【メッセージ】怒りと和解
2025年8月31日

(マタイ5:21-26, 箴言16:7)
あなたを訴える人と一緒に道を行くときには、途中で早く和解しなさい。(マタイ5:15)
◆怒り
以前、よく言われたことですが、「新約の神は愛と赦しの神、旧約の神は怒りと裁きの神」のように捉えている人が、いまもいるかもしれません。もちろん、ある意味でその傾向は否めないのですが、単純に割り切ってしまう言い方は、聖書にレッテルを貼るだけの浅い思慮だと思われかねなくなってきました。さらにこの言い方は、「愛と赦し」は好ましいもので、「怒りと裁き」はよくないこと、のように受け取られることがありますから、気をつけるべきです。神にとり「怒りと裁き」もまた、必要なことであるだろうからです。
けれども新約聖書では、人間が安易に怒ったり、ひとを裁いたりすることは、慎まなければならないことだ、とされています。特に「ひとを裁く」というのは、かなりよくないことです。それでは「怒り」の方はどうでしょうか。
ルターの『卓上語録』の中にあるルターの日常の記録によると、ルターはひどく怒りっぽい人だったそうです。当時ルターの置かれた情況からすれば当たり前のことかもしれませんが、それにしても、ルターの激しい性格がよく記されており、非常に面白い本だと思います。
22:しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。
マタイ伝を読んでいます。山上の説教のまだ始まり、5章ですが、「きょうだいに腹を立てる者」に対しては、神が「裁き」を言い渡すようなことが、イエスの口から言われています。「馬鹿」とか「愚か者」とか悪口を言えば、言った者がいわば地獄行きとなる、というのです。おや、そうすれば私など、イチコロです。
エフェソ書4:26には、このような言葉もありました。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」これには、少しだけほっとします。「怒ることがあっても」ですから、怒った瞬間に罰されるのではないようだからです。
でも安心はできません。すぐ後の4:31では、「恨み、憤り、怒り、わめき、冒涜はすべて、一切の悪意と共に捨て去りなさい」と命じられているからです。やはり怒りを許容しているというのではないようです。怒りは捨て去れ。怒りが沸き起こってきたとしても、それを捨てよ、と迫るからです。
同じエフェソ書ですが、子どもたちへの対処が書かれているところで、「父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい」という知恵が授けられていました。親が、自分への怒りの矛先を、子どもに向けるということがあります。虐待は、時にそのような形で子どもを、刃のような言葉や、実際の暴力が襲うところに起こっています。
だから、子どもの機嫌をとって何でも甘く許しなさい、というような意味ではありません。旧約聖書の、たとえば箴言を見ると、子どもをいくら叩いても死なない、というような言葉さえ見つかります。本当に叩く必要はありませんが、聖書は子どもの教育については、かなり厳しい見方をしています。
キレる子どもたちに対して及び腰の親になるのではなく、不当な怒りを呼び起こすことがないように、とだけは気をつけたいと願います。
◆神の怒り
では、神の怒りについてはどうでしょう。聖書には「神の怒り」という言葉が幾度か登場します。この語自体は、意外なことに、旧約聖書では7度しか用いられません。それより遥かに短い新約聖書では16の節に現れます。同じ書の中では、黙示録に5度あるのは、ある意味では当然かもしれません。が、ローマ書に3度あるのも目立ちます。
しかし、旧約聖書こそが「神の怒り」を強く主張している、というイメージとは違う様子を私たちは目撃します。とくにモーセ五書と呼ばれる律法の中には、この言葉は2度しか現れないのです。新約聖書にとっては、「神の怒り」を免れた私たち、という視点と、これから「神の怒り」に任せよ、というような視点など、あたりまえにあるものとして、「神の怒り」が認識されているように見えるのです。
そのため、この「神の怒り」という言葉だけでは、旧約聖書を怒りの神だと決めてしまうようなことは、避けた方がよさそうです。新約聖書で「愛と赦し」が強調されたとき、それとは対照的に、旧約聖書では、「神の怒り」をが盛んに言われているに違いない、というイメージを打ち出してしまったのかもしれません。
