【メッセージ】正しさが輝くとき
2025年8月24日

(マタイ5:13-20, マラキ3:19-24)
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。(マタイ5:20)
◆地の塩
マタイ伝の山上の説教の言葉は、人口に膾炙したものがところどころに見られます。今日の箇所にある言葉も、たぶんそうでしょう。「世の光」並びに「地の塩」という言葉です。特に「世の光」は、普通の言葉のように聞かれるような気がします。もちろん、それを聖書の中の意味として使っている人は稀でしょうが、この世界で明るい存在になろう、というように、教育現場でも使えそうな言葉でもあると思います。
「目から鱗が落ちる」とか「豚に真珠」とかいう言葉は、国語のテストにも当たり前のように出題されそうですが、「世の光」という言葉がテストに出たのは、私は見たことがありません。
ここでは先ず「地の塩」が紹介されました。塩は人間の生命活動に必要なものです。太古の昔からきっと知られていたことでしょう。「塩」という言葉が「サラリー」つまり給与を示すようになったのも肯けます。日本なら「米」というところでしょうか。
塩分を除いた料理は、美味しさを感じないそうで、病気によってはそういう食事を続けなければならない人もいるといいます。また、塩は腐敗を防ぐものでもあります。減塩ものは怪しいにしても、醤油が腐らないのは、その塩分のせいだと言われています。
この世界、この地上は、矛盾や悪意で満ちています。少なくとも、理想世界を思い描く人にとっては、そうです。だからこの世には塩気が必要だ、腐らせないような塩となれ――とは、イエスは言っていません。そうなれ、という教訓は、あまりにも当たり前だからでしょうか。いえ、「あなたがたは地の塩である」と断言してしまっているのです。「なれ」ではなくて、「ある」と。
それはもう前提となっていて、すでにあなたがたは塩である、ということなのですが、しかしその塩が塩気をなくしたら、捨てられてしまうぞ、役立たずだから不要なのだ、そのようなことが言われています。ネガティブな面が強調されているのです。
山上の説教で、まず八つの幸いが並べられて、聞く者を安心させた直後、これはかなりきつい、ダメージを与える言葉であるようにも聞こえます。
◆世の光
「地の塩」に並行する形で、たたみかけるように、今度は「世の光」という言葉が投げかけられます。ユダヤ的レトリックからすれば、全く違う言葉が並んでも、このように対句的になっていれば、基本的に同じ意味を伝えたい、ということが多くなるでしょう。ですから「世の光」も、先の「地の塩」と同じような内容だとして受け取ることができるかもしれません。ならば、「あなたがたは世の光である」と言い切ったことで、すでに「世の光である」ということを伝えていると理解できようかと思います。
その場合、「地」と「世」は同じものを指していることになります。言いたいことが同じだということです。では「光」の方はどうでしょう。これも、ネガティブな面について書かれてあるのでしょうか。ええ、そうです。「灯をともして升の下に置く者はいない」と言われています。それは、むしろアルコールランプに蓋をするように、火を消すときの方法なのではないでしょうか。
むしろ灯は「燭台の上に置く」ものだ、とイエスは言う。炎の光は、周りを温かく照らし出すことでしょう。この前に、「山の上にある町は、隠れることができない」というフレーズが挟まれていましたが、この「山」は私たちが見上げるように聳える山だというよりは、私は「丘」のようなものをイメージしたいと思いますが、光が本来備えられてそこから照らし出すという姿を示したもののように見えます。
これに比するものが、「地の塩」の方には見当たりませんでしたが、恐らく、「塩は腐らせない」とか「塩は保存にいい」とかいう効能があってもよかった、ということでしょう。それは当たり前過ぎるからなのか、そこには書かれていませんでした。
この「世の光」の方が、より詳しくせいめつされています。そのためさらに、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」とも書かれています。「地の塩」にその力がないようには思えませんが、いっそう「光」の方にシフトしているように思われます。
人々の前に輝かせよ。それは、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるため」という目的があるからです。神の栄光のため、と言えば美しすぎるかもしませんが、やはりそれは大切なことです。人間に栄誉は要りません。神が称えられることこそ尊く、必要なことだと見るのです。
