和解のアンバサダー

2025年9月1日

詳細は控えるが、教会奉仕の神学生の説教である、とだけお伝えしておこう。日本への宣教を志してであろう、日本語が実に流暢である。それだけでも頭が下がる。まだ若い世代であろうが、きれいな日本語を違和感なく使うのは実に清々しい。
 
選ばれた聖書は、基本的に、第二コリントの5章、ひとの心に残るあの言葉の置かれた周辺である。
 
17:だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
 
どれほど多くの人の心に勇気を与えたことだろう。イエス・キリストを信じた。自分ではそう思っている。でも本当にそうだろうか。自分は何も変わっていない。それなりに、クリスチャンだなどと自称してよいのだろうか。そうしたためらいの中に、「あなたはもう昨日までのあなたではない。新しく造られたのだ」と呼びかけ、励ましてくれる。
 
もちろんこれはパウロ書簡の一つである。手紙の構成についてはいろいろ疑義がかかっているが、パウロという人物の手による本当の手紙の言葉であろう、と認められている。パウロはこれに先立ち、「私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいる」(5:7)と胸を張り、このまま生きているのがよいのか、主の許に召される方がよいのか、葛藤するような様子を示す。それは、自分を「誇る」ことでもあるが、むしろそれをパウロはよしとする。「キリストの愛が私たちを捕らえて離さない」(5:14)のだ。
 
15:その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。
 
説教者は、短い時間でたくさんのことを告げようとして、用意した原稿を読んでゆく。本当に自然な日本語であり、むしろ日本人でも難しいほどに、一文の長い文を連ねてゆく。そして、話が次々と展開してゆく。抽象的な言い回しも多用し、話すスピードもてきぱきとしている。恐らく、書いた原稿としては見事なのだろうとは思うが、「語る」というときには、それを「聴く」という立場をもっと考慮してよいのではないか、と思われた。美味しい料理を提供することにかけては立派ではあっても、食する客の側の味わい方への配慮があってこそ、一流のレストランである。
 
やはりその意味で、主任の牧師の説教が、聴く者の噛みしめるスピードと、脳裏に思い描くイメージとを常に意識して語っているのとは、まだまだ大きな開きがある。もろちん、繰り返すが神学生の高い日本語能力については、深い敬意を示すものである。
 
さて、この箇所から告げられる福音は、やはり「新しく造られた者」というメッセージではあるだろう。だが、私の心に伝わってきたのは、むしろ「和解」という言葉だった。
 
18:これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。
19:つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
 
なぜ新しく造られたと言える野か。それは、神の側から「和解」が提示されたからだ。「和解」というものは、自らの完全な正義を認識している側からは、普通持ち出さないものだ。自分が正しいのではあれば、裁判で争えばいい。神が人間に和解させたというのであったら、まるで神の側に瑕疵があるかのように見える。しかもこの場合、神は「キリストを通して」それをしている。神の側が絶大な犠牲を払ったことになるのだ。
 
いったいこれが「和解」と言えるのだろうか。
 
私たちには「和解の努め」だけがある。和解に応じるということなのだろうか。「人々に罪の責任を問うことなく」、神はこの和解案を出した。否、御子イエスを十字架でずたずたにして命を奪われるということまでして、私たちに、和解しないか、と持ちかけたのである。
 
説教者は、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)という箇所を、特に指摘しないで、幾度か用いたように思う。私たちが何か善人になったからとか、神に相応しい者になったから、救ったというのではないのである。そのとき私たちは、まだ「罪人」であった。罪人そのものであった。だが、その私たちのために、キリストは命を棄てた。説教者はそれを、「キリストの愛」と口にした。
 
キリスト者になるということは、キリストに対する見方が変わるということである。キリストの十字架が愛であるということが分かる、ということである。それは「私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」とここで言う言葉とつながる。
 
十字架刑の犯罪者である、とキリストを見るのが当たり前であろう。私たちとて、死刑執行された者を、犯罪者という名前のほかには呼ぶことがないだろう。だが、稀に、死刑にまでされなくてもよいのに、と思うような死刑囚がいるかもしれない。キリストに対しても、気の毒に、というくらいの感情を抱く人はいるかもしれない。だが、そういうのを含めても、一般にキリストを見る眼差しは「肉に従って」知るものでしかない。
 