けれども、現実に旧約聖書では、主なる神は、度々怒っています。神に背を向けるイスラエルの民に向かって、神は幾度も怒りを発します。預言者の中でも、神が民に向けて怒りを向けるということがよく言われます。それは確かなことなのですが、「なんとなく」のイメージだけで、「罰する神」あるいは「人間の敵として振舞うかのような神」だとレッテルを貼って、旧約聖書の神は「怒りの神」だ、と言ってしまうようなことは、控えて戴けたら、と思います。
むしろ、怒りを鎮めることのできないのは、神ではなく、人間の方ではないか、と、我が事としてこの「怒り」について問い直すことにしましょう。今日は、箴言から、怒る感情を「怒り」という言葉とは違う次元で表していると思われる言葉を紹介しておきます。
破壊され、城壁のない町/それは自らの心を治めることのない人。(箴言25:28)
自分の心を治めることができない、というのは、怒る感情を留めることができない、ということにも受け取れます。つまり、怒りが放たれてしまった状態の人のことです。それは、破壊された町であると告げます。イスラエルなどの土地では、「都市」というものは、城壁に囲まれたものをいいました。外部と遮断された形で町を守るのですが、これが破られ城壁が崩れるということは、戦いでは即座に敗北を意味しました。敵は、自由に乱入してくるからです。自分の怒りの心をぶちまけるかのようにすると、その心の城壁が壊れてしまったことを意味します。
愚かな者は自分の感情をすべてさらけ出し/知恵ある人は最後にこれを鎮める。(箴言29:11)
さらけ出す感情で、鎮めるべきものは、やはり「怒り」ではないかと思われます。私たちは怒り始めると、収拾がつきません。少々抑えていたとしても、一旦漏れ出てまった怒りは、自分では留めることができないのです。
だから、人は自分の中の怒りについては、外に出すべきものではない、というふうに考えられます。新約聖書では、自分の中の怒りや憤りについて、神にその結果を任せよ、というようにパウロが命じています。申命記32:35を引いてのことと理解されます。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ローマ12:19)
◆怒られる者
さて、マタイ伝の山上の説教では、自分の中の怒りの感情について、イエスが手厳しいことを告げていました。もう一度お読みしましょう。
22:しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。
確かに、怒りを発する者について、警告を発しています。怒ってはいけないよ、と言いたげに聞こえます。怒ること勿れ、という具合に、ゲヘナ、あるいは地獄の名を出してまで、脅しているというふうにも感じられます。けれども、この言葉は、どうやら言いたいことの目的ではないように思えてなりません。イエスはこのことを発端として、次の目的へ流れてゆく言葉を用意しています。
23:だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、
24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
ここで、「あなた」は怒ってはいないのです。もう少し続く後半の、具体的な実例は、「あなた」が怒ってはいけない、というようには言っていません。そうではなく、「あなた」は恨まれているのです。「あなた」は、怒りを受けている側の立場なのです。誰かがあなたに対して怒りを向けていたら、あなたはどうするばよいか、その後始末についてここでは語っています。
あなたは怒られている。そのときのことをイエスは警戒しています。あなたが怒ってはいけない、と確かに先に述べましたが、それはまだ軽く聞こえます。怒って悪口を口走らないように。変に怒ると捕まるよ。怒り続けるなら地獄に堕ちるよ。そんな脅しは、まだ問題が軽いものであるようにさえ思えます。
マタイが告げているのは、あなたが平穏であったつもりでも、誰かの恨みを買うようなことがあったら、どうしたらよいか、ということのようです。恨みを買われたときの方が、深刻であり、苦境に立たされるわけです。これはとても実践的なことではないでしょうか。
たとえあなたが、聖人のように、自ら怒りを発する心から守られたとしましょう。無闇に怒らない境地に達したとしましょう。自己抑制ができてよかった、それで平安な毎日を送れますよ、とイエスは言っているのではないのです。そのようであっても、他人から怒りを買うことが、あり得るわけです。
24:その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
