自己愛への警告
2025年9月7日

「いろいろ思うと、マイナスの要素が自分の心にもあるかもしれない。明るい目標をつくろう。神様にお祈りするとよいと思う。すべてがうまくいきますように。」
1か月ほど前の、ある人物の呟きを、少し言葉を換えて掲げてみた。全世界に発信している。これだけ見ると、別段どうということもなく、可愛らしい呟きであるようにも見えるだろう。そう。この部分だけを見ても、他愛もないことを自由に述べているだけのようでしかない。
だが、この人物がふだんどういうことを一日中呟き、これまでどういうことをしてきたか、そして私に対してどのようなことをしたか、そうしたことを含み入れるとなると、捨て置けない事情がある。
なにも、個人攻撃をしようとするのではない。また、プライバシーを晒すつもりもない。だから具体的には明かさないことにするつもりである。
ただこの人物が、自分は説教を何年も聞いたとか自慢しているにも拘わらず、聖書について実は無知であり、罪も救いもよく分からないことは、その無数の呟きを見れば明らかである。およそ信仰などもたないにも拘らず、自分は聖書に詳しくて、やがて神学校にでも入ろうかと計画していること、日々名の知れた人の誹謗中傷を朝から晩までSNSでばらまいていること、それから最大の問題は、自己愛という点でノーマルとは言えない性格をもっているということと、さらに具合の悪いことに、その自覚がない、ということである。
私自身、尋常ならぬその人物の自己愛のために、理不尽な仕打ちを受けたことがある。恐らくそれは、私がその人の提案に一度反対意見を言ったために攻撃してきたのであろうと思われる。
自分のすることに、少しでも何か言われたら、一見温厚な普段の性格が一変するのである。そのため、軽い冗談をその人に向けた牧師に対して根に持ったその人物は、好機を見出すと激しい非難を浴びせ、ついには教会をばらばらに壊してしまったのである。しかも、自分は教会で酷い目に遭った被害者だ、と思い込み、あちこちの教会を巡り始めた。その呟きを見る限り、嘘をうわべに、自己愛を満たす教会を求めているようにしか見えない。
最初の引用も、少しばかり自分の思うようにならないことがあって、それがうまくゆくように、と祈ったというが、何万とあるその呟きに、祈ったということが書かれているのは、これが唯一である。とても教会で役員をしていたような人物の祈りとは信じられないであろう。
自分の罪も赦しも、一言も書かない。いや、書けないのである。知らないからだ。聖書については幼稚な知識しかないが、救いという言葉も自分に関しては何も出てこない。そして、自分の政治的思想に反対の人々をただぼろくそにけなすヘイトと言ってよい呟きと、自身の差別主義を露呈するような呟きを、毎日よくぞこれだけの量を、と呆れるほどに公表している。また、公職のような仕事場の秘密のようなものもかなり呟いているので、そこにも実は問題がある。
結局、その筆舌尽くしがたい非難に関して、私は家族を守るためにその教会を飛び出したのだった。それでも、私はその教会に残り、なんとか灯を灯し続けている方々に対して、申し訳ない気持ちばかりしかもっていない。私もまた、その教会に対して、加害者となったに等しいからだ。私がかつてそれこそ無知であったために、この人物に投票していたことが、悔やまれてならない。一生の不覚とまでに思っている。教会を破壊した責任の一端は私にもあるのだ。当時はそれが見抜けなかった。
自己愛というものの恐ろしさを知ったのは、そのときが初めてではない。それ以前にも、自己愛的なことで、心に問題をもつ自分の意に適う、歪んだ「福音」から教会をすっかり変えようとした「牧師」から逃げ出したことがある。否、そもそも最初の教会からして、ずいぶんと偏った激しいところであったことで、そこにはいられなくなったのであった。
それでも、そこに私が呼ばれた意味はあった。だからその導きを何かの間違いだ、などと思うつもりは全くない。また、様々な経験を重ねる中で、安穏と恵まれた教会生活の中で、聖書を読めば教会が教えていることは違う、という炎が燃え立つようになり、一生を懸けて自説を広めようとするのもまた、一種の自己愛なのだと知るようになった。
それよりも、自分の罪に慄き、神の前に跪き、目の前のささやかな平和を求め、少しでも自己を棄てることを祈り願い、しかも上からの喜びを受けて歩む、小さな人々の中に、尊いものを見出すようになっていった。神と罪と赦し、それは如何にも「福音派」らしい看板に書かれた文字のようではあるが、誠実な人をキリストの弟子として尊重する、大切な視座であるように思えてならない。
そう言う私にもまた、自己愛が存在することを拭えない、と思っている。厳しい眼差しを自分に向けたいとは願っているが、それでも、人には自分可愛さというものがある。それを否定はしない。否定はできないであろう。それでも、否、だからこそ、自己愛というものの怖さについて、警告を発することは、あってもよいのではないか、と考えている。考えていたい。