しかし実際どうでしょう。自分は神の栄光という大きな目的や景観の提示のためには、邪魔なことしかしていないように思えてなりません。自己中心です。何をしても失敗します。他人を傷つけ、他人に迷惑をかけてばかりです。
◆使命
この「塩」なり「光」なりについて、もう少しだけ心を向けてゆくことにしましょう。私などは、「あなたがたは」とイエスは主語を語り、「塩」だ、「光」だ、と結論づけたので、私たちが、そして私が、「塩」であり「光」であるのだ、と思っていました。もちろんイエスはそう言っているわけです。しかし、本当にただ人間がそうである、と言うだけしかないのでしょうか。
神の姿をそこに見ることは、あってはならないのでしょうか。旧約聖書で、「光」が象徴となっていたのは、一つには「律法」でした。旧約聖書にたいへん熱意をもっているマタイが、その点を見落とすはずがありません。
あなたの言葉は私の足の灯/私の道の光。(詩編119:105)
律法は、神がもたらした、人間と神との間の架け橋です。人の心に道徳があることは、キリスト教信仰そのものでなくても、想定することです。律法は道徳と同じフィールドにあるのではありませんが、人に広く行き渡っているものは、創造した神とのつながりたる律法に関係していると見なすことが、きっとできるだろうと思います。
ところが、人は道徳を完全に守れるものではありません。律法もそうです。「あなたがたは地の塩である」といい、「塩としての力」があってこその「塩」であるというわけですが、その働きが完全なものとして与えられているようには思えません。そのとき神は私に向けて問います。「あなたは、神のもたらす命の塩の働きを妨げるつもりか。」同様に、「光」についても私に向けて問うてきます。「あなたは神の律法たる光が世界を照らすのを遮るつもりなのか。」
いや、そうではない。神は改めます。「あなたのすることは、塩気を効かすことだ」と。神は私に、使命を与えるのです。
推測に過ぎませんが、当時の「塩」の精製は、現代ほどの純度をもってはいなかったことでしょう。今でも、純粋な塩化ナトリウムというよりは、味のためにはミネラルの類いを含んでいるのがよいとも言われますが、当時は当たり前のように、多様なミネラルが含有されていたと思われます。その中には、何か塩気を悪くするような成分が混じっていたとしても、不思議はありません。塩気をなくすようなケースは、現にあったと思われるのです。
神の言葉、神の教えに、人間は混ぜ物をしがちです。そのつもりがないにしても、人間の自我や欲望が、神の教えを歪ませ、「別の正義」を「神のもの」と欺くことをしてしまうことが、大いにありそうです。神の教えを、腐らせてしまう、ということが現にあるような気がするのです。それが、キリスト教の歴史であったのかもしれません。
神に反するものが、神の教えが光のように真っ直ぐに届くのを妨害する者である、ということは、私たちには簡単に想像ができます。影と闇をもたらすような、人の心や行いは、巷を見ればすぐに目に入ります。しかし、妨害する者は本当に「他人」なのでしょうか。私の思いや私のしていることそのものが、正にそれを妨げているのではないか、と思わないでいられるでしょうか。塩気のない思いや振る舞いに、明け暮れているのではないのでしょうか。
イエスの戒めが、ずんと心にのしかかります。あるいはまた、心に突き刺さります。
◆神から受けるもの
マタイ個人だけの仕事とは思えませんが、当時の教会が、イエスの語録を、どういう意図で今あるように並べたのか、つまり編集したのか、それは確かに分かるとは言えないことでしょう。もしかすると、あまり意図なしに、このように並べたという可能性も、ないわけではありません。でも、普通に考えて、何かしら関連事項を近くに配置するとか、次第に坂を登るように段階を経て並べてゆくとか、人はするものだと思うのです。
「さいわい」ということを、マタイ伝はこの教えのリストの最初に置きました。あの詩編もまた、詩編の最初を飾るものとして、「さいわい」を置いたのです。ただそのとき、詩編は、それと対比されるべく、悪者を持ち出します。「地の塩」と「世の光」でも、対比されるべき悪者の例を出したような言い方をしていました。それにより、イエスの良しとするものを、比較的に理解しやすくなるものだと思います。
先ほども挙げたことですが、ここでイエスは弟子たちに、「地の塩になれ」と言っているわけではありません。「世の光になれ」とも言ってはいません。「地の塩である」「世の光である」と断言しています。もうそれは、ただの前提のような事実だとするのです。
この「塩」や「光」は、当然弟子たちのこと、キリスト者のこと、そして私たちのことです。でももしかすると、それは神ご自身のことであるかのように、受け容れる可能性はないのでしょうか。聖書は、一面的な公式でばっさり切ってしまうような意味しかもたないようには思えないのです。
