あゝ、ほんとうだった

2025年9月15日

創世記15章、まだアブラハムが、かつての名前アブラムだったころのこと。「主はアブラムを外に連れ出して言われた。」これが今日の物語の始まりである。説教者はこれを、アブラムはそれまで、中にいたのだ、と指摘した。「言われなかったことの大切さ」ということを思い出した。反対のこと、言われていないことに気づく、というのは、聖書を豊かに読むためのひとつの知恵であろう。
 
神が、アブラムを「外へ連れ出し」たのだ。アブラムはここで言われたことを「信じた」という。アブラムが「信仰の父」と称される所以である。「外へ連れ出し」たことが「信仰」であるのなら、「部屋の中にとどまる」ことは、せいぜい「信心」に過ぎない。説教者はこのように対比させて示した。
 
神は、星を数えきれるか、と問う。そして、「あなたの子孫はこのようになる」と約束した。アブラムは後に、ここで主の言われたことが「あゝ、ほんとうだった」と思うことになるだろう。否、その語三千年を遥かに超える時代を生きる私たちが、雲のように取り巻く証人たちの証言を集めて、「あゝ、ほんとうだった」と感動することになる。
 
説教者はこのように言ったとき、確かに説教の伏線を置いていたことが、後になって分かる。
 
説教者は、若い神学生だった時代の話をここからしばらく語る。イスラエル旅行の経験である。それは、或る老牧師の付き添いをする役割として、特別に連れて行ってもらうことになったというものだった。その老牧師自身は、イスラエルに足を踏み入れるのは初めてだった。世界各地に足を運び、平和のために働き続けた方である。
 
イエスの歩みを二千年にわたり伝える遺跡などを訪ね、その牧師の口からしみじみと言葉が零れたという。「聖書に書いてあることは、みんなほんとうだったね。」
 
これは、まるでそれまで、聖書に書いてあることをほんとうだとは信じていなかった、ということを表しているように、聞こえなくもなかった。牧師という肩書きをもつ人の中には、実のところ聖書を信じていない人も、確かにいることと思う。もちろん教義的に教義の中核的なところを信じない人はそう沢山はいないであろうが、細々とした記事については、信じないという場合が少なくないのではないか。信じられない、と悩む場合はまだ誠実さを示しているのかもしれないが、中には開き直り、そんなことはない、と聖書を否定することの方が現代的で正しいかのように言い放つ「牧師」もいる。さらに、聖書の解釈を通じて、ギリシア語を正しく読めばこれはありえないことだ、などと「証明」する人もいる。こうして、その「牧師」を信奉する信徒たちを巻き込んで、信仰のなくなった「教会」をつくるようになってゆく。
 
説教者は、そうした仲間に入ってゆかずに済んだ。ここで突然ではあるが、イエスの復活の記事についての態度を語り始める。そして、今日まざまざと一つのイメージを人々に突きつける。それは、「墓が終点ではない」ということを思い描くために、不思議な幻を語るのだ。「甦りの主が、再び、悲しみの道(エルサレムの遺跡のひとつ)を逆走するように戻り、共に歩み始め、私たちを助け起こす」という幻である。そして私たちは、この墓が終わりではないことを知り、「あゝ、ほんとうだった」と感慨深く口にするのだ。
 
これを映像にすると、すごいことになる。悲しみの道をイエスは辿り、その行き着く先は岩場に掘られた墓であった。だがそこから3日目に、イエスは墓から出て、その悲しみの道を逆方向に走るのだという。マンガのようでもあるが、実にダイナミックな想像である。
 
それは「希望」であった。その希望は、パウロも抱いていた。こうして、この説教のために開かれたもうひとつの聖書箇所へと私たちは導かれることになる。ローマ書5章の初めである。
 
細かく辿ることは避けるが、もしここには「苦難・忍耐・品格・希望」という流れが作られている。結論から言えば、苦難は希望へと至るのだ。イエスの「逆走」と、それを信じる私たちに与えられるものも、この過程である、と言ってよいだろう。私たちにも、このプロセスを経験することが、予告されているのであり、そう受け止めることが、私たちの「信仰」なのである。
 