説教者は、信仰者はキリストを、霊に従って知るのだ、と告げた。
 
そうして、中心聖句と言ってよいであろう、あの「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」が掲げられる。但し説教者は、その「誰でもキリストにあるなら」をほぐすように話した。新共同訳では「キリストと結ばれる人はだれでも」と訳していた。しかし聖書協会共同訳では、「だれでもキリストにあるならば」の口語訳に戻ったことになる。初のカトリック・プロテスタントが共同して世に贈った新共同訳は、それまでのカトリックの「イエズス」を放棄する一方で、カトリックの差し出す「結ばれて」を盛んに訳出した事実がある。それらは原語では、英語的に言うならば「in Christ」だが、その意味するひとつの方向性だけを定めるかのように、「結ばれて」を多用したのであった。
 
説教者はこの「誰でも」について、ひとつの見解を示した。これは個人主義的な解釈で終わってはならない、というのであ。端的に言えば、「教会」というものをそこに見るべきだ、というわけである。
 
パウロは、必ずしもそのようなことを強調しているわけではない。強いて言えば、「私たち」というパウロの言い方が、パウロとコリント教会全体を共に指すように受け取るべきだとすれば、ここには前提のようにして、コリントの教会と、それからさらに拡がるキリスト者全体の姿が思い浮かべられていると言えるかもしれない。しかし、やはりここに控えているのは、「教会」と呼ばれる「共同体」である。
 
説教者はそれを「愛の共同体」と呼ぶ。キリストは十字架と復活を通して、命を棄てたけれども、それを通して新しく造られた私たちがここに現れるに至った。そして、このキリストの救いについて、「和解」という営みを示したのであった。
 
もう少し、取り上げる聖句を読み上げてから吟味に入ってもよいような気がするが、説教者の性格なのか、取り上げた箇所から縦横に言葉を引く。その割には現れる順番に取り上げるように見えるため、聖句を一つひとつ立ち止まって示してもよかったのではないか、と私は思う。
 
20:こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。
 
この箇所からの言葉が、説教者の心を惹いた。「使者」である。私たちはすでに「和解の務め」を授けられた、とパウロは言っていた。そこへきて、私たちは「使者の務め」を果たしているのだという。この「私たち」は、さしあたりパウロのことである。パウロはキリストの「使者」として、いまここでコリント教会に向けて、神の和解を受け容れよと迫るのである。
 
説教者は、「使者」という言葉は、英訳では「アンバサダー」である、と指摘する。近年人口に膾炙するようになった言葉である。しばしば「宣伝大使」のように目される。説教者はドイツ語で「ボートシャフト」というところまで教えてくれた。これは大使館を示すこともあれば、メッセージそのものを表すこともある。だからさらに英語でアレンジすれば、「メッセンジャー」のことだとも言える。
 
教会組織では、「長老」のような立場にあることも、指すことができよう。「代表者」のような意味だと一般的には言えるだろうし、教会では「説教者」を指すことも可能なはずである。すると、神の言葉を取り次ぐ説教者として、パウロは神から権威を受けているという自覚か強かったことが伝わってくる。ただ神を信じる人間として、神はこうだぞ、と叫んでいるのではない。これは神を代弁しているのだ、という神聖な自負を伴っていたに違いないのである。
 
説教者はさらに、英語の「アンバサダー」を、イタリア語、さらにはラテン語にまで遡ることを告げた。ラテン語だと、「ambactus」のことであろうか。どちらかと言うと「使用人」や「奉仕者」という意味の使われ方をする語だと思うが、「アンバサダー」の語源であろうと考えられている。
 
と、ここまで説き明かすのであれば、当然次の指摘が必要になる。それは、この「使者」が、パウロだけでなく、コリント教会の人々へも敷衍するべきであろうということだ。そうなると、いまこうして聴いている私たちもまた、その「使者」としての役割を担うべきである、ということになる。「長老も牧師職の始まりである」という加藤常昭先生の言葉を引いて説いたが、どんな本や説教であったのか、教えてほしかった。
 