たとえばここで、イエスが「あなたがた」という言い方をくどいくらい突きつけてくる短い箇所があります。否が応でも、読者はイエスの前に連れて行かされます。
16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。
マタイの編集では、これに続いて、旧約聖書を重視するべきことを明らかにします。そこでの「律法や預言者」という表現は、今でいう「旧約聖書」と見て差し支えないでしょう。旧約聖書に書かれている神からの言葉を、イエスは捨てるために来たのではない、と言っています。廃止する為ではなく、完成するためにこそ、イエスは世に来たのだ、と。
20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
あれほど、イエスは律法学者やファリサイ派の人々のことを、そのあり方ややり方からして徹底的に糾弾していたのでした。が、これではまるで、彼らを模範とすべきような言い方に聞こえます。一定の評価があります。神の言葉を尊重している点に於いては、必ずしも彼らの存在は、悪いことではないのです。
私たちの光を輝かせること。立派な行いをすること。神の国に入るためには、こうした「光」や「塩」が、自分の中から出てくるしかないものであったとしたら、イエスは、律法学者やファリサイ派の人々を、他の箇所でずたずたに非難するようなことはなかったのではないでしょうか。彼らは、自分の中から「光」や「塩」を調達しようとしたのです。しかし、イエスの教えはだいぶ違います。「光」や「塩」は、人間の外から来るのです。神から与えられる、という形で私たちが受けるものなのです。
◆理性からの
19:だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、また、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
塩気を不純物で台無しにすること、灯を升の下に隠して火が輝かないばかりか、火を消してしまいさえすること、そのひとつの具体的な例がここにあります。小さな戒めであっても、それを破るがいい、と教えてしまう者のことです。「人に教える者」です。
聖書に書いてあることは、神を除外した形での理性として考えたとき、そんなことはありえない、と断言する人がいます。本当は、ただ「自分は信じられない」とでも言っておけばそれでよいはずなのに、「それはありえない」という言い方をするのです。また、新約聖書のギリシア語の意味からすれば、信仰する人が言っていることは嘘ですよ、とわざわざ指摘する人がいます。そして、私の読み方が「正しい」のですから、聖書にはそんな意味のことは書いてありませんよ、と「人に教える者」のことが書かれてあるわけです。
それでも、その人は「天の国で最も小さな者と呼ばれる」と言いますから、神の国から切り離されるとは言っていないようにも見えます。しかし、私はそう考えるのは相応しくない、と思っています。これは私たちが想像する「天国」のことではない、と見立てるからです。言っているのは、「神の支配の下では」というようなことであり、神が支配するときになると、いまこの世で豪語しているのとは違い、塵芥のようなもの、あるいは籾殻のようなものとされる、という方向で言っている、と理解するのが相応しいと理解できるように思うのです。
正に、塩気がなくなったものであり、火を消してしまうことに匹敵し、だから弟子たちに対しては、そういうことは徹底して避けよ、と注意しているような気がします。
それはまた、自分は「神のために」これこれのことをしたのだ、と自負するような動きの中にも、気をつけなければならないことを教えてくれているようにも思えます。たかが人間です。そんなに偉いことができるとは言えないでしょうし、まして自己評価でそれが定まるようなことは、それこそありえないことでしょう。
その人の経験を軽く見るつもりはありません。しかし、その人の経験が、他人にそのまま適用されるとは思えないわけです。何らかの形で強要するかのようにして、聖書の無価値を「教え」として突きつけることは、聖書を基準にするならば、「否」と返答したいのです。
いまの時代だからこれは違う。聖書の記述に対してそのように言ってしまうことでさえ、気をつけなければならない、と私は思っています。
◆義の太陽
マラキ書は、旧約聖書の最後を飾る小預言書です。イスラエルの救いを待ち望む信仰が描かれているかと思いますが、キリスト教の立場からすると、旧約聖書と新約聖書という離れた岸を繋ぐ橋のような役割を果たしている、と見ることがあります。