いま教会で用いているのは、聖書協会共同訳である。細かな改訂の他に、大きな訳語の変更がたくさんある。ここにも「品格」というのは新しい訳である。これはなかなか訳すのに難しい語であり、ここまでよく知られた訳では、たとえば「練達」というのがあった。ただ、それは日常的に用いない語のひとつであったし、それだけにピンとくることの少ない語であった。「保証」というのが直訳である、と欄外に説明してあるが、「真実だと証拠立てること」、場合によっては「試練」、あるいは「テスト」のようなことを意味する場合があるようだ。説教者は、英語の訳ではしばしば「character(キャラクター)」となっていると話した。これが「品性」である。「性格」といった一般的な意味の陰に、「特性」やその「高潔さ」を特に指すような用いられ方をする英語である。新しい邦訳で「品格」としているのは、この意味を強調したのだといえよう。
 
6:キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。……
8:しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。
 
解釈というのは不思議である。ここは論議を呼ぶところでもあるらしい。「私たちがまだ弱かった頃」、「私たちがまだ罪人であったとき」に、キリストが不敬虔な私たちのために死んでくださったのだとパウロが言っていることから、キリストは不敬虔な者のために死んで救うのだから、すべての人が同様に救われるのだ、と早合点をする人がいるのだそうである。
 
聖書が、この私自身のことを記していて、私に直で呼びかけている、とという意識で聖書を読むことのできない人は、そのように読むかもしれない。どこまでも聖書など他人事であるという読み方をする者ならば、聖書を自分の思うように自由に解釈するそのことの方が正しくて、書かれていることはおかしい、それを真に受けて信じる人の気が知れない、などと豪語するかもしれない。イエスの死が、自分と関係が大ありだということを認めない者である。
 
しかし、だから自分たちはそんなことはなく、ちゃんと信じているんだぞ、というように思い始めたら、これもまた危険である。「この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18:11)と祈って義人ぶっていたファリサイ派の人と、何も変わらないことになる。
 
説教者は、もう少し厳しく響く言い方をして、私たちの目を覚まさせようとしたように思う。それは、「十字架の前で、偽りながら私たちは礼拝を献げている」というような表現である。自分が「罪人」だと称しながら、へらへら笑っているのでよいのかどうか。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」(ルカ18:13)という姿は、「救われた、ハレルヤ」と喜んでいる風景とは、直結しないのである。
 
だが、それらは確かに結ばれる。結びつく。恰も、苦難が希望と結びつくように、凡そつながるようには思えない二つのものが、結ばれてゆく。それは、人の論理ではつながらない。分断した神と人との間を、イエス・キリストがつないだように、苦難と希望との間も、イエス・キリストが結びつける。そして、自分が罪人であり不敬虔であり、さらに偽善者であるという意識が、救われた喜びとつながるというのも、イエス・キリストの故なのである。神の恵みなのである。
 
説教者は、ある方の昇天者記念礼拝におけるエピソードを持ち出して、説教の幕を閉じた。その詳細をここに記すことはできないが、そこでこぼれた言葉から、私たちが、イエス・キリストと出会って、自分が変えられる経験をするはずだ、ということを確認するに至る。確かに私は、罪人として、不敬虔な者として、かつてイエスの前に引きずり出された。十字架のキリストが私の身代わりになって死んでくださった、というのは必ずしも嘘ではない。だが、誤解を招く可能性がある。キリストの死によって、私もまた、霊的には死ぬのである。死んだのである。意識としては、十字架に共につけられたということである。
 
だから、いまここにいる私は、かつての私ではない。新しい命を生きる私である。イエス・キリストにより、立ち上がらされた私である。復活の命をすでに生きているのである。そして、その私は、その経験を踏まえた上で、聖書を開き、そこに書かれてある様々な証言を読みながら、しみじみと言う。「あゝ、ほんとうだった」と。



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