教会の将来のために

2025年9月8日

イエスは、故郷ナザレでの伝道に失敗した。説教者は強調する。前回開かれた、マルコ伝6章の初めの出来事である。「ごく僅かの病人に手を置いて癒やされたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(6:5)からである。連続講解説教で前回、そこに触れた。
 
説教者は、「信仰の継承」という言葉を話題に上らせた。教会でしばしば話題に上る「継承」とは、要するに子や孫が信仰をもつようにするにはどうすればよいか、という問題である。教会の将来を支えるためには切実な問題である。外部から新たに信仰をもつようになる人が集まってくることは、だんだん難しくなってきている。それに比べると、家族に、特に子どもが信じるようになるのは、小さい頃には礼拝に連れて来るのが当たり前でもあるだけに、可能性が高いように思われるのであろうか。また、「伝道」というひとつの義務のためには、子どもに対するものがまず身近な第一歩、というふうに考えさせる道があるからかもしれない。
 
しかし、説教者は断ずる。信仰は財産ではない、と。家族を信仰に導けないことで、逆に気後れがするとか、自分はだめだと思うようになるとか、そういうことのマイナスを考えたということなのかもしれない。もちろん、どうでもいい、と軽く見てよい、とも思えない。だが、説教者が注視させたのは、このナザレに於いて、イエスが家族への伝道に失敗したということである。後に兄弟から指導者が現れたのは分かっている。それがどのような経緯であったのか、謎ではあるのだが、とにかくイエスの兄弟が皆イエスから離れたのではない。だが、イエスが伝道している時期、家族はイエスが気が変になったなどと心配している様子も記録されている。
 
大切なことは、しかしそのようなことではない。信仰を生み出すのは、私たち人間ではないし、人間の思惑でもないのだ。信仰を生むのは、神である。押さえておかねばならないことは、この点なのである。
 
今回は、マルコ6:7-13を取り上げた。ここには、弟子たちの伝道の成功が対照的に描かれている、という。「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」からである。このときイエスは、12人の弟子たちを2人ずつの組にし、6組を伝道に出していた。ある人はこれを、「包囲攻撃」という名で呼んだそうである。ナザレでイエスはしくじったが、弟子たちを、周辺地域へ、恰も取り囲むかのように遣わしたのである。そして、悪霊を追い出し、病人を癒やしたという成果をもたらした。但しこのとき、12人の弟子たちが「悔い改めを宣べ伝えた」というところも、実は重要である。
 
「悔い改め」というのは、日本語だと、悔やむことくらいに見えるかもしれない。だが実は、もちろん元の言葉のニュアンスからすれば、方向転換である。神に背を向けていた者が、神の方に向き直るのである。「改め」とは、自分の行いを改めるというようなことではなく、この「向きを換える」ことだと理解されなければならない。
 
この「悔い改め」について、説教者は、「本来の場に還る」という観点を呈した。そして、そのためには、私たちに「還る場所がある」という前提を確認しておく必要がある。この場で、マルコ伝は「弟子」というよりも「12人」という数字を際立たせているが、それはイスラエル12部族を意識させるためではないか、と説教者は告げた。これは、私たちが、パウロの言う「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)、すなわち「新しいイスラエル」であるのだ、という自覚へと促されてゆくべきことを意味しているのではないか。
 
だからマルコ伝はきっとそうなのだが、この福音書を一度読み終わった時点から、読者とイエスの出会いの物語が始まることが想定されているに違いないのだ。私たちが「新しいイスラエル」として、福音書を二度目に読むときから、そこに参加し、また登場してゆくという構造になっているのだ。
 
「預言者ではなく、預言者の弟子でもない」(アモス7:14)と自分を紹介したアモスは、その件から農夫のような立場にいたことが知られている。もちろん私たちは、その言葉が神からのものとしての「預言」であると認め、アモスを「預言者」と呼ぶ。説教者は、これはいまで言うならば「説教者」がまずは近い存在だろうと言う。
 
そして、ひとが神を信じるに至る道は、自分から聖書を読んで信じた、というよりも、神を信じる者が誰かいて、その人を通じて教会に導かれることが多いのではないか、と言った。日本では特にそうなのであろうか。残念ながら、私の場合はその少数派の場合である。聖書の中で、打ちのめされ、神の前に引きずり出された。だから、人を通じてということももちろんあるだろうが、神は実に様々な道を、それぞれのひとに用意しているものだ、と思っている。
 
