リンド夫人の不満
2025年8月22日

7月最後の放送の日だったが、NHKテレビの「アン・シャーリー」で、教会の牧師に対する不満が描かれる場面があった。
背景を描きすぎるのは避けるが、アンが大学に行き、夏休みに故郷に戻ってくる際のことで、原作では、「故郷からの手紙」がたっぷりと掲載されている箇所だった。故郷の教会で牧師が不在になり、「代理」として説教に来る牧師の「おそまつさ」に、リンド夫人が憤慨している様子を伝えていた。テレビは原作通りのセリフではなく、短く変更されていたが、大筋は原作の内容と違わなかった。ここでは原作から引用しよう。
「昨今、牧師になる者は馬鹿しかいないのでしょうか」と始まり、「ここへ送りこまれる牧師の候補者ときたら、おまけに説教の下らなさときたら! 話の半分はでたらめです。もっと始末に負えないことに、まともな教義に聞こえないのです。とりわけ、今の候補者は、最悪です。聖書の句をとりあげておきながら、説教では、たいがい、ほかのことをしゃべるのです。」(『アンの愛情』松本侑子訳,p70)
この後、アンの家の裏庭に大きな豚が迷い込んだところへ、その牧師が現れたため、豚は牧師に突進し、脚の間を潜り抜けようとしたところ、牧師を「ひょいとすくいあげ、背中にのっけたまま、すたこら逃げた」という、「おかしなさわぎ」まで紹介していた。新しいアニメでは、教会に豚が迷い込んだように描かれていたが、原作はどうやら違う。
Googleで、牧師が豚の背中に乗った話をいろいろ表現を替えて検索してみたが、GooleのAI検索は、そのような場面はない、とすべて返してきた。検索には限度があることがよく分かった。
ところで、アンの作者のモンゴメリは、いわゆる『赤毛のアン』は、独身時代に執筆している。それが書店に認められ、発行を待つ間から、続編の『アンの愛情』を執筆しており、その後間もなく結婚をしてから、この『アンの愛情』を執筆している。
アニメ「アルプスの少女ハイジ」が、いくら子ども向けとはいえ、ちっとも聖書や信仰のことを描くことがなく、話のテーマを完全に塗りかえていたように、日本での海外の著作は、しばしは信仰を抜きにして物語にしてしまおうとする傾向がある。新しいアニメ「アン・シャーリー」は、いくらか教会の場面を描いてはいるが、この牧師への不満たらたらの場面は、省くことがなかった。
モンゴメリは、この物語を、牧師館の一階で執筆しており、いまは政府の史跡として公開されている。夫のマクドナルドは牧師である。つまり、モンゴメリは牧師夫人であった。在していた長老派は、たとえばクリスマスパーティのようなことは聖書的でないから、とすることはなく、信仰は堅実だった。聖霊の働きを強調するメソジスト派とは対立的で、物語の中でも、人の悪口を言う代名詞のようにして「メソジスト」という言葉が飛び交っている。そういう土地柄であったのだ。
他方モンゴメリは、アンには聖書の知識はもちろんのこと、豊かな英米文学や古典文学の教養をもたせ、様々な詩人や演劇の言葉が、口を突いてすらすらと飛び出してくるし、精霊といったものには親しみをもつような描き方をしている。ファンタジーの要素を取り除くようなことはしなかった。従って、読み物としても、実直な信仰一本槍、というほどのことはもたせず、しかしまた、教会生活や信仰生活において、ごく普通のあたりまえな姿をありのままに描いている。
だからモンゴメリは、何も牧師を茶化したり、批判したりしているのではないのだ。非常に公平な目で見ているのである。先ほどの、「まともな教義に聞こえない」というような場面は、夫が毎週説教を語っているような立場にあって、気軽に書けるような言葉ではなかったはずである。
少し笑わせる場面に描いた、とは言えるだろうが、豚の事件はともかく、採用されるかどうかという牧師候補者には、実際にありえたような様子を描いているのではないか、と推測される。そういう語り手もいた、ということなのだろう。
