【メッセージ】誓いはいらない

2025年9月14日

(マタイ5:33-37, ゼファニヤ1:1-7)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。(マタイ5:37)
 
◆誓い
 
今日は、イエスの山上の説教の中の「誓い」というテーマの教えから神の言葉を聞こうと思っております。
 
甲子園での高校野球大会では、その「選手宣誓」が全国に放映されます。アメリカ合衆国の「大統領就任宣誓」というものもあります。私たちは、公的な「誓い」という意味での「宣誓」というものについて、ある程度のことは見聞きしています。
 
2006年トリノオリンピックのときにNHKのテーマソングは、平原綾香さんのつくった「誓い」という歌でした。しっとりとよい歌でしたし、なんといっても胸に迫る歌唱が印象的でした。
 
  願いをこめた流れ星が 夜空を駆けてく
  目指した場所までは遠くて ため息こぼれる 
  たしかな想いは届くはず
  
  胸に誓うよ
  永遠に果てしない道も乗り越えてゆくと
  
  辿り着くまで そのときまではきっと
  あきらめないからv  
「誓い」と言えるかどうか分かりませんが、「じっちゃんの名にかけて!」という言葉を思い出す人もいるでしょうか。『金田一少年の事件簿』の決めセリフでした。  
とはいえ、「誓い」ということで、多くの人が思い浮かべるのは、結婚式での「誓い」ではないでしょうか。キリスト教式の結婚式は、ドラマでもよく描かれます。「健やかなる時も 病める時も」という言葉があるでしょうか。その『病めるときも』というタイトルの本を、信仰の作家・三浦綾子さんが出したことも有名です。実際の教会での結婚式では、また違うかもしれませんが、そうしたことを「誓いますか」と司式者が双方に尋ねるのだと思います。
 
英米の映画でのシーンでもありますね。「Do you 〜?」と尋ねられたら、「I do.」と応えるべきなのでしょうが、私の見た記憶では、「Will you 〜?」に対して、「I will.」と応えていたように思います。「私はそうする意志がある」という姿勢が窺えます。「誓い」というのは、私がこうするつもりだ、という意志の表明であるというのでしょう。
 
◆聖書の誓い
 
アブラハムは、財産のすべてを管理している家の老僕に言った。「私の腿の下に手を入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。私が今住んでいるカナンの娘たちの中から、息子の妻を迎えてはならない。(創世記24:2-3)
 
神の言葉ではなく、人の言葉ではありますが、旧約聖書は創世記から、「主にかけて誓いなさい」という言葉を突きつけていました。そのアブラハムは、荒れ野で他人から、神にかけて誓えと迫られたこともありました。
 
その頃、アビメレクと将軍ピコルはアブラハムに言った。「あなたが何をなさっても、神はあなたと共におられます。さあ今ここで、私も、子や孫も欺かないと神にかけて誓ってください。私があなたに誠意を尽くしてきたように、あなたは、私にも、またあなたが滞在しているこの地にも同じように誠意を尽くしてください。」アブラハムは、「私は誓います」と答えた。(創世記21:22-24)
 
「律法」と呼ばれるイスラエルの法律の中には、嘘をついていないことを「誓わねばならない」と規定されていることが度々あります。逐一引用することは控えますが、何かしら嫌疑をかけられたとき、それはしていない、と神かけて誓うというのは、捜査に限界のある当時の刑事裁判において、重要な証拠となり得たでしょう。現代では、幾らでも言い逃れができそうですが、さて、当時はどうだったのでしょうか。
 
いま考えたのは、人が誓うという図式ですが、中には神が誓うという場面もあります。枚挙に暇がないのですが、それがより目立つ申命記を繙いてみましょう。
 
主は、あなたがたの話す声を聞いて憤り、こう誓われた。「この悪い世代の人々のうちには、私があなたがたの先祖に与えると誓った良い地を見る者はいない。……(申命記1:34-35)
 
