【メッセージ】カンインするなと聞いて何を思う
2025年9月7日

(マタイ5:27-32, ホセア4:1-19)
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。(マタイ5:27-28)
◆姦淫とは何か
マタイ伝の「山上の説教」を少しずつ読んでいます。ここまで、「神の義」や「和解」というような教えを受けてきましたが、こうした話題から一度飛躍するような形で、イエスは衝撃的な言葉を告げます。「姦淫するな」という律法についてです。今日はこの「姦淫」という言葉をテーマに聖書の言葉を受けることにします。
27:「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28:しかし、私は言っておく。
「しかし、私は言っておく」については、前回少しお話を致しました。旧来の律法、世間の常識的な理解を転覆するような角度で、イエスの新たな教えを語るときに、特にマタイ伝でよく使われるフレーズです。
それにしても、もしかすると、この「姦淫」という言葉の意味が伝わっていない場合があるかもしれません。耳で聞いた「カンイン」とカタカナのままにのみ聞こえるかもしれません。この律法は、いわゆる「十戒」の中央過ぎに、そのまま簡潔な表現で登場します。
姦淫してはならない。(出エジプト20:14,申命記5:18)
もしかすると、十戒の最後の項目とつながるものがあるかもしれません。そこには「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト20:17)という掟がありました。
しかしこれでは、「妻」が所有物、財産であるかのように並べられていますが、よいのでしょうか。このことは、後で少し触れることになります。
思えば創世記38:24にも、「姦淫」の罪の指摘がありました。ユダは、ヤコブの子のうちの有力な一人でしたが、二人の息子を失います。その場面には有名な逸話がありますが、いまは割愛します。息子の嫁だったタマルに、次の息子の嫁になるためにしばらくやもめとして暮らせと命じますが、タマルは娼婦の真似をして、ユダと交わります。
そのことで、3か月後にユダに密告が入ります。「あなたの嫁タマルは売春をしました。しかも、売春によって身ごもっています。」(創世記38:24) まだ律法もなかった時代でしょうが、ユダは怒り、「あの女を引きずり出し、焼き殺してしまえ」と言います。しかし、タマルはその妊娠の相手がユダであることを証拠立て、許されて双子を出産します。
「姦淫」とはそういうことです。婚姻関係に基づかない、男女の性的関係のことです。少し、伝わりましたでしょうか。まだこれからもいろいろ述べてゆきますので、だんだんご理解くださいませ。
姦淫については、レビ記20:10で「人が他の人の妻と姦淫するなら、すなわち隣人の妻と姦淫するなら、姦淫した男も女も必ず死ななければならない」と、明確に死刑が定められています。いまの場合、ユダも死刑となる羽目でした。その他、申命記の22章では、いっそう具体的に規定が並べられていますが、たとえば「ある人が夫のいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も、二人とも死ななければならない」(22:22)とされています。教会の礼拝説教では、まずめったに取り上げられることのない箇所でしょう。
◆預言者ホセア
「姦淫」は、人間の性的な領域に関する問題でした。しかし、旧約聖書では、これを恰も比喩であるかのようにして、神と人間との関係について用いる機会の方が、確実に多いように見受けられます。早速その出エジプト記34章でも扱われています。
15:あなたは、その地の住民と契約を結んではならない。彼らはその神々に従って淫らなことをし、いけにえを献げ、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。
16:また、その娘たちをあなたの息子たちの妻に迎えると、その娘たちはその神々を慕って淫らな行いをし、あなたの息子たちを自分たちの神々に従わせ、淫らな行いをさせるようになる。
ここで「淫らな行い」は、性的な行為のことではありません。イスラエルの神である主と異なる、他の神々を求め、礼拝することです。「モーセ五書」などと呼ばれる「律法」の中では、確かに実際的な姦淫行為が描かれていることが多いのですが、士師記になると、神と人との関係についてのみ言われるようになります。実は、聖書協会共同訳では、それまでの「姦淫」の語を避けて、先ほどのように「淫らな行い」というように訳し変えられていますので、「姦淫」の語を調べたい方は、新共同訳で見て戴くと分かりやすいかもしれません。
