人々が生き生きとしていられたら、希望を確かに持ち続けていられたら、と願うばかりである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります