「すがりつく」と「にぎりしめる」
2025年9月1日

私はすでに教会の中では、比較的古い人間の部類に入るようになってしまった。尤も、幾つか聞いた範囲では、殆どの教会での平均年齢は、私の年齢よりもだいぶ高い数字であったようだから、現実には私は、信徒の間ではまだひよっこであるに過ぎない。
京都に住んでいたとき、阪神淡路大震災の揺れを経験した。京都での被害は少なかったが、実のところ危機一髪ではあった。京阪神の多くの牧師たちが、被災地に入っていくのを見た。後からその活動の記録もまとめられた。職場もキリスト教系団体であったので、支援スタッフとして立ち上がるメンバーが幾人もいた。
いまやすでに関東大震災からは百年を越える月日が流れた。「とおきくにや」を遺す聖歌は殆どなくなった模様である。かろうじて「防災の日」という名で思い起こされるにしても、私たちは現在、大きな震災を幾つか見てきているため、関東大震災の悲惨さは、私たちの歴史意識の中にすら、ないのかもしれない。まして、そこで普通の人間が、如何に残虐なことができたかということも、戒めとしてすら働くことがない。それが怖いと私は思う。
さて、もちろん、教団あるいはそうしたグループにより、キリスト教信仰というものは、ずいぶん雰囲気が異なる。福岡では別の派の教会で活動することになったため、えらく違うものだと驚いた。確かに、幾らかでも信仰の似た(?)教会で信仰生活を続けるのがいい、というアドバイスを受けたのは正しかった。
だから、別の派だからの違いかもしれない。単に昔と今が違う、という見方は適切でないかと思う。
そこである点について、提言してみる。
いま信仰において、「すがりつく」とか「にぎりしめる」とかいう言葉を使うか否か、という問いを呈したい。説明はしないでおく。信仰を意味する言葉として、普通に使われていた言葉なのであるが、昨今、これを全く耳にしないのだ。いまもなお、ある教会では使い続けているのだろうか。それとも、キリスト教会全体で、もうこんなことを言う人はいなくなったのだろうか。