やがて、イスラエルで「姦淫」という問題は、主でない他の神々を恋慕うこと、主に背を向けて他の神々を信仰することを意味するように、一気に傾いてゆきます。大きな預言書であるイザヤ書やエレミヤ書になると、もう「姦淫」とはそのような宗教的な意味の他は持ち得なくなるほどになっています。そしてエゼキエル書では、この「姦淫」問題こそが、預言書全体のテーマとなっているようにすら見えます。
そして、最も重たい意味で「姦淫」を扱ったのが、今日お開きしたホセア書です。なにせ、預言者ホセア自身がその当事者なのです。被害者のようになっています。さらに、神からとてつもないことを命じられます。ざっと辿ることにしましょう。
ホセアは主から、「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ」(1:2)といきなり命じられます。ホセアは直ちに行動し、「ディブライムの娘ゴメルをめとった」(1:3)のでした。ゴメルは次々と三人の子を産みます。ちょっと見ると、ホセアの子であるかのようにも見えますが、主は「淫行の子らを引き取れ」と言っていました。どうやらこれらは他の男の子どもであると見る方が適切であろうと思われます。さらに、「行って、ほかの男に愛され、姦淫を繰り返す女を愛せよ」(3:1)とも言われます。もうどうしようもない女です。だのに、ホセアはおとなしく主の言うままに従っているようにしか見えません。見上げたものです。
これが、よく知られたホセア書の内容です。しかしこれはほんの入口に過ぎず、結局ホセア書は、神と人との間の問題を延々と伝えることになります。この最初の逸話の部分でさえ、このように書かれていました。「行って、淫行の女をめとり/淫行の子らを引き取れ。/この地は甚だしく淫行にまみれ/主に背いているからである。」(1:2)
これを見ると、ホセアに命じられた行動も、イスラエルが主に背いていることが理由になっていたことが分かります。最初から、イスラエルの信仰の問題だったのです。それを体験させるべく、ホセアには辛い運命を与えたかのようにも見えます。妻の不貞に半ばオロオロしているようなホセアに対して、神は、イスラエルの不信についてそこから幾度も繰り返すようになりました。ここから、ホセア書4章に従って読むことにしましょう。
◆他の神々との淫行
1:イスラエルの子らよ、主の言葉を聞け。/この地に住む者を主は告発する。/この地には真実も慈しみもなく/神を知ることもないからだ。
2:呪いと偽り、殺人と盗み、そして姦淫がはびこり/流血に流血が続いている。
確かにこの「姦淫」は、人間の間の出来事であるように見えます。確かにそれもはびこっているわけです。イスラエルの民は神を忘れ、自分たちの考えで世を治めてそれでよしとしています。そこで、「彼らは増えるにつれ/私に罪を犯すようになった。/彼らの栄光を私は恥に変える」と、主は措置を述べます。
主に対する「罪」とは、どういうことなのかというと、「わが民は木に伺いを立て/その枝に指示を仰ぐ。/淫行の霊に唆され/彼らはその神を離れて淫行にふける」と、かなり具体的な描写がなされています。
これはいかにも「偶像礼拝」の様子です。神ならぬものを神として神の像をつくり、その形ある像を神だと見なして拝むことです。これは、「淫行の霊」に唆されてやっていることなのだ、とホセアは指摘しています。さしずめ、悪魔がそれをさせている、というような意味なのでしょうが、具体的に「淫行の霊」という呼び名を以て、神でないものへと誘う霊的な存在を暗示しています。あ、もちろん「淫行」というのは、姦淫を行うことを謂います。
13:山々の頂で彼らはいけにえを献げ/もろもろの丘で香をたく。/樫の木、白ポプラ、テレビンの木陰は心地よく/あなたがたの娘は淫行にふけり/あなたがたの嫁は姦淫をしている。
こうして、さらに具体的な表現をとってきます。人間に於ける醜い「淫行」をイメージの材料に使って、人が神を裏切るということは、それと同様に醜いことであること、とことん背反する悪であることを突きつけるかのようです。
ホセアは、ただその悪の醜いことを突きつけてよしとはしません。神もまた、おまえはそんなふうにざまあないではないか、と悪口を言っておしまい、とするつもりはなさそうです。そうなると、神が裁きを下して、痛めつけるようなことをするのでしょうか。
14:だが、娘たちが淫行にふけっても/嫁たちが姦淫をしても、私は罰しない。/男たちも遊女らと一緒になって離反し/神殿娼婦らと共にいけにえを献げるからだ。/悟りのない民は滅びる。
神は「罰しない」と言います。けれども、「滅びる」という予告が不気味です。神が自らいきり立って罰を下すのではなく、もうそういう者は放っておいても滅びる、ということなのでしょうか。人間的に考えても、こういう処罰は実に厳しい、嫌なもののように思われます。
◆姦通罪