描かれている時代は、必ずしも新約聖書に近いわけではないのですが、書かれた時代の空気は、そう遠いものではない、と見られています。この新約への架け橋として見られ得るマラキ書には、注目したいところが多々あります。「その日」という裁き、あるいは何かしら新しい大きなことが起こるときに、焦点を当てています。「大いなる恐るべき主の日」は、確かに審判のようでもありますが、預言者がたとえそのように思い描いていたが故の表現てあるとしても、神は最終的な審判の日までの間に、特別な時を用意していました。それが、イエスの時です。新約聖書の捉え方は、そうだと言ってよいと思います。
マラキ書の3章には、新約聖書を支える大切な預言があります。
23:大いなる恐るべき主の日が来る前に/私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
「主の日」というのは、通例「審判の日」と想定できますが、その前に「預言者エリヤ」を神が遣わす、というのです。キリスト教の新約聖書では、それを洗礼者ヨハネと見なしています。このとき、「主の日」はキリストの出現に大いに関わるものとして理解されるかもしれません。
24:彼は父の心を子らに/子らの心を父に向けさせる。/私が来て、この地を打ち/滅ぼし尽くすことがないように。
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの登場に先立ち、「悔い改めよ」と人々に宣言し、イエスの教えを聞くための霊的な準備をしたとされています。神は、洗礼者ヨハネに続いて、直ちに世界を滅ぼそうとしたようには考えていないのです。
19:その日が来る/かまどのように燃える日が。/傲慢な者、悪を行う者は/すべてわらになる。/到来するその日は彼らを焼き尽くし/根も枝も残さない――万軍の主は言われる。
20:しかし、わが名を畏れるあなたがたには/義の太陽が昇る。/その翼には癒やしがある。/あなたがたは牛舎の子牛のように/躍り出て跳ね回る。
これはまるで、黙示録とその後の平和な世界を描いているかのようにも見えるのですが、注目したいのは、ここにある「しかし」です。子牛の躍る姿が命の喜びを感じさせます。それに先立って「癒やし」が与えられます。そしてその前に、「義の太陽が昇る」ことがそれらの根拠として宣言されます。
この「義の太陽」をどう理解するか、それは信仰者にもよることでしょうが、いま私はここで、イエス・キリストの姿に重ねて見つめたいと願います。
◆イエス・キリストの輝きの許で
マタイ伝が掲げた「世の光」は、「灯」というイメージで語られましたが、この「義の太陽」の光でもあるように感じられます。「地の塩」と「世の光」とを挙げることで、イエスは弟子たちがそうである、と教えましたが、もたらされる「塩」や「光」には、神からのもの、つまり神の言葉、イエスから出る教えが実質的に潜んでいるとは言えないか、いま私たちは捉えてきました。
神の言葉と、それに裏打ちされた行いというものが、世を変えます。それを妨げるものはありません。あるとすれば、私の勇気のなさです。私はイエスと出会ったではないか。私はイエスに救われたではないか。ならば、イエスによって義とされたのです。神との関係が正常化したのです。神に背を向け、神とは違うものと結びついていたところから、神に還ってきたのですから。
20:言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
これを聞いて、しっかりしなければ、と思うのはよいのですが、自分がなんとか頑張って、正しくあろう、律法を苦行のように守ろう、とするのには無理があります。いえ、それはできないことです。律法学者やファリサイ派の人々に対して、イエスは敵を見るような眼差しで向き合いましたが、律法をただ守ればよいとするばかりか、自分たちは守っているのだから、と、守れない人々を蔑むような態度でいたからだ、と理解できます。
正しい太陽のようなお方は、私たちからすればイエスしかいません。イエスが輝いています。十字架は、揺れ動く地の上で輝いているのです。その光を、せいぜい妨げることのないようにしたいと願います。イエスの太陽の下で、神の言葉たる「塩」を、たっぷりと擦り込みましょう。神の光をたっぷりと受けましょう。
このイエスの教えをいま聞く者は、いましばらくこの地上で生きていることでしょう。その中で、自分を通して、その塩気と輝きが、この世界に伝わってゆくのです。
その希望が心を満たすとき、子牛のように跳ね回るのもよいでしょう。義の太陽が照らしています。「律法学者やファリサイ派の人々の義」ではありません。イエス・キリストの義です。イエス・キリストの救いです。イエス・キリストは、確かにここに輝いています。