本当はここが一番難しいのに、「仲直りをし」なさい、とあっさり命じます。仲直りをするのは当然であるかのようにして、帰ってきてから神を礼拝せよ、というようなふうにも聞こえます。
25:あなたを訴える人と一緒に道を行くときには、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない。
26:よく言っておく。最後の一クァドランスを支払うまで、決してそこから出ることはできない。
あなたは訴えられた。そのとき、その「人と一緒に道を行く」のが当たり前のようになっています。あるいはこれは、裁判を受けに行く様子を示しているのかもしれません。そのときには、「途中で早く和解しなさい」と命じています。いや、それができないから訴えられているのではないでしょうか。あっさりと、簡単に「和解」ができるかのように書かれているのは戸惑います。そして、和解ができないと、訴えられた牢に入れられて、なかなか出られないよ、という脅しのようなもので話が終わっています。
◆和解
何が原因かは知れません。とにかくいま、あなたは、恨みを買っています。誰かがあなたに怒っています。いきなり殺されないだけまだましかもしれませんが、訴えられているという事態です。イエスはその情況で、「途中で早く和解しなさい」と言っています。訴えられた方が、訴えを取り下げてもらうために、原告側に和解を求める、というのは、確かにあり得ることかもしれません。しかし、問題は法律的な手続きのことではありません。大切なのは、怒りを受けた側が、怒っている者に、和解を求める、という構図です。
何とか訴えを取り下げてもらえませんか。裁判を受けるまでもなく、こちらがこのようにあなたに謝りますし、あなたに補償を致しますから。そのような姿勢で頼むのです。訴えた側としても、面倒な裁判にこれからの手間暇をかけてゆくことは、気持ちのよいものではないでしょう。ある程度の謝罪と補償金でももらえれば、いまここで問題を終わらせた方がよい、と考えることもあろうかと思います。
もしも、こちらが悪くない、と言い張ったらどうなるでしょう。そのまま裁判に突入します。判決により、こちらが敗れるかもしれません。イエスの懸念はそこにあります。イエスは、この恨みの件で、どちらが正しい、という言い方はしていません。正義を問うているのではないのです。「あなたを訴える人と一緒に道を行くときには、途中で早く和解しなさい」とだけ言っているのです。
もしかすると、あなたは自分が悪くない、と考えているかもしれません。それでも、あなたが気づかないところで、あなたが法を犯しているということが認められたならば、あなたは罰を受けるリスクを抱えています。
私たちの「罪」には、しばしばそういう側面があります。キリスト者は、自らの「罪」を知る者です。自分の中に「罪」を知ったからこそ、イエスの前に出て、その十字架の赦しを受けて、救われたのです。しかし、詩編にはたとえば、「誰が知らずに犯した過ちに気付くでしょうか。/隠れた罪から私を解き放ってください」(詩編19:13)という言葉もありました。気づかないでいる罪も、当然あるはずです。
自覚がないけれども、自分は何か相手に悪いことをしたようだ。キリスト者と雖も、何もかも自分に「罪」があるから自分が悪い、と考えるだけで暮らしているのではないのです。そのときには、その「和解」は誰がもたらすのでしょう。本来自分に非があるからこそ、私の方から和解を申し出ることができるわけで、私自身に何の悪いことも感じず潔白であるのならば、その気持ちを偽って謝る必要はないではありませんか。むしろ、それで謝るとなれば、自分を偽っていることになるかもしれません。
だから裁判で戦うのだ。でもそうなると、気づかない自分の罪により、敗れるかもしれません。誰か「第三者」に、和解を委ねる、という手段はないのでしょうか。「第三者委員会」というものも近年よく取り沙汰されますが、第三者に調べてもらい、できれば「和解」の方向で動いてもらう、というのがその場合の最善手であるような気がします。
◆殺すことと怒ること
さて、ここまで、「怒り」について私たちは辿ってきました。最初は、自分が怒ることから遠ざかることを目しました。続いて、他人から怒りを受けたときのことが語られていることを意識しました。ところが、実は私は、イエスの語ったことのうち、決定的なことを最初から避けていました。お気づきだったでしょうか。この場面の始まりには、このようなふうに書かれていたのです。