こうして預言者の書では、イスラエルが神を裏切って離れたことが、「姦淫」という一種の比喩によって表現され、盛んに「姦淫」の路線でイスラエルの姿を突きつけるようなことをするようになりました。しかし、新約聖書の時代になると、記者たちは、神と人との関係に於いて「姦淫」という言葉を用いることは、殆どなくなります。基本的に新約聖書では、律法に本来書かれていた、人間社会に於ける男女の間の出来事について、「姦淫」という語を用いるようになっています。
ですから、山上の説教に於いてイエスが持ち出した「姦淫するな」は、象徴的な意味ではありません。人間社会の夫婦の間の問題として、姦淫行為をしてはならない、ということについて言われていることになっているのだと思います。
「姦淫」それは「不貞」とも呼ばれ得るものでしょう。もしかすると細かな定義は違うかもしれませんが、昔はそのように言われていました。が、この何十年かは、専ら「不倫」という名が通り、あまり罪悪感を伴わないものにも見られているように感じられます。「不倫は文化だ」という言葉が流行したことがありました。ここのところは「略奪愛」だなどと、むしろそれで勝てばよい、というようにも聞こえる言葉が散見されます。
そこには、一夫一婦制が導く扉もあるでしょう。一夫多妻が必ずしも悪だと呼べないことは、女性が単独では生活してゆけない社会があるとき、そこには生活を支える働きもあると言われるからです。社会制度を大きく見つめる眼差しも必要であり、「不倫」が文化であるかどうかは別として、単純に裁けない問題を含んでいるように思われます。
女性がひとつの財産であるからこそ、財産を奪われることについては、厳しい罰が待ち受けている、というような捉え方も可能になるわけで、旧約聖書の世界も、そうした角度から捉えるべきだ、と言う人もいます。確かに、そこに書かれたことをつないでゆくと、そういうことになることも理解できます。
だから、と言うべきかしれませんが、かつては「姦通罪」というものが、世界に広くありました。日本では「不義密通」という言葉もありました。その現場を見つけた夫は、その妻と相手の男を、殺害しても罪には問われなかった、ということもあると聞きました。
明治期の日本の法律では、こうした件で告訴ができるのは夫だけで、妻はできませんでした。夫のある女にとっては犯罪でしたが、妻をもつ夫が独身の女と通じても、犯罪には問われなかった、とも言われています。
太平洋戦争の地の日本国憲法ができてからは、この問題もいろいろ検討されてから、やがて「姦通罪」は廃止されるに至りました。
イスラも諸国やアフリカの一部の国などでは、現在も厳しい処罰が伴う場合があるそうです。アメリカ合衆国に於いても、州によっては犯罪となるようになっているように聞きます。但し、世界的に見ると、概ね、姦通は罪に問われなくなる傾向にあるようにも見られます。
もちろん、民事的には当然何か責任が伴う場合があるでしょう。かつて女の側に不利だった「姦通罪」は、女が男の「財産」であるからこその法律であったかもしれない、という点についても、再度触れておくことにしましょう。
◆イエスの要求
ところで、ここまでゆっくりと見てきたのは、旧約の律法規定にあった「姦淫するな」についてでした。イエスは、「しかし、私は言っておく」と言って、それをある意味で否定して、新たな次元の教えを拓いたのでした。その新たな教えについては、まだここまででは何も触れていません。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている」というところまでを、辿ってきたに過ぎません。
「しかし、私は言っておく」と前置きすることにより、イエスは次元の異なる神の言葉をもたらそうとします。
28:しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。
そうです。これが、世の男たちを震え上がらせたのです。男目線に過ぎない規定ですが、男による男のための法律だ云々ということは、いまは棚上げにさせておいてください。そもそも聖書が、男社会の男目線で言葉を綴っている点が多数あって、それをいまフェミニズムの視点で一つひとつ改めようとするならば、殆ど先へ踏み出すことができません。その道の方には、少しだけ辛抱して戴きたいと願います。
もしご理解戴けるならば、こうして言われていることの、男女をそれぞれ入れ替えて読む可能性が試してくだされば、とも思います。誤魔化したような言い方ですまないのですが。また、問題は従来の「男」と「女」という呼び方ですべて当たり前のように流してそれでよいのか、という点にもあるのが現代の私たちの見方です。
ところで、イエスが「しかし、私は」と告げたこと、つまり「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯した」と見なされてしまうのは、殆ど私たち普通の男たちを絶望に陥らせるような教えであるように思われます。そうは思いませんか。
