戦争という概念

2025年9月9日

「戦争」を意味する言葉は、聖書にもある。戦争のシーンも描かれる。日本史では、国内の戦いを「乱」とか「変」とか言い、あまり「戦争」という言葉を使わない。やはり対外的な戦いについて用いるのであろう。と思いきや、九州には立派に「西南戦争」という呼び方をする内乱もある。
 
ヨーロッパの歴史には、対外的な「戦争」が多いが、アメリカ合衆国の場合には「南北戦争」という、国内とみてよいような戦いもある。規模の問題であるかもしれないが、「戦い」というような語を使うこともあるし、私にはそれらの差異が分からない。
 
しかし、概ねそれらの戦いは「戦争」というカテゴリーに含めて考える機会が多い。「戦争」について考えるときに、「戦い」と呼ぶからそれは「戦争」ではない、とへそを曲げるようなことは普通しないものだ。
 
そうやって、古代の「戦争」も、20世紀の「世界」と名づけられた「戦争」も、私たちは同じように呼び、「戦争論」の許に考察しようとする。少なくとも、脳裏に思い浮かべるときには、どれも「戦争」と呼んで捉えていることが多いはずである。
 
聖書を眺めると、戦争は度々ある。そのとき、大きく二つのタイプがあるように見える。
 
ひとつは、まずは戦闘に入る前に、相手に降伏を迫る交渉をしておく場合だ。逐一例は挙げないが、予め降伏を要求し、それを呑めば、必要以上の殺戮は行わない。ただ国の権力は譲り渡し、政治的に大国の支配を受け、経済的にもいわば貢ぐような形をとることになる。しかしそれを受け容れないとなれば、攻撃が始まる。あるいは、兵糧攻めを行うこともある。こうなると、人民の生命が危ぶまれる。
 
もうひとつは、予告もなにもなく、いきなり町を攻めるやり方だ。今日はどの町を落とすか、というような感じで戦いに出てゆくような描写があるのだ。もちろん、現実にそのようであったかどうか、保証はない。物語として、そう描いているだけなのかもしれないが、少なくとも書かれている様子からすると、突然襲っている。それは「国」としての戦いというよりは、「町」を滅ぼす、というような感じに見える。城壁から成る都市国家を攻めて領地にしたい場合、住民ごと絶滅させる、というような仕方があったかのように、聖書は描いている。
 
いま私はその背後にある、被害者側の視点というものを考えてみる。平和な日常が、何の予告もなく、一瞬のうちに壊されるのである。現代のように、世界中の情報がネットワーク化されているわけではないから、予兆もないかもしれないし、他国がその侵略や略奪を非難するコメントを出すわけでもない。国連の安保理事会が開かれるわけでもない。
 
いきなり、敵軍が飛び込んできて、住民を刃にかけるのである。聖書は残酷な表現をよく使う。子どもが突き刺され、妊婦が切り裂かれ、と口にするのもおぞましいような書き方がなされている。どこまで本当になされていたか分からないが、全くなかったことをそのように幾度も記すことは、たぶんしないであろう。
 
逆に降伏勧告がある様子は、イスラエルの歴史で幾度かあったらしく、生き生きと様子が描かれている。住民が嘆き、為政者に食ってかかるようなこともある。時間的猶予が与えられただけに、精神的に痛めつけられるのかもしれない。
 
そこで問いかけたいのは、私たち日本人が現代議論することのある、「自衛」や「防衛」という概念である。現代の「戦争」は、古代のものとは異なり、ボタンひとつで国が消滅するような事態が現実のものとなっている。その中で、何かしら古代の「戦争」と同じような根拠だけをもってきて、軍隊が必要だ、という議論に、どのような力があるのか、私には分からない、ということを以て問いかけたいのである。
 
「抑止力」という考え方も、意味がないとは思わないが、「戦争」という言葉を、古代のイメージとつなげているばかりでは、「軍備」や「軍需」というような言葉を使うのも、何かピントがずれていやしないか、と懸念するのである。
 
こうした点を踏まえた上で、「戦争」について議論をする政治家がいてほしい。SNSで思いつきや自分の信念をひたすら主張する一般の人々も、様々な「前提」や「視野」を踏まえた議論に、冷静に参加してほしい。哲学者は、そのような議論の地盤を整える役割を果たす、大切な役割を担っている。



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