あなたは、今日私が行うように命じた戒めと掟と法を守らなければならない。あなたがたがこれらの法に聞き従い、それを守り行うなら、あなたの神、主は、あなたの先祖に誓われた契約と慈しみを守り、あなたを愛し、祝福し、数を増してくださる。また、あなたに与えると先祖に誓われた土地で、あなたの胎から生まれた子、土地の実り、穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油、牛の子、羊の子を祝福される。(申命記7:11-13)
 
人間の側が、勝手に、神は誓ったのだ、と言っているように聞こえなくもないのですが、モーセのような者は、神の意志を直接聞くことができたとして、つまり預言として記しています。
 
主は私に言われた。「さあ、行きなさい。民を先導して進みなさい。彼らは私が先祖に与えると誓った地に入り、これを所有するであろう。」(申命記10:11)
 
聖書には、「新約」とか「旧約」とか、「約」の字が付せられていますが、これは「契約」を表していると考えられています。「契約」は、神と人との間に成立した約束のことであって、アブラハムやモーセ、ヨシュアなどと、重要な契約を交わしてきたことが旧約聖書に書かれています。その後はたとえばエレミヤとの間にも新しい契約があった、と見られることもあります。そして決定的に、イエス・キリストによる契約が、いまのキリスト教の救いをもたらす最重要なものとして、「新約聖書」を形成することになりました。
 
大きく捉えれば、この「契約」が、「誓い」の一つの姿なのだ、と見ることもできようかと思います。神もまた、人のためにこれだけのことをした・するという意味で、誓いを果たすような動きをとった、と聖書の記者は捉えているわけです。
 
「契約」といえば、ひとつショッキングな記事があります。ただお読みするだけで、通り過ぎることにします。
 
主は答えられた。「三歳の若い雌牛、三歳の雌山羊、三歳の雄羊、それに山鳩と鳩の雛を私のもとに持って来なさい。」アブラムはこれらのものをみな持って来て、真ん中で二つに切り裂き、切り裂いたものを互いに向かい合わせて置いた。鳥は切り裂かなかった。(創世記15:9-10)
 
日が沈み、暗くなった頃、煙を吐く炉と燃える松明がこれらの裂かれた動物の間を通り過ぎた。こうしてその日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテスに至るまでの、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を与える。」(創世記15:17-21)
 
◆誓いの禁止
 
誓うことを肯定的に捉える見方を、少し見てきました。そしていまの時代の私たちにとっては、何か大いなるもの、ここでいうように神の名にかけて誓う、ということは、誠実で正しい良心に基づくものだ、という理解は、ある程度一般的なものだと思います。もちろん昔のように、そこに決定的な価値を置くような考え方は、もはやしないかと思いますけれども。
 
けれども、旧約聖書でも、誓うことに対して疑いをもつ、あるいは禁じているという場面があるのも確かです。
 
ヤコブの家よ、このことを聞け。/イスラエルの名で呼ばれ/ユダの流れを汲む者よ。/主の名によって誓い/イスラエルの神の名を唱えるが/真実もなく、正義もなくそれをなす者よ。(イザヤ48:1)
 
ここでは、人間の誓いというものが全く信用されていない様を浮き彫りにしています。それは、異教徒との交わりに於いて顕著になるらしいことも見て取れます。確かに、他の神々に向かって誓うなどというのは、イスラエルにとって以ての外なのでしょう。
 
あなたがたの隣に残っているこれらの国民と混じり合ってはならない。彼らの神々の名を唱えても、誓ってもならない。それに仕えても、ひれ伏してもならない。(ヨシュア23:7)
 
新約聖書では、この山上の説教のように、従来の理解に対してイエスが釘を刺しており、私たちはその教えを受けていることになりますが、福音書の中の場面に於いては、あのペトロの誓いの場面が思い起こされます。
 
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。(マタイ26:73-74)
 
ペトロのこの誓いは、内容的には偽りでした。当然、偽りの誓いというものは、最も忌避すべきことです。それを福音書の中に遺したということには、勇気が必要だったことでしょう。イエスはこのペトロの事件を受けているはずはないのですが、「偽りの誓いを立てるな」という一般に理解されていることを持ち出してきます。
 
