この人なんなの
2025年9月15日

「能面のような」という表現がある。実は能面は、ちょっとした角度により、笑みにも見えれば泣く姿にも見えるなど、奥深いところをもっているのだが、言葉の使われ方としては、「無表情」である、よくない意味に使われることがある。その意味では、真の「能」を愛する方々は、不快に思われるかもしれない。
表情が動かない。それは、何を考えているか分からない、という意味にもなる。活字にすると怖い言葉であっても、目が笑っていれば、冗談を言っているのだと分かる。しかし、喜ばしい言葉も、目がすわっていたら、とても怖いだろう。
表情が何もないままに、およそ非常識な行動を平然ととる人がいたら、どう思うだろうか。ほぼ誰もが、嫌悪感か恐怖感を覚えるのではないか。
これまでも、市長や県知事といった目立つ人物の中に、常識とはかなり食い違うことを、無表情で言い放つ人がいた。逆にそのために、無名なその町や市の名前が、全国区となって知られるという皮肉なことも起こるのだが、マスコミも対処がしづらい側面があるのは事実だ。「この人なんなの」とコメントすることは、できそうでできない。
だが、住民が選挙で選んだ人物である。いくら非常識であっても、それをあげつらうことをすると、選んだ住民を貶めることになりかねない。また、公的な法律に基づいて行っていると主張されれば、それを否定することは、法治国家をマスコミが認めないことになってしまう。さらに、法的な問題となった末、その首長などが法的に裁かれないことになったとしたら、今度はマスコミの責任が問われたり、名誉毀損で訴えられたりする可能性もある。
恐らく何人か、そういう範疇に入るとは思うが、そういう無表情的な人物は、2010年辺りから、表に現れるようになった。彼らはしばしば、インターネット情報をうまく操る。世間に考えていることを堂々と述べる。「すみません」などと低姿勢で臨むのではなく、あくまでも「自分の信念はこうだ」とひたすら主張し、その点でブレないのが特徴である。
無表情だと言ったが、自分が注目されていることは、迷惑ではなく本望であるらしい。報道のカメラの先で、口元がちらりと笑みを浮かべたように見える瞬間もあったように思う。すると、平然とした顔で庶民の理解できないようなことを主張して曲げないその人が、よけいに「分からない」と感じるし、なかには「気味が悪い」と思う人もいるだろう。それとも、彼らは実のところ自分の中に不安が強くて、安心して表情を見せることができないのかもしれない。それさえも、私たちには普通、分からない。
選挙のときに、そうした人物がなかなか見抜けないのは、必ずしも住民の落ち度ではないだろう。傍から見ればそう見えるかもしれないし、私もそう考えるタイプではあったが、実際自分が、教会でとんでもない人物のことを見抜くことができず、役員に投票をしていた、後悔すべき汚点がある。その人は騙していたわけではないだろうが、私の意識では、すっかり騙されていた。そして、それは私の責任だとしか言いようがないのだ。
SNSでは、ズバリとものを言う人が注目される場合が多い。そこからじっくり思索しようとなど、殆どの人が思わないのであろうし、そもそも「じっくり思索する」ということが、世間にあるかどうか、疑わしいものである。もちろん、私が思索できているとは思えないが、思索したいと意識している分、少しだけ違う場所に立っているとは思う。
近年の大きな選挙でも、SNSの利用が始まって以来、何かが大きく変わって来ているような気がしてならない。もしかすると、ナチスの宣伝技術というものを、一部の人々が非常に研究しているのではないか、とすら思う。ドイツという国のみならず、多くの国を変えてしまった宣伝技術の歴史とその内容について、私たちは、もっと注目しなければならないのではないか。
このようなことは、政治家だけに対して言えることではない。私は、教会の指導者に立てられた者の中に、こうした例があることを複数知っている。都合の好いことに、彼らは毎週説教という形で多くのことを語る。その説教を命あるものとして聞けない場合、それはそこに問題を見抜くチャンスであると思う。自分の方が間違っているのではないか、とクリスチャンは考えがちであるが、説教が霊的におかしいときには、それを我慢していると、その人自身が冒されてゆく。どうぞ気づいて戴きたいし、勇気を以て対処して戴きたいものだと思う。