21:「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22:しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。
イエスは時折、「しかし、私は言っておく」と口にします。特にこの山上の説教の5章に於いては、なんと6回も、このフレーズを出してきます。旧約の律法にあること、またファリサイ派の人々などが常識のようにいま告げていること、そして人々が一般に理解していること、それをひとまずは認めつつも、「しかし、私は言っておく」と、イエス独自の解釈を持ち出すわけです。
ということは、その「しかし」の前後では、同じ律法、あるいは同じ戒めのようなものが、常識的理解と、イエスの新たな福音と、対比されているということになります。実際、他の場面では、この「しかし」の対比が、スムーズに理解できます。
でも、ここは少し抵抗があるのです。論旨は、「殺すな」しかし「腹を立てるな」「馬鹿と言うな」というふうに流れています。「殺す」と「怒る」は、当たり前のようにすんなりつながることなのでしょうか。
でも――そう感じる人が、いまお聞きの皆さまの中にもいることを、私は知っています。「怒る」とは「殺す」ことなのだ、と痛烈に自覚している人が、少なからずいることを私は知っています。イエスは、そのように前提しているのです。他人に対して「怒る」ということは、心の中でその人を「殺す」ことであるのだ、と。
次回また読みますが、「しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」(マタイ5:28)というイエスの言葉があります。男の立場から見るしかないのですが、「見る」だけで「姦淫」というのは、かなり厳しい指摘です。でもイエスの中では、それは同一のことなのだ、というわけです。
そのようにして、怒りの感情を抱くこと、口に出して「馬鹿」と言うこと、「愚か者」と見下すこと、それは、すでに人殺しであるのだ、ということが、イエスの中では常識となっているのです。
これを「道徳」と捉えることはできません。神の存在をそこに置いて、神の目のレベルで見たときに、「怒り」や「悪口」は、そのまま「人殺し」は、であるのだ、という指摘を、私たちは突きつけられていることになります。
しかし、この半世紀を見るだけでも、この宗教性が、ますます薄くなり消えそうになっていることが分かります。「炎上」とか「祭り」とか言って、言葉で他人を叩くのが当然となってしまったこの暴走は、歯止めが利かないようにさえ見えます。それは現に、人を殺してもいるのですが、それは「道徳」では、止めることができないのです。
◆怒る者
どうすれば怒らずに済むのか。私たちはそういうレベルで考えようとしていました。しかしイエスの視野では、それは殺人と同じでした。先ほどは、怒らないことができたとして、それでも怒られたらどうするか、というような話の仕方を私はしました。が、その「怒らない」ことさえ、実のところできそうにないことを、いま改めて覚らなければなりません。
もう怒らないようにしよう。私も何度も自戒しました。でも、それは間もなく崩れます。ああ、また今日も怒ってしまった。自分をコントロールできなかった。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エフェソ4:26)、という妥協的な提言さえも、できそうにはありませんでした。そんな毎日を過ごしてきました。自分の心が、益々荒んでゆくのを覚えますが、それでも直ることはありません。
でも、少しばかり慰めます。そのように自分が怒っていることに気づくのは、まだ「まし」なのではないか。中には、自分が怒り続けていることにすら気づいていないような姿すら、世の中には見受けられます。自分のことをクリスチャンだと称しながらも、そんな怒りに支配されているような人が、SNSには散見されるのです。
振り返ってみると、「怒る」という行為の背後には、「自分が正しい」という基盤があります。自分が間違っていて相手が正しい、と分かっているときに、普通ひとは怒りません。そうやって怒るのは、あの父親に助言されたときのように、「子ども」だけでしょう。大人は、自分が正しくて相手が間違っているからこそ、怒ります。
時には「義憤」という形で怒ります。政治について、世の中について、怒りを振り撒いている人がいます。それは、自分が正義の側に固定されている、という前提があるからこそ、誹謗中傷を次々と発していたとしても、怒ることができることを示しています。「義憤」の「義」が、たとえ自分本位であっても、その人にとっては「義憤」に違いないのです。