そのどちらであれ、説教者には分かっている。救われるという経験は、「この私にもイエス・キリストが出会ってくださった」という経験と重なるのだ。そしてそのとき、私には確かに「還る場」があるのである。その私が、イエスから宣教命令を受けるというのは適切な信徒生活であるのだが、それは立派な人間になるという目的と一致するものではない。説教者は、「あなたのままで行け」との宣教の餞を贈る。
 
ここで説教者は、恩師のひとりの言葉を提供した。それは私は確か聞いたことがあった。この説教者の説教からであったかもしれないし、その先生か先生に関する本で見たのかもしれない。正確な引用はいま難しいので、ぼんやりとした形で再現するが、それは、この世でのキリスト者のはたらきのための心構えのようなものであった。「イエスの命を受けたスパイとして、あなたは、置かれたところで、愛の爆弾をこっそり仕掛けておきなさい」というようなものである。いい言葉だなあとしみじみ思う。もちろん物騒な喩えであり、戦争の最中深刻な場面では使えない表現であるとも思う。平和な場面だからこそ、こんな「闘い」の語が気軽に使えるのかもしれないから、TPOは弁えなければならない。しかし、キリスト者であることをわざわざ隠せ、というような意味でないのであれば、私もその意図には賛同する。私自身が愛になるのは無理だろうが、愛が香るような仕掛けを準備しておくことなら、やっていると言えるかもしれない。本当にそれをするならば、総統に忍耐が必要であるだろう、とは思うけれども。
 
マルコ伝の場面で、弟子たちの伝道は成功したように見える。偉ぶった態度をとったのではないだろう。彼らはただ宣べ伝えたのだ。「悔い改め」を求めたのだ。その上で、「病人を癒やした」という。但しイエスの方法とは異なる。「油を塗って」癒やしたのだ。昔のことだ。病気の原因も分からない中で、ちょっと清潔にするとか、甘い水分を与えるとかで、病状が改善することはあっただろう。油を塗るだけで、皮膚の乾燥が抑えられ、清潔さが保たれることがあったかもしれない。そういう教育をイエスから受けておけば、実際に役立つこともあっただろう。
 
ここから説教者は、弟子たちの成果のもうひとつの側面を挙げ、それをテーマに説教の最後までを語り尽くすこととなった。それは、弟子たちが「多くの悪霊を追い出し」た、という点である。
 
これは私も幾度か他の機会に繰り返し語っていることなのだが、「悪霊(悪魔)」について語る説教が、教会全体で明らかに減っている。説教者もそれを指摘した。そして、もし説教で「悪魔」という言葉を大声で取り上げたならば、それに対抗する正義の側に自分がいる、という前提で説教しているようなことが多い、と憂う。これも私がよく考えていることだ。要するに、「自分の罪が分からない」空気が立ちこめているのである。
 
そうでなくても、一般に、悪霊について語ることについて臆病になっている。説教者はそこを懸念する。私はこれを聞いて、すぐにルターのことが頭に浮かんだ。というのは、最近ルターの『卓上語録』を読んだが、そこにはたんまりと悪魔についてのルターの姿勢が描かれていたからだ。『卓上語録』というのは、ルターが招いた人々が、ルターがラフなスタイルが語ったことを記録していたものを編集したものである。
 
それまで私は、例のインク壺のエピソードくらいしか知らなかった。その痕が、ザクセン選帝侯にかくまわれて新約聖書を訳していた部屋にあったが、観光客が剥がしてそれが消えたなどという話も聞いたことがあった。だが、ルターは日常で、悪魔に対して様々なツ源をしていた。「死、恐怖、殺害、偽りなどのすべては悪魔の仕業である」というようなきちんとした声もあるが、「わたしはしばしばサタンを放屁で追い払った」というような、ユニークなものもある。しかし、自分の病気が「悪魔により重くされている」と自覚し、神に祈るような場面もあった。
 
説教者もまた、やがてルターの名を出した。それから、ボンヘッファーが、その悪魔の働きを、社会やこの世界の中に指摘していたことも加えた。ナチスの言葉は魅惑的で、世の人々が惹かれていくのは分からないでもない。だが、その背後にある悪魔の策略を見抜く眼差しと、自分は神に従うのだ、という信仰の重要さを強調するべきなのであった。
 
