学力低下

2025年9月3日

多少無責任な発言になるかと思う。
 
私は、新聞が書き立てる「学力低下」の言葉に、疑問をもっている。文科相が実施している、いわゆる「全国学力テスト」について何がどうだ、という報道がある歳、「学力低下」という見出しを立てることが、当たり前になっていることについて、である。
 
そして、お決まりのように、コンピュータ系のゲームやスマートフォンが、その原因であるように報道する。そして、教育制度の怠慢もその原因であると言い、「学習意欲を引き出せていない」と批判する。子どもが、「自発的に学ぶ力と意欲を育む」べきだ、と謂うのである。そしてそのために、「学習指導要領の改訂」をせよ、と迫る。
 
もしも、私立系の受験のために、どのくらい難しい問題を訓練しているか、ということになると、この四半世紀、確実に、問題は易しくなっている。しかしまた、ごく一部の学校については、問題の質を以前と比べてそれほど落としていない、とは言えるだろう。
 
まず、それが一般的傾向である。
 
それから、その低下している「学力」というものが、「平均値」を指しているのだとしたら、それだけで測ってはならないことくらいは、常識であろう。高い「学力」必要としないままに、情報機器が発達してきたのは事実なのだ。自分の頭で独自の思考を組み立て、そのためにまた多くの知識をインプットしていつでも利用できるように理解をこなしておく、という必要が薄れてきているのである。
 
怖いのは、そうした情報に左右されている中で、「これは自分で考えて決めたことだ」との思い込みが突き進むことである。まるで、洗脳されていなから、自分の意志です、と証言するようなものである。
 
情報機器なしの状態で、たくさんの情報を頭に収めておき、答えのある目の前の問題を自ら処理してゆくことが、いま調べられている「学力」であるのなら、その成果は間違いなく、みるみる低下してゆくことだろう。もちろん、ふだんからの機器の利用のために、一部の知識は身につくことがある。教育アプリを用いて、反射的に英単語の暗記をクリアしていくのは能率的であるかもしれない。けれどもそれだけで、英文で書かれた思想を読み取ることにつながる結果となるわけではない。
 
植物も動物も、接したことがなく、関心がない。親世代が、接触させることを意識しないからである。私が息子に対して意識的に、子どもに草花や虫と幼い頃に接触させておいたら、後にクラスには他にそんな生徒がいない、と驚いていた。他人と気持ちの上でぶつかる経験を、問題が起きてはならぬという「配慮」から、親も、それから親の要請に敏感でなければならない教師も、すっかり遠ざけてしまう。
 
基本的にだが、子どもたちの学びは、大人の設定に基づく。コンピュータ用語はたくさん知っているが、何かを論ずるときに使う漢語や、豊かな感情を示すやまとことばは、驚くほどに知らない。知ろうともしないし、大人も教えない。そうした言葉を使う本は読まれず、限られた語彙で書かれた、ベタな展開の小説にはけっこう浸ることもある。それが、読書時間をある程度保持する原因となっているから、数字は如何様にも現れてくるものである。
 
「学力低下」も「学習意欲の喪失」も、結局「数字」から見える判断として、新聞が「見出し」をつくる。その「見出し」だけで騒ぐ世間もまた、「学力低下」のなせる業であるのかもしれない。電車の中で大人は、殆ど皆スマホしか見ていない。画面は、ゲームか動画かSNSである。また、目の前に立っている人には気づこうともしないで、優先席でスマホしか見ていない元気な若者をつくったのも、いまの大人たちではないのだろうか。
 
新聞は、「学力の動向をデータでつかんだ点は評価できる」と豪語していた。正にそのことが、新聞社自体が「思考」をしていない証拠であるような気がしてならない。



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