説教者はさらに、「和解」という言葉を再び中心に据える。恐らく「神の和解を受け入れなさい」という言葉に基づいてのことだろうと思うが、可能ならば聖書の句をその都度開きつつ、いまどこを味読しているのか、説明してほしかった。突如として中心に躍り出る語句が、どの文脈でどのように現れた概念であったのか、聴くだけの者にも認識できるように配慮が欲しかった。皆が皆、その日の聖書箇所をずっと見渡しながら説教を聴いているとは限らないのである。否、むしろ聖書を読みながら聴くということの方が、普通ではない。どこの何の言葉についていま触れようとしているのか、その都度伝える必要があるのではないだろうか。あるいは、説教者の語る大きなイメージの世界を会衆の頭の中に繰り広げさせておき、その中に聖書の言葉を流し込むような具合にする、というのでもよい。いま何の話題について検討されているのだろうか、という点が分かりにくいのが、聞きにくさのひとつの理由であったような気がする。
 
いま思えば、説教者は、21節の「神の義」という言葉を、この「和解」と結びつけて説くのだった。つまり「義」は特殊な語だが、「和解」は日常語である、という違いがある。この「和解」という言葉に、「平和」という言葉をリンクさせてみた。するとこれらの語は、皆ひとつのつながりの中にあるように思われる。説教者は、ここに神と人との「関係」に注目させるものがある、という。「神との正しい関わりに生きている」ということが、「平和を生きている」ことである。「キリストの間に平和を得ている」ことであり、それは「和解を得ている」からであるという。そしてここに、福音の核心があるのだという。
 
この捉え方は、私にはすんなり受け容れられる。私の思う「福音」と重なるものがあると思う。さらに、人が神との間にこの「平和」の「和解」を得ているそのことが、人が隣人との関係に於いても「平和」を得ることの根拠であり、始まりであることを説教者は告げた。これについても、肯けるものがあり、うれしく感じた。
 
これに反して、罪は人を神から引き離してしまう。神に背を向けるようになってしまう。
 
この肉体という、罪へと誘う機会にもなりやすいものに包まれて、私たちは「重荷を負って呻いて」(5:4)いるとパウロは言う。しかし神は救いの手を差し伸べた。いまや聖霊を与えて、私たちに「平和」与えてくださった。それで私たちは、「安心して」(5:6,8)いる。
 
ここでパウロは、必ずしも喜びを示しているわけではない。せいぜい「体を住みかとしていようと、体を離れていようと、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と述べている程度である。だが、フィリピ書のように、「喜ぶこと」を前面に押し出す書簡も、またパウロの一面である。いまコリント教会に対して書き送る手紙は、一部にたいそうな「悲しみ」を帯びた部分もある。なかなか思いが伝わらず好き勝手なことをして手を焼かせるコリント教会に、パウロは誰よりも愛情を注ぐのではあるが、悪口も言われて憤りを覚えることもある。
 
だが説教者は、この箇所にも、パウロの「喜び」がある、と告げた。できれば、その根拠をもう少し語ってほしかった。この箇所の中の、何がパウロにとり「喜び」であったのか。それを会衆は受け止めてこそ、ひとつのメッセージが閉じられるのではなかったか、と思うのである。そのときに、説教者は確かに「使者」としての役割を果たしたことになるのではないか、と思う。
 
最後は、アッシジのフランシスコの「平和の祈り」を朗読して、説教は閉じられた。カトリックの祈りだとも見られるせいか、プロテスタント教会でこれを耳にするのは久しぶりなようで、うれしかった。教会での学びへの感謝の思いがこめられていたとすれば、美しい終わり方ではあった。だが、今日の説教のまとめとして、どのような関係があって「平和の祈り」で結ばれたのか、私にはもうひとつよく分からなかった。自身の「使者」としての務めを誓うような心のためだろうか。人々に「和解」が必要だからだろうか。強調された「新しい創造」とはあまりつながりが感じられないし、被るのではなく自ら行う側になるように、というメッセージでもなかったような気がする。
 
いろいろなことを語り、例を挙げたとしても、最後にはひとつの流れに合流して、大海にゆったりと注いでゆくような流れがあればいい、と思った。聴く者は、そこから世という大海原に船出する勇気を与えられることができるからだ。ただ、語ろうとしていた福音に揺らぎはなく、なんといっても日本語の美しさには感銘を受けた。神の器として磨かれてゆくことを祈っている。



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