33:「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に果たせ』と言われている。
 
これはたとえば、ゼカリヤ書の中に、はっきりと示されていると受け止めておくことにしましょう。このことは、聖書を知る者には周知のことだったと思われます。
 
あなたがたのなすべきことはこれである。/互いに真実を語り/あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。
互いに心の中で悪をたくらんではならない。/偽りの誓いを求めてはならない。/これらすべてを私は憎むからだ――主の仰せ。(ゼカリヤ8:16-17)
 
◆誓ってはならない
 
けれどもここでもまた、イエスは「しかし、私は言っておく」と持ちかけます。山上の説教で幾度も現れる表現で、一般に理解されている律法に対する考えを否定して、イエスの新しい福音の理解を提示するのです。
 
34:しかし、私は言っておく。一切誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
 
一切誓ってはならない。これは厳しい言葉です。ひとつも許されないというのです。神の名の下に生きるときに、そんな生活ができるのでしょうか。パウロでさえ、手紙の中で、いわばきちんと誓っています。
 
私は、神を証人として、命にかけて誓いますが、私がコリントに行かなかったのは、あなたがたに情けをかけたからです。(コリント二1:23)
 
コリント教会との間に、複雑な関係があったにせよ、パウロは命にかけて誓うとまで言い、自分の誠実さをアピールしているのです。
 
そしてイエスが、一切誓うな、と言ったのは、ただそれで言いたいことが終わったのではなくて、続きがありますから、私たちはこの先に加えられたイエスの言葉にも、しっかりと目を落としている必要があります。
 
5:地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは偉大な王の都である。
36:また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 
これは何を言いたいのでしょうか。正直、私にはよく分かりません。いろいろな人が説明をしてくれています。しかし少し調べてみても、なんだかその場凌ぎの解説であるような気がしてなりません。もちろん、どの読み方も、誠実に聖書の言葉に向き合っているのです。しかし、何か説明をしなければ、という思いが勝り、どこか人間の理屈でうまく説明がなされてゆくようにすら見えることすらあるのです。
 
イエスはしばしば、抽象的な事柄を、何か具体的なもので示して、本質を感じ取るこができるように配慮しました。空を飛ぶ鳥を想像させたり、種を蒔いたらどうなるかという体験に重ねたりしました。ここにいる「地にかけて」や「エルサレムにかけて」やあるいは「頭にかけて」やといった誓いの文句は、当時実際に口にされていたものではないかと想像します。つまり、当時人々の間で誓いのときに言われていたものを、ここでは全部拒むべきものとして扱うために、持ち出していた、というのが、私たちに想像できる基本的な理解ではないだろうか、と思うのです。ですから、その内容をなんとしてでも説明して辻褄を合わせなければ、というふうには、非力な私は考えないようにしたいと思いました。
 
◆誓うとき
 
事の本質に近づきましょう。どうしてイエスは「誓うな」と言ったのでしょうか。私たちはもう少し、「誓い」ということに含まれた意味や構造について、見つめる必要があるような気がします。
 
そこで私はまず、「誓う」というのは、そもそも、自分の立場がよくない場面でなされることが多い、というように考えてみました。これから自分は、何か誠実に事に当たらなくてはならない。そこでは嘘をつくことが許されない情況です。裁判で証言をします。これから大統領としての重責に預かります。責められて許してもらわなければならないときに、これからはちゃんとしますと約束します。
 
「ああ、これからは酒もタバコも止めることを誓います」などと口にするのは、よほど追い込まれている場合でしょうか。それでも、それを聞いた相手は、「ああ、よかった。もう今日から止めるんだ」と安心することは、難しいような気がします。「もう浮気はしないよ」と誓う言葉が、すんなり受け容れられる情況を、私はどうにも想像しにくいのですが。
 
