気軽に行けない

2025年8月20日

「教会案内」とくれば、以前はトラクトと呼ばれる、チラシないしそれを折ったものという具合であった。いまは電子媒体で、広く告知することもできる。便利な世の中になった。「チラシお断り」のアパートに投函して、騒動になったようなこともあるため、SNSや動画サイトで配布すれば、見たい人だけが見ればよいことになる。しかも、チラシに比べると、配布範囲は比較にならないほどに広い。
 
昔は、素人の教会員のデザインで賄われていた。私も、ワープロが扱えたというだけで、幾度も「教会案内」をつくることがあった。いまは、機器や編集ソフトが発達したせいで、品質は格段に良くなったが、デザイン性は、様々である。明らかに、デザインの基礎も知らない素人の作品で、目を惹く点でもそうだが、読みやすさやアイキャッチなどの点でも、何の配慮も見られないようなものがあちこち見られる。
 
時に、教会員にプロがいるのか、あるいはプロに注文しているのか、格が違うものが目に入ることがある。デザインとしては、実によい傾向である。あまりに世間一般のデザイン性に合わせてあるため、当たり前の目立たないものであるかもしれないし、むしろ手書きの「ヘタウマ」な絵が人の目を惹くように、素人的なもののほうが注目されることがあるかもしれない。
 
その意味で、「デザイン」の是非を問うようなことはしないでおきたい。だが、その質的な面、つまり内容のことは、キリスト教会としても思案のしどころであるだろう。如何に読ませるか、というデザインはともかく、読んだ後にどう思うか、思わせるか、という角度で「教会案内」を考えることが必要だ、ということである。
 
目的は何か。とにかく教会に関心をもってもらうことであるのか。しかし最大の目的は、教会に来てほしい、ということであるだろう。だから、イベントについて宣伝をして、来てくれと頼む。教会に来て、信徒になることを目的とする、というあたりが一番の目的であるとして、案内を作成するのではないだろうか。
 
もちろん、純粋に信仰を表に立てる教会もある。この教会に来ることを通じて、人々を神の許に連れて行くこと、とでも言えばよいだろうか。別にこの教会に結びつけられなくてもよい、とにかく人を聖書に、神に、キリストに、つなぐためにすべてのことをしているのだ、という信仰を立てて祈る教会があることは確かだ。
 
しかし、人間臭い「教会」では、なんとか教会員を増やしたい、という目的のために会議をし、予算を使い、活動する。そのための戦略を考え、リサーチをするかもしれない。教会に人を集めましょう、という掛け声が飛び交う。教会の予算にも関わるわけだから、算盤をはじきながら、なんとか教会員が増えますように、と活動している人も、いないとは限らない。どのくらいの割合でいるのかは私は知らないが。
 
そうしたポスターや案内に、よく見る文がある。「お気軽にお越し下さい」というものだ。教会サイドからは、すぐにどうしてもかけたい言葉の一つであるのだろう。教会はかしこまったところであり、どうも門を潜りにくいことだろう。しかし本当はそうではない。ひょいと立ち寄るようにして、そこに来ればよい、というお誘いである。世間からは、厳粛な場所だと見られていることだろうが、実際は違うのだから、「気軽に」来てほしい、と声をかけるのである。
 
時代も環境も違うから参考にはならないかもしれないが、私はとても「気軽に」教会に行くという気持ちがしなかった。厳粛なところ、というイメージがないわけではなかったが、それよりも、自分にとりそれは命懸けの事柄だった。そして、そこに一度脚を踏み入れてしまったら、二度と元の世界には戻れないであろう、という予感がしていた。事実そうなってしまったのだが、教会に一歩足を踏み入れるということは、それくらいの決意が必要なことであった。だから、行かねばならない、という思いに駆られはしていたものの、実際に行くまでにはかなりの葛藤を覚えたものだった。
 
とても「気軽に」教会に行くことなどはできなかった。
 
いま教会にいる者が、ここはどうということはないよ、「気軽に」おいで、という誘いと、悩みを抱えて、生まれて初めて教会というところを訪ね入ろうかとする者の決意とでは、ずいぶんと温度差がある場合があるのである。
 
それとも、「教会は敷居の高いところだ」と世間では思われているに違いない、という二重の思い違いから、「気軽に」という言葉が、つい、出てくるのだろうか。自分は教会に対して失礼なことをしているからとても行けない、というように考えている人は、殆どいないだろう。
 
「気軽に」来てもらいたいという一心から「教会案内」を作るのであれば、そこに悪い言葉はなかなか入れられまい。そうでなくても、教会はいま、信徒に対してさえ「罪」という言葉を向けることが少なくなってきている。まして初めてのお客様に対して、「罪」などという言葉を突きつけるようなことを、するはずがない。
 
だが私は思う。それもひとつの選択肢ではないだろうか、と。この世の悪はどこからくるのか。人の罪からではないか。もちろんこのとき、教会はその罪とは関係のない正義の味方である、という態度をもっていれば、文章の中からそれはバレてしまう。教会自らの罪性を相当に踏まえた上で、罪と悪とを指摘することから、教会に誘うということがあってもよいのではないか、と思うのである。「救われるためにはどうすればよいですか」という問いの答えが、聖書にあるのであるならば、そこに反応する魂は、救いには実は遠くない。人の救いを目的とするならば、それもひとつの正道ではないか、と思うのである。
 
世の中に対して「悪」を覚える人は少なくない。最初はそれでもいい。しかしその「悪」が、自分の問題であるということに気づいたとき、ひとの眼差しは方向転換をする。それが神からのものであるならば、「救い」への道となる。仲間が楽しく集まる「気軽さ」が教会の特質ではないはずだ。「信仰」というものをどう捉えるか、ということにも関わってくるが、この「気軽に」問題は、キリスト者と教会の、基本姿勢を問うているのではないかと思う。



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