言葉と思考
2025年8月26日

数学の問題を解くためには、言葉の読解が必要だ。最高の数学者はきっと違うのだろうが、受験の数学はそうだ。受験の数学は、ものの考え方の論理性を養うためにある、とするなら、言葉が必要だという見方も適切であるだろう。
空間図形の求積問題。しかし、これはどうやって数字を出すのか、途方に暮れる問題がある。初めて出会う中学生には、ただの壁でしかないような問題だ。そこでひとつ線を引く。「名前で呼べる図形なら、手が動くんだよ」と言いながら、一本の線により、三角柱と四角錐が見事に現れる。これなら求められる。名前で呼ぶ。つまり、言葉にできるということで、対処できる、という好例である。
一次関数は、機械的な操作に似ている。操作方法さえ訓練されれば、iPadを操作するように自然に手が動く。だが、じっくり解かせる問題となると、言葉にして操作を確認する必要がある。また、反射的になす業も、言葉による習得が背景にある。点何々を通り直線何々に平行な直線を求める、というように言語化した理解が根柢にあるわけである。
だがその一次関数でもそうであるように、余りにも動きに慣れてしまえば、言葉を意識しなくても操作は可能である。習慣化してしまったことについては、言葉を意識することなしに、手は動くであろう。ある意味で、そうなるほどに、練習をする、というのが解答するための最大のコツであるのかもしれない。
ふだんは表向きで後ろからテストを回して集める。自分の答案を一番上に置く。それが習慣となっている。だか模試のときには、裏返しにして集めるから、逆に自分が一番下となる。つもり、自分の答案は机に置いたまま、後ろから受けた答案用紙を自分のものの上に置くのである。そのことは、集める前に十分説明した。決して端折ってはいない。だが、実際に集めると、ふだんの通りに自分のを上に置くことが、どうしてもやめられない生徒が何人が現れる。
言語化して理解していないのだ。体がつい普段の通りに反応して、いつもしているように体が動くのである。指示する言葉を、言語として受け止めて理解しようとしていない。精神が、それを言語としてキャッチしていないのである。
電車の中でアナウンスがある。ろう者には、トラブルのときのアナウンスが分からないというのは非常に厳しい問題だ。いま、電光掲示板やディスプレイ表示で、行く先を示す機能が備わっている車両が多いから、そこに事態を説明する文を流してもらえたら、ろう者にも情報は伝わるのではないだろうか。
ところがこのアナウンス、聴者の乗客も、基本的に聞いていない。次の駅のアナウンスを、耳を澄まして聞こうとする人が一部いると思うのだが、殆どの客は話を止めないし、スマホにひたすら熱中している。視覚障害者にとっては、そのアナウンスが頼みの情報なのだが、静かにしようなどという人は皆無である。
さらに、「他のお客様の迷惑になる行為はおやめください」とよくアナウンスされるが、自分がその当事者だという意識をもつ人は、たぶんめったにいないだろう。だから、大きな声で話を続けることもできるのだ。よくぞ、しょうもない話を車両全員に聞かせるように話をすることができると思うのだが、迷惑行為だという自覚がない以上、これはいくらアナウンスを聞いていたとしても、改善はされそうにない。そのぺちゃくちゃ喋る声が、他の一部の客にとっては暴力にほかならない、などということを考えたことすらないのだろう。
先日NHK地上波で放映終了となったが、「舟を編む」は、たいへん優れたドラマであったと思う。辞書をつくる人々の物語であるが、正にこの「言葉」について非常に関心をもち、始終意識する人々が物語を形成していた。原作とはずいぶん違ったアレンジだったが、ドラマとして、よい作品になっていたと思う。
学力的な話に戻るが、言葉を言葉として意識することをしないと、国語の文章読解はできないようにできている。最近は国語だけではなく、各教科に於いて、国語ばりの長文による説明がひしめき合っているので、それらを含めて、この言葉の問題を考えてよいと思う。
それはつまり、近年益々文章を「読解」する力が落ちている、という問題である。新井紀子氏の提言が、教育界を大きく揺るがしたことは、ひとつの事件であった。文章の読み取りが拙いのは、子どもたちばかりではない。大人も、そうなのである。もちろん、私もその例外ではない。
言葉を意識して、言葉を用いる。私たちは、もっともっと、「意識」してよい。「意識」すべきなのだ。
ひとは、言葉によって、思考する。言葉によってでしか、思考できない。思考は、言葉によってこそ可能になる。私たちは、実のところ「考える」ことができていないのではないか。感情だけで、うすっぺらい感覚でしかないものを「論理」だと勘違いしたまま、「考える葦」以上の存在なのだ、という思い込みをしてきていたのではないか。
ソフィストほどにもならない「論破」や、いつぞやのドイツのような宣伝効果に靡いてゆく「選挙」が大手を振って歩いている世の中を見渡すにつれ、私の心配は現実なのだ、というふうにしか思えなくなる。杞憂であればいいが、と願いつつも、SNSなどという即興手段によって言葉が踏みにじられてゆく世相は、危険な「正義」へと突き進むことを、私の理性は否定できないでいる。
第一、言葉に対するリスペクトをもたずその意義を意識しないところに、「神の言葉」や「言葉は神」といった信仰が生まれるはずがないではないか。