もうこれからはきっとこれこれをするよ。または、しないよ。そういう約束について、人間は互いに分かっています。必ずしもその通りにするようにはならないことを。ちょっと眉に唾をつけて聞いているのではないでしょうか。きっちりその通りに相手が行動する結果になるかどうか、については信用がならない。しかしいまこの場では、そういう約束をしたものとして認めてあげることにしよう。完全な信頼を寄せることはできないけれど、建前上、そういう約束を相手がしたのだ、ということにしておこう。そういう腹があるのではないでしょうか。
 
しかし、約束は、それを破ったら何かしら罰を受けることが前提となります。「嘘ついたら針千本飲ます」と指切りを、今の子どもたちもするのでしょうか。相手との間に、約束は交わされます。しかし、二者だけの関係で約束をしても、裏切ることがあるかもしれません。また、約束を破った場合に、それを処罰する第三者が介在しません。
 
そこで、イスラエルでは自然に、神に保証してもらうことになります。それは、自分の思いついたことでも、願うことでも、人間という他者がいなくても、つまり自分にとってだけの約束であっても、神にその約束の保証人になってもらうことを意味するのかもしれません。
 
ただ何かを思いついてやるぞ、というわけでもなく、自分はきっとしますという口約束で責任を回避するのでもなく、何かしらの「担保」を備えることにもなります。その真実性について裁いてくれる第三者が必要です。しかもそれは、他の誰が見ても納得のできる、信頼のおける保証人でなければなりません。必然的に、ここで神が立ち回ることになるわけです。
 
そこで悲劇も起こりました。士師記のエフタの例でした。詳述はしませんが、イスラエルがまだ統一されていなかった頃、周辺のアンモン人との間に戦いが起こります。エフタの生まれは卑しいものでしたが、実力があったため、戦いの将になってくれと頼まれました。いよいよ戦いに臨むとき、エフタは戦いの勝利のために主に誓います。
 
エフタは主に誓願を立てて言った。「もし、あなたがアンモン人を私の手に渡されるなら、アンモン人のもとから無事に帰ったときに、私の家の戸口から迎えに出て来る者を主のものとし、その者を焼き尽くすいけにえとして献げます。」(士師記11:30-31)
 
エフタとしては、どうせ家畜が最初に家から飛び出してくるもの、と高を括っていましたが、なんと勝利の後に家から最初に出て来たのは、大切なひとり娘でした。さあ、この後は悲劇となります。誓いを果たすためです。
 
◆フランクルの言葉
 
ヴィクトール・フランクルの言葉は、多くの人の心を打ちます。私は読んではいないのですが、最近その弟子たる人が、フランクルの提供した「ロゴセラピー」についてまとめた本の翻訳が出版されました。また、フランクルの名著『夜と霧』は、戦後すぐ1946年に発行されてから、いまなお読まれ続けています。
 
本の題は、1941年にヒトラーによりつくられた法律(総統命令)の名であり、日本でいえば「治安維持法」のような正確をもつものでしょうか。もちろん何百万人というユダヤ人を葬った人物です。恐ろしい時代を指し示す言葉となりました。
 
フランクルは、オーストリアの精神科医でしたが、第二次世界大戦中に、ユダヤ人としてアウシュビッツなどの収容所に送られました。奇蹟的に生還し、精神科医として分析したそのときの体験を踏まえて、本書の原稿を書きました。仲間たちは励まし合ってなんとか生きていましたが、クリスマス後の解放の噂が飛び交った後、クリスマスが過ぎると、とたんにばたばたと死んで行ったという話は有名です。人間にとり、「希望」が如何に生きる力を支えるものかを感じ取ることができるような気がします。
 
『夜と霧』には、他にもまたよく知られた言葉があります。そこには「コペルニクス的転回」の必要性が説かれています。「コペルニクス的転回」とは、天動説から地動説への転換を謂い、ものの見方が一八十度方向転換することで、新しい考え方が始まることを意味します。これを哲学的に、カントが、人間の認識構造について当てはめ、主観が客観を規定する、と説いて、そこから道徳や希望へと一大哲学大系を築いたこともまた有名です。
 