聖書の言葉を読み込んで、黙想し、他の説教者の本や注解書を比べ、理想的には自分で訳し直すまでして、説教を準備する牧師がいる。しかも、自分と神との関係の中にその言葉を放り込んで、消化しようと格闘し、さらにそれを自分自身に呼びかけられ、与えられた神の言葉として受け止める営みを経て、そのようにして命を受けた言葉を、今度は自分を通して会衆に伝える、という形で、説教を生み出す牧師がいる。当然、そこには命がある。神の言葉が命である、という意味に加えて、説教者がそれを自分の信仰の中で受け止め、自分が生かされるものであるからこそ、溢れんばかりに語るという仕方を通して、神の礼拝の場で注ぎ出す言葉が命をもたらす、という意味を含んでいる。
リンド夫人の言った、「聖書の句をとりあげておきながら、説教では、たいがい、ほかのことをしゃべる」というのは自分とは違う、と安堵すること勿れ。「説教の下らなさ」は、そこだけに留まらない。リンド夫人は、「水に浮いた斧頭(ふとう)」の説教(アニメでは「泳ぐ斧の頭の話」)を次にすると予告したことをも問題としており、「牧師は聖書に専念すべきで、耳目を驚かす話はよすべきです。牧師が、説教のねたを聖書から見つけられないようでは、世も末ですよ、まったく」と憤慨していた。だが、そのタイトルは、預言者エリシャの逸話のことであろうということは予想され、必ずしも聖書から外れているわけではないから、リンド夫人の批判がこの点については的を射ているのかどうかは疑問である。
しかし、このような指摘は私たちも考えるべきことになるはずである。ある特定の「神学校」を出た「牧師」数人に共通する特徴を感じたことがある。それは、最初に何か世間話から入り、開いた聖書箇所を少しずつ読んでは、その「物語」について説明を加えるのだ。背景の説明に時間をかけ、少しばかり拡げた形でコメントを加える。常識的に考えることとは違うことをイエスが言う、といった場面では、「なんと」という言葉を常套句として、大袈裟に驚く様を表現する。最後までひととおり聖書箇所をこのようにして解説すると、いかにも小学校の道徳の授業のように、こうしてこれこれだということが分かりました、だから私たちもこれこれしましょう、と言って、説教がきれいに結ばれたものとして終わるのである。
中には、教会側が見切りをつけて間もなくその牧師を辞めさせたところがあった。これは賢明だった。また一から牧師を探すことになったが、教会にとっては正解だったと思う。そして、その教会員には、信仰というものがあったのだろうと思う。
他方、ずっとそのような牧師をありがたく掲げている教会もある。こちらは、教会員の信仰が、それが変だとは感じない程度のものになってしまっているのだろう。そもそも先代の牧師からして、そうしたものだったとすれば、そういうものが信仰であり教会なのだ、というふうに思い込まされている可能性もある。あるいはまた、牧師のほかに強い影響を与える存在があって、そちらを崇めるようになっているため、金の子牛を崇拝することを続けた北イスラエルのような有様になっているのかもしれない。
世の中には、すぐれた本を書く牧師もいる。しかし牧師の立場から書くので、時には、牧師を批判するのは信徒の信仰がおかしくなっている、と決めつけてかかる書き方もあるし、牧師の説教が分からないのは、聞く側に問題があるのである、と指摘する場合もある。学校の先生が、先生の授業が分からないのは、生徒の聴き方が悪いのだ、と言い切ってしまうことがあったら、すでにその先生は、失格である。そういう常識がある。しかし、教会の説教については、そういうのは非常識とされている現状がある。
その意味では、リンド夫人の不満は、適切な部分があると思う。ここでは、このようにも言っていた。「異教徒がいなくなることは永遠にないだろう、とくるのではすらね。馬鹿なことを! もしそうなら、海外伝道にせっせと送ってきた募金は、すっかり無駄になるのですよ、まったく!」
この論理が適切かどうかは別として、聞くに堪えないような説教に我慢している方がいたら、それは聞く自分が悪いのではない可能性が高い、と捉えてもよいのではないか、と考えたい。むしろその方が健全であるからこそ、その語り手は、本来語る資格もないのだ、ということがあり得るのである。説教を語る資格とは、「神学校」を卒業した、などという点では保証されない。罪も救いも分からない人が喋り続けている場合も、現にあるからである。