そこが問題です。自分を訴える人と和解せよ、というときも、自分が正しいというところから動かなければ、和解という道を持ち込まなかったかもしれません。また、第三者に和解を提言してもらおう、とも考えなかったかもしれません。
私たちは、「神の怒り」を買っていないとでも言うのでしょうか。神に対して「罪」を冒さない者がいないとすれば、私たちは誰もが、「神の怒り」を受けています。そのとき、神に対して私たちが「和解」を提示するということなど、できないように思います。だから、神は「和解」のための第三者をもたらしてくださいました。イエス・キリストでした。イエス・キリストが十字架でその「和解」の条件を満たしたことになります。私たちのこの「罪」には「命」の代償が必要でした。だから、イエスの死が、その「和解」の条件となりました。イエスは、自ら憎まれ殺された側でありましたが、神の怒りを封じるかのように、その命を棄てたのでした。
キリスト教の大切な点です。私たちは、このイエスのもたらした「和解」について、あまりにも軽々しく、分かったふりをしていなかったでしょうか。
◆喜びへと続くもの
映画「長崎-閃光の影で-」を観ました。カトリックを信仰し、自ら被爆三世でもあるという監督が、誠実に制作した、良い映画でした。「信仰」というものがきちんと描かれていたことを、ありがたく思いました。看護学生として日赤の救護所で成り行き上働くこととなった、スミちゃん。原爆を許すことができない心と、信仰する神が赦しの神であることとの間で魂が引き裂かれそうになっていました。救護所で、被爆した母親が命と引き換えに産んだ赤ちゃんと、引き取られた聖母の騎士の施設で再会します。別れ際に、そこで奉仕する女性に促されて、赤ちゃんと「あーくしゅ」と言われながら繰り返し手を揺らします。私はそのシーンに、「和解」というものを見た思いがしました。
イエスの犠牲は、かけがえのないものでした。しかし、イエスは神により復活させられます。イエスの、我が身を犠牲にした「和解」を、私たちは受け容れてよいと言われています。この和解案を受け容れてよいのです。このとき、私たちは何に包まれるか。「救われた」という言葉が出てくるでしょう。そして、感情であるかもしれませんが、私たちは「喜び」を感じます。
そもそも、人は、自分が喜んでいるとき、怒ることはないでしょう。喜びの席で、以前酷いことをしてすみません、と謝る人に、真っ向から怒ることはないでしょう。多少のことは許してしまうのではないでしょうか。「分かった、いいよ、もう」と、喜んでいるときには寛大になるものです。その喜びの場と雰囲気を壊したくない、という気持ちもそこにはあるかもしれません。つまり、めでたい席では角を立てない、というのが人の知恵であるわけですが、それでも感情はやはり、喜びの中に怒りは包み隠すことが当たり前のような気がします。
この「喜び」というものは、聖書のもたらす大きな賜物のひとつです。「和解」による「喜び」について、箴言がはっきり告げているケースが見出されます。
人の歩みが主の喜びのうちにあるとき/主はその人を敵とも和解させる。(箴言16:7)
人が喜びの内にあれば、敵と和解することができる。しかもそれは、神がそうする、というのです。私たちは和解が成立したら喜ぶ、というのが普通であるように感じますが、書いてあることは、喜んだときに和解が成立する、というように見えます。でも、どちらが原因とか結果とか、拘らないでよいかと思います。ともかく争いが和解を迎えるということは、私たちにとり間違いなく喜びであるのです。
イエス・キリストの救い。キリスト者の喜びの原点は、そこにあります。イエス・キリストの愛と赦しの救いは、訴えられるべき私たちの側から、というよりも、神の側からの、和解の申し出でありました。神がすべてお膳立てした、救いのプログラムでした。喜びをもたらす計画でした。
その救いの図式が、私たちに与えられた知恵と心とによって、いま重なり、つながってきます。神はイエスを通じて、私たちとの和解を提案しました。多大な犠牲を神の方が担った上で、それでも私たちに和解案を提示しまた。あまりに酷い死をやがて迎えることになるイエスの姿ですが、それほどまでにして、神自らが、その「怒り」を「赦し」に昇華して、「裁き」を「愛」で覆い尽くし、「罪」を「救い」に塗りかえてくださったということになります。
こうして旧約と新約とを結ぶ橋が完成した上で、私たちはその橋を渡り、また新たな和解を結ぶために、世に遣わされようとしています。いまここから、喜びの中を、そのために遣わされてゆくのです。