しるし
2025年9月13日

私たちは、指を指せば、相手はその指先にある離れたところに目をやる。指さしは、その方向を示すサインだからだ。ところが猫に向かって、あっちを見てごらん、と指さしをしても、猫はそちらを見ることはない。ただ指先を見るばかりである。
元々猫が、指先を伸ばせば、そこに関心をもつのは事実である。顔先で指を見せれば、そこに鼻を近づけて、くんくんと臭いを嗅ぐであろう。
だが、猫には、その指が示す方向を見よというサインとしては通じない。これは、さしあたり事実である。
アウグスティヌスが、そうしたサイン、訳語だと「しるし」となっているが、それによって、面白いことを述べている。それを私なりにアレンジすると、こういうことである。キリストを信じている者が何かを言う、あるいは行うが、本人は、それが神を思いながら、神を指し示すかのように話し、また行動をしているものである。ところが、そのキリスト者を見ている相手、神を信じていない相手にとっては、見えるのはその人間だけである。何のためにそれをしているのか、何を思ってしているのか見当もつかず、ただ人間を見るばかりで、神を知ることがないのである。
もちろん、キリスト者は、神の方向を指す指さしをしているのだが、相手からは、猫のように、その指しか見えず、指し示している神に気づくことがない、ということをそれは説いている。
それが神を指している、ということは、同じ神を信じるキリスト者仲間には分かる。その言動は「しるし」となる。だが、神を知らない人には、それは「しるし」とはならない。
キリスト者は、その人自身が偉くなるのではない。立派な人間になることが必要であるわけではない。時には反面教師のようになってもよいかもしれない。ともかくも、そのキリスト者が立派になることが目的ではなく、駄目人間ならば駄目人間でもよいわけであって、ただそれが指し示しているものが神である、というところが大切なのである。
そのためには、キリスト者は神と出会い、神に生かされる喜びを経験していなければなるまい。それが「しるし」として相手に通じるかどうか、それは当人が決めることはできない。ただ、キリストの内にあって、キリストと結びついて、キリストを指し示す存在であるならば、そこに何かある、と感じ取る人も現れることだろう。小さな営みかもしれないが、そこに「証し」が成り立つというのではないかと思う。
言い訳ではない。キリスト者が自分を誇るようなことのないように、そしてただ神に栄光があるように、そうした信仰のために、キリスト者は指し示す指でありたいし、とにかく何らかの看板や標識のようなものであったらいいと願っている。神が聖書の中でなさっていたことも、つまりはそういうことなのかもしれない。