通常の法律は、行為に移せば犯罪要件を満たしますが、心の内で思っているだけで行動しなければ、罰されることはありません。何かやってしまえば、その動機が問われ、過失か故意かによって量刑が変わることはあります。が、何もしていない限り、動機だけでしょっ引かれることはありません。
それがなされていたのが、戦時中の「思想犯」です。動機があれば拷問も可能になります。拷問によって動機を自白させれば、後はどうとでもできたわけです。イエスの動機を問う仕方はそれとは違います。「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル上16:7)と、ダビデを選んだときのエピソードも思い起こされます。
しかし新約聖書の最初のマタイ伝で、しかも有名な「山上の説教」が始まって間もなく、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯した」とイエスに突きつけられると、男はたまりません。せっかくキリスト教を信じてみようかと思い立って聖書を読み始めた男は、このイエスの言葉に挫折しかねません。心が挫かれます。
罪が赦される、と聞いて喜んで聖書を読み始めると、自分はやっぱり罪から逃れられないことを突きつけられるのです。これはもう這い上がれません。
信者の中には、抜け道を見つけようとする人がいます。「ここで女と呼んでいるのは、人妻のことを指す。女性に誰でも色目を使うことまでは禁じていない。妻は夫の財産だから、それに目を向けることが罪だというのは、当時の考え方ではあるが、よく分かる。イエスもまた、人妻を欲しいという目で見る動機を戒めているに過ぎない」などと、冗舌な説明をするのです。
それでも、そういう説明はなんだか嘘っぽい、と考えて、キリスト教を棄てた――というのなら、ある意味ではとても真面目で、正直なことであるのかもしれません。「そんなことは無理だ。イエスの言うことに従うのは不可能だ」と開き直った人がいるかもしれません。でもこれは、質が悪いことがあります。聖書という者について、あるときは自分の気に入るように読むのが正しい、という原則を立てることによって、聖書を恣意的に読むことを良しとしてしまうかもしれないからです。
聖書のここは正しいと思う。聖書のこれは時代に合わないから無視しよう。そんなふうに、自分の読み方が正しいものと自分に言い聞かせるようになるでしょう。特定の「神学」には、そうした動機が隠れた形で潜み、その原理で動いている場合もあるのではないか、と私は勘ぐることがあります。
◆体の一部
28:しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。
強烈でした。でもイエスが、もしもこれだけで言うことを止めていたら、確かに、いま挙げたようなストーリーは起こり得ることなのかもしれません。でも、ここでイエスの言葉はさらに続いています。
29:右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。
30:右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。
よく読むと、つまずかせるものが自分の中にあることについて、イエスは否定していないのです。右の目がつまずかせることがある。その前提で話を進めています。情欲を抱いて女を見ることから、一切無縁の、浄化された魂になれ、と言っているようには見えません。
他方、右の手があなたをつまずかせる、という件もありました。姦淫について右の手が関わるというのは、実際に姦淫を行動に移した、ということを意味するのでしょうか。そうかもしれません。それならば、やってしまったことについても、イエスは何か解決策をもたらそうとしているのではないか、とも思えます。
それにしても、目をえぐり出して捨てよ、手を切り取って捨てよ、というのはやっぱり過激です。これをその表現通り、文字通りにするというのは勇気が要るでしょう。いえ、何かしらのレトリックだと、きっと誰もが思うでしょう。イエスは文字通りの残虐な行為を望んでいるのではないと思います。
ここに繰り返されているのは、「体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである」という表現です。そしてイエスは、この言葉で言葉を締め括っています。それで話を終えるのです。
ここでいう「ゲヘナ」には、当時の人々には、実際の場所について一定の理解があったと聞いています。しかしいまは、通俗的に「地獄」とでも呼んでおきましょう。体の一部がなくなっても、あなたのすべてが地獄行きになることは避けられる。イエスはそのように言ったのかもしれません。罪を犯す目、あるいは手をなくして、あなたの体の大切なところは地獄に行くな、と言っているように聞こえてきます。
そして問題は、その「体の一部」とは何か、ということです。