私はふと、ブルームハルト父子のことも思い起こした。霊的なはたらきにおいて、この父子の経験は、振り返る価値がある。しかし、この説教でそれは言及する必要がなかった。霊的な現象について深入りする必要はなかったからだ。個人的な体験のルターと、社会的な視座をもつボンヘッファーについて触れれば十分であった。
 
このボンヘッファーの指摘について、説教者は直接は言及はしないが、もしかすると脳裏に想定しているものがあるのではないか、と私は考えていた。牧師の説教の中には、講壇で政治的な発言を繰り返すものもある。他方ある牧師は、それはしない、と宣言していた。というのは、会衆の中にはいろいろな政治的な判断をする人がいるため、神の名を借りて、どれそれの政治思想が悪だ、というような方向性をもたせるようなことを言うべきではない、とのポリシーを明らかにしていたのである。
 
この説教に於いて、耳のある者には分かったのではないか。いま日本の中に、その危険性が漂っていることが。また、説教者もそれを伝えようとしたかもしれない、と思うのだが、これは推測に過ぎないので、そうなのだ、と決めつけるつもりは、いま私にはない。
 
説教者は、ローマ書7章のパウロの煩悶のことを取り上げた。その論をここで再現する必要はないであろう。自分がどうしてあれほど惨めだとパウロが言ったのか。キリスト者と雖も、常に悪魔の攻撃に晒されているのだ。悪魔は、城を落とす機会を狙っているのだ。
 
キリスト教会で活躍する。世の中の出来事が、聖書からすると如何に愚かであるか、説教からも聞くし、読んでいるとよく気づく。ほら、世の人々は、聖書のこれか分かっていない、神を知らないからああなのだ。いつの間にか、無条件に、自分が正義の味方になっている。自分の考えは神に保証されており、自分は正義そのものであるかのように錯覚してしまう。教会に来ていない人々を「ノンクリスチャン」と、どこか貶めたレッテルを貼って呼び、罪にまみれて喜びなど知らない、などと、知らず識らずのうちに見下している。具合の悪いことに、そのようにしている自分の有様について自覚することすらない。いつしか、自分で自分を神としていることに、気づかないであるのだ。
 
と、このように指摘してみたところで、指摘している私は、私の指摘を正しいと思い込んでおり、私は正しい指摘をしているのだ、と思い込んでしまっている――そういう構造も成り立つのである。では「そのこと」を誰がどのように認識するのか……。ここに無限後退が起こる。説教者の表現からすると、「サタンは外にいて私たちを乗っ取ろうとしている」という危ない構図が、そこにあるということなのかもしれない。「私」はいつまでたっても、安定した立場を得られない。それでいて、何かを指摘するということに、意味がないわけではない。悪魔について語ることに、臆病になっているままではいられないのだ。
 
説教者は、そのループからのひとつの脱臭の可能性を提言する。それは「喜び」である。イエス・キリストは、喜びのお方である。救いの喜びが与えられているだろうか。信仰と希望と愛が、私たちを支える3本の柱になっているだろうか。
 
説教者は、現状の教会の姿に悲観する呟きに反対する。少子高齢化もあるし、教会の「教勢」というものを見ると、貧相で尻すぼみになっている。だから、やがて教会というものは滅んでしまうだろう、と予言する人がいるからだ。そしてその予言が当たるだろうと構えているからだ。しかし説教者は、この二千年、たとえくすぶり続けても、灯が消えることのなかった、イエス・キリストの命がいまなお輝いているではないか、と叫ぶ。イエス・キリストは、そしてイエス・キリストの与える命は、決して枯れ果てないのだ、と叫ぶのである。
 
だから神を失った世界は、確かに滅びるかもしれない。あるいは、滅びるしかないのだろう。そこにあるのは、他者への愛や希望を失った世界である。だが、愛は滅びない。イエス・キリストの命は永遠である。私たちは、そういう世界に対して、「不器用に福音を語り続ける」のだ。
 
説教者はそのようにして説教を閉じたが、私はその余韻の中で、こんなことも考えていた。サタンが悔しいと思うことは何だろうか――それは、今日聞いた中では、人間の「悔い改め」ではないか。神に立ち帰ること、そこに、悪霊との闘いについての、ひとつの鍵を意識するとよいのではないか。そのようなことを、しばらく考えていた。



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