ギデオン◆19
2025年8月19日

ともかく、食糧と水だ。水を汲み上げておかなければならない。ヤビアはそばにあるだけの器や瓶を用いて、塔の上に水を集め始めた。周りの女たちも、それを見て協力し始めた。
自分だったら、どうするだろう。
そんな疑問を抱くことが人間にはある。しかしそれは、自分はそのような立場にはないという安心感の上にこそ成り立つ空想であって、いわば他人事に過ぎない。ヤビアの場合は、命を懸けて行動を起こす以外にない状況にあった。呑気なことを言ってはおれない。だが、だからといって実際に何をすればよいのか分からないし、そうしている間にも事態は逆巻く水と共に荒れ狂い、結局は押し流されていくことを運命づけられている。
やがて、どやどやと軍が町に入場する音が響いた。ついに誰かがアビメレクを招き入れたのだ。ヤビアは胃が痛くなった。案の定、軍は荒々しく狂い始めた。
叫びが何度も何度も聞こえ、逃げ惑う者は、命がまだある分には、近くのどんな建物にでもよいからと飛び込んでいった。並の家は破壊され、あるいは火をつけられた。人が目の前で次々と死んでいくのを見るのは、気持ちのいいものでない。もっとも、あと数分後には我が身であるならば、もはや誰がどう殺されようが、無関心にもなってる。
当然のことながら、この塔に向かって人々はなだれ込むように押し寄せてくる。とくに身分の高い者たちは最近の不穏な空気を嗅ぎつけたころから、この塔の近くに逃げやすい態勢を調えて暮らしていた。まことにそれは狡い考えだとヤビアはまた怒りに包まれた。
テベツの町全体が制圧された。
あとは塔の中に潜むのが、残された全住民であるかのようだ。
アビメレクの軍は、人々が立て籠もった塔の周りに集まった。
「降りてこい。テベツの人間よ」
アビメレクが下から叫んでいる。町の民は黙ってそれを見下ろしている。城壁の上には、さすがのアビメレクも届かない。
「逆らえば、ますます立場は悪くなる。命が惜しければ、おとなしく降伏するのだ。そして、今後はただアビメレクのみを王として忠誠を尽くせ」
そんな甘い言葉が嘘の塊であることくらい、幼子にも分かりそうだった。アビメレクは、手を抜きたいがために、住民自ら手放しになるように騙しているに過ぎない。ヤビアが警告していたことが、今やっと誰の目にも真実と映った。ただ、時が遅すぎた。
恐ろしいくらい静かだった。悲鳴さえ刺激になる、と塔の中では子どもの口を親が押さえるなど切迫した状況に包まれていた。
この静けさが、アビメレクの感情を狂わせ、判断を誤らせた。
「黙っているのか。馬鹿にするつもりか。それなら、こちらから塔を破壊しにかかるぞ」
アビメレクが塔に一人で近づいてきた。普通なら、こうした仕事は部下に命じてさせるはず。大将は塔から離れた位置で、全体の指揮を執るべきだろう。アビメレクは興奮していた。この手で最期を導いてやるとでも言いたげに、塔の入口のほうへ来て、また薪でもくべて蒸し焼きにしようと思っていた。
「シケムでは、このようにして、実によく焼けたものだ」
右手に松明を持ったアビメレクが、大声で笑いながら、塔の上の窓を見上げた。
そのとき、アビメレクの視界の中に、急激に大きくなる黒い物体が映った。それは何か。何だろうか。考える暇があるなら、せめて足を動かせばよかった。だができなかった。ただ、その黒い物体の向こうにぼんやりと見えていたのは、女だった。大柄な女がいる。両手を前に突き出した女が、やけにはっきりと見える。その女の顔のほうに焦点が合ったとき、自分を襲う危険のほうから注意が逸れた。
ゆっくりと、実にゆっくりと、アビメレクの頭の中で黒い物体が動いていた。火山岩から造られた丸い大きな……それは……そう、あれだ、臼、石臼だ……。
鈍い音。
一瞬のうちに、王のからだが跳ね上がるようになって倒れた。見ている兵士たちの目にはその瞬間が一日ほどもあろうかと思えたとしても、たしかに一瞬だった。
塔の上では、シメアテが仁王立ちしていた。その手から、あの挽き臼の上石が押し落とされたのを、すべての者が見ていた。
アビメレクの頭蓋骨が砕かれていたのは誰の目にも明らかだった。駆け寄ったマナセ軍の側近は、王を抱き起こそうとしてそれを諦めた。
「うう……」
まだ息はあった。かすかな意識もあった。飛び出した目玉とどす黒い血。
「頼む……殺せ……」
「何を仰います。お気を確かに……」とその側近は反射的に答えた。
「女だろう……女にやられたとあっては、名が廃る。剣を抜け。とどめを刺せ。アビメレクは、女に殺されたなどと言われたくない……」
男は周りを見回した。誰も、その命令に背く気にはならなかった。
腰から剣を取りだして、その側近が王を絶命に至らせた。
アビメレクの補佐をする者はいたが、アビメレクに代わって指揮を執る野心と能力のある者は、軍にはいなかった。まるで火が消えた用に、勢いあった軍勢もうなだれて、兵たちはすべてテベツの町を出た。兵とはいっても、もともとは各自で農業をはじめ日々の仕事を営んでいる身である。もはや主のいない兵たちは、ただの労働者でしかなかった。それぞれは、波に散った花びらのように、黙ったまま自分の家に戻って行くのだった。
テベツの町に歓声が起こった。塔から出てきた人々は、町の復興に力を注いだ。悲しい出来事もあったが、町は最終的には命をつないだ。イスラエルに平和が戻ったとため息混じりに言う老人がいた。若者は無邪気に喜び踊っていた。
シメアテは女の立場で町の英雄になった。だがシメアテは高慢にはならず、誰でもなしえたはずのことであり、たまたま神が自分にそれをさせたに過ぎない、とコメントした。その謙虚さがまた人々に気に入られ、シメアテはその後の生活を十分な報酬とともに送ることができるよう約束された。ということはつまり、ヤビアもまた、生活で苦労することがなくてすんだということだった。
ヤビアは、そんなことはともかく、あのアビメレクが悲惨な死を迎えたことで、久しぶりに胸のすくような思いがした。
再び元の状態を築くという具体的な目標をもって動き始めた町の活気の中で、再びギデオンの話を思い起こした。
「これは神だ」とヤビアは空を見上げて呟いた。「神のなさったことだ。アビメレクが七十人の兄弟を殺した報いがあったのだ。悪事に対しては、ちゃんと神が報復をされたではないか。たしかに、シメアテがしたのではない。あれは、神がしたのだ」
空を一筋の雲が流れた。ゲリジムの山が遠くに見えた。そこは、ギデオンの末の子ヨタムが、やっと生き延びた後に、兄弟たちを皆殺しにしたアビメレクを呪った場所である。
ヨタムの呪いは、神のなされたことだった。ヤビアは、シケムの住民がアビメレクを立てたことについても、神はきちんと清算されたのだということに改めて気づくと、自分はそのシケムの生き残りとして、今から自分は何をすべきだろうかと思案するのだった。 【了】