◆姦淫と離縁
姦淫についてのイエスの言葉はいま終わったように見えましたが、これに続く教えにも目を注ぐことにします。離縁の話です。これもひとつの流れの中にあるもの、と考えることは可能だと思います。というのは、そこに「姦淫」という言葉が現れるからです。
31:「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言われている。
32:しかし、私は言っておく。淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることになる。離縁された女と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる。」
イエスが引用した律法は、たぶん申命記24:1-4であろうと思われます。
1:ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。
2:その女が家を出て、他の男の妻となったが、
3:次の夫も彼女を嫌い、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせるか、あるいは、彼女を妻に迎えた男が死んだ場合、
4:そのどちらの場合でも、彼女を去らせた最初の夫は、彼女が汚された後で、彼女を再びめとり、妻にすることはできない。これは主の前に忌むべきことである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与える地に罪をもたらしてはならない。
偶々「姦淫」と「離縁」とをマタイが並べたに過ぎない。そのように捉えてもよいかもしれません。「淫らな行い」は漢語だと「淫行」になります。これは現代の法律にも用いられており、よく知られています。「淫行」だと離縁も仕方がない。でも、「淫行」ではない他の理由で妻を離縁することはできない、と言っているように聞こえます。それは「姦淫の罪」を犯させることになってしまうと言うのです。妻が気に入らないから離縁してよい、という男の身勝手な振舞を禁じているのかもしれません。
創世記では、まず男が創られたということになっています。それから「助け手」(2:18)として女が創られます。「男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(2:24)は、深く考えてゆくとなかなか重い言葉です。ともかく聖書は、このように男と女とが結ばれて一体となる、という文化を有しています。
果たしてそれは男女に限るべきなのか、いまの社会は問われています。生物学的に男なのか女なのか、そうした難しい問題も潜んでいます。但し、社会で問題になっているのは、制度の問題が大きいようにも見えます。聖書が掲げる意味の「結婚」概念を覆そうというよりも、パートナーとの暮らしが、社会的権利を有するものであってほしい、という声が強く出されているような気がするのです。その社会生活が「男女」に限るとすることでよいのか。そこが問題であるのならば、宗教的な次元での「男女」とは、一旦切り離して、区別して考える余地があるのではないか、と思うのです。
戻りましょう。不条理に離縁された女が別の男の結婚したときに、そこに「姦淫の罪」が成立する、とイエスは言いました。安易に離婚を成立させない、という意味なのでしょうか。何かイスラエルの法律や習慣に関係することなのでしょうか。研究者に教えて戴きたいと思います。
そういう曖昧な知識の中で、今日聞いてきたことを振り返ります。「姦淫」は、イエスに於いて、神と人との関係を詮索するようには扱われませんでした。極めて現実的に、人間関係の中で、特に男女関係や結婚にまつわることとして、捉えられていたように思われます。
でも、その背景に、神と人との関係を見ていた旧約聖書の文化がなかった、と決める必要はないと考えます。ただ、ファリサイ派の人々や律法学者が、自分たちは実生活に於いて庶民に優越しているぞと見せかけるために、「姦淫するな」「離縁状を渡せ」などの条項を強調していたように推測します。
いいのです。エリートたちが威張っていても。それよりも、私たちは、なくしてはならない「体全体」とは何か、見つけにかからなければなりません。逆に、失ってもよい「体の一部」についても、イエスからそれは何かと問われているような気がしてなりません。
あなたがなくしてしまった方がよい「体の一部」とは何ですか。地獄に「全身」が行くのは避けたいものですが、その「全身」ではない「体の一部」とは何でしょうか。単に情欲云々で停止しないで、その先にあったイエスの問いかけ、「体の一部」とは何かという問いかけを、もう少し心に懐き続けていることが必要ではないかと思うのです。その答えを一律に掲げようとは思いません。それぞれの人が、自分の「体の一部」について、考え続け、祈り続けて戴きたいのです。