『夜と霧』の新しい訳から引用します。
 
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを一八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(訳・池田香代子・みすず書房)
 
長くなりましたので、人口に膾炙している語句として、印象深いところをもう一度掲げましょう。
 
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」
 
私が、人生に対して何を期待して求めたり願ったりするよりも、人生の方が私に何を期待しているか。そこへ目を向けよう、というわけです。
 
中には、アメリカのケネディ大統領の言葉「国が諸君に何をしてくれるかを問うな。諸君が国に対して何をできるかを問え」を思い起こす人がいるかもしれませんが、このような逆説的な言葉は、いつも人をハッとさせます。フランクルの場合、私の思い通りに世界に期待しようとするのではなく、世界のために自分には何ができるか、考えてみようとするわけです。しかもそれは、自分はどう生きるのか「問いかけてくる」ものがあるのであって、その「問い」応えること、それを引き受けようではないか、と提言しているように見受けられます。
 
ユダヤ人として、フランクルがどのようにイエスの言葉に触れていたのかは知りません。しかし、ここには神の視点が関わってくるような気がしてなりません。もしかすると、イエスの言葉を何らかの形で知っていたのではないかと思われてなりません。
 
◆イエスかノーか
 
それはどういうことか。今日は「誓い」というテーマで、イエスの言葉を受け止めてきました。結婚式の「I will.」で見られたように、「誓い」は私が主語となってするものです。私がこう思う、私はするつもりだ、そのような意志が、そこに潜んでいます。私が「する」という意思表明です。そして、そこにしばしば神を持ち出しました。私が「する」ことを神よ保証してください、というような方向性です。
 
しかし、「コペルニクス的転回」を試みると、本当はそうではなさそうだ、ということに気づかされます。私たちが誓うのではなくて、神が私たちに意思を与えるわけです。自分本位で求めることに神を付き合わさせることがよいのではありません。自分の求めることに神を応援させるのではありません。「誓い」は、ともすればそのような方向性の中でなされる営みです。
 
しかし本当は、私たちは問われています。求められています。結婚式だと「Will you 〜?」と問われたからこそ、「I will.」と応えたわけです。それでも、英語ではそこには「私が」という意識が強く現れているように見えます。もしそこに、「Yes」だけが端的に応えられたら、それはもう「私が」どうのこうの、というより広く、また強いきっぱりとした返答がなされているように感じられるかもしれません。
 
37:あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。
 
パウロの第二コリント書(1:17-19)や、ヤコブ書(5:12)にも、このような言い回しが出てくる事から、いろいろ議論されることがあります。何か当時よく使われる表現だったのかもしれません。しかしいまはそれらの箇所との関係について関わることはせず、イエスの言葉を受けましょう。
 
「誓う」のではなくて「Yes」または「No」ときっぱり言うだけで十分だ、とイエスは結論づけました。そう返答したのは、確かに問われたからです。自分から出る思いだけではなくて、外から尋ねられたからです。だから「Yes」または「No」と応えたのです。
 
そう応えるための疑問文は、中1の英語で学びますが、「疑問詞」から始まる疑問文ではありません。何を、どこで、どのように、などと問われたのではなくて、「あなたは〜するか」と問われたからこそ、「Yes」または「No」で応えることになるわけです。
 
私たちは、自分がしたいことを告げ、そのために神を立てるというような方向からではなく、まず私たちが神から問われていること、そしてそれに私たちは「Yes」または「No」で応える立場にある、ということを、しっかりと認めようではありませんか。
 
神は問うています。いま、問うています。神の言葉を聴くか、聴かないか。聖書の中から、神の命令に従うか、従わないか。いま問うています。どのように、などと留保している様子はありません。端的に、どちらなのか、と問うています。
 
神は、あなたの返答を求めています。あなたの心を待っています。それはもはや、私がどうするつもりなのか、というような意味での「誓い」である必要はありません。私たちはただ、「Yes」または「No」を神に返せばようのです。「誓うな」とは言われましたが、その返答は、全く禁じられていないのですから。



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