【メッセージ】さいわいなるかな
2025年8月17日

(マタイ5:1-12, 詩編1:1-3)
心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)
◆山上の説教
ガリラヤの風かおる丘で 人びとに話された
恵みの御言葉を わたしにも聞かせてください
嵐の日波たける湖(うみ)で 弟子たちを諭された
力の御言葉を わたしにも聞かせてください
ゴルゴタの十字架の上で 罪人を招かれた
救いの御言葉を わたしにも聞かせてください
夕暮れのエマオへの道で 弟子たちに告げられた
命の御言葉を わたしにも聞かせてください
※2節が「弟子たちに」と表記されているウェブサイトが多々あります。『讃美歌21』の2001年版以前のものが「弟子たちに」と記されており、作詞者別府信男氏の指摘を受けて、日本基督教団出版局がこれをお詫びし訂正しています。1997年から数年間、この誤りが気づかれていませんでした。
2024年12月26日、ひとりの作曲家が亡くなりました。冬木透さん。「ワンダバ」など、ウルトラシリーズの曲を多く生み出した人だ、と聞くと、ハッとする方が多いだろうと思います。享年89歳。ウルトラマンを生んだ円谷プロは、カトリック一家であり、キリスト教のモチーフで創られていることは有名です。私も、別のところで詳しくご紹介したことがあるので、ご存じの方もいることだろうと思います。
冬木さんの代表的な賛美歌というと、この「ガリラヤの風かおる丘で」でしょう。作曲者は蒔田尚昊(まいたしょうこう)となっていますが、冬木さんの本名です。作詞者は別府信男さん。2節の歌詞の誤りを指摘した当人ですが、若者のキャンプを機会に生まれた詩だといいます。
「風かおる」というセンスがステキです。この「かおる」は「薫る」と書くべきでしょうか。初夏の若い緑の間を吹く風を思わせます。「薫風」という語を書き下し文としたのでしょう。美しい言葉です。NHKでは2026年、「風、薫る」という題で、新しい連続テレビ小説、通称「朝ドラ」が始まります。クリスチャンとして日本の看護婦の嚆矢となった一人、大関和(ちか)を中心に描かれます。原案の本には、植村正久や矢嶋楫子(かじこ)が重要な人物として登場しますが、果たして、ドラマではどうなるでしょうか。
1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た。
2:そこで、イエスは口を開き、彼らに教えられた。
マタイ伝の5章をお開きしました。いわゆる「山上の説教」と呼ばれる箇所を、今日から少しずつお読みしようかと思います。昔は「山上の垂訓」と呼びました。教えを垂れることですが、「垂れる」とは上から下へ、というニュアンスが伴います。イエスが高いところから教えを垂れるわけです。しかしその言葉がピンとこなくなった時代だということなのか、「垂訓」は「説教」と言い換えられるようになりました。
教会へ行ってまで、お説教を食らうのか、と「説教」という言葉は誤解を受けるかもしれません。しかし元来「説教」とは「教えを説くこと」を意味し、仏教で使われていた言葉だと思われます。キリスト教会でも、その言葉を借りました。できれば元々の意味が一般的になって戴きたいものです。
さて、イエスは「山に登られた」と言いますが、私たちのイメージする「山」とまでは言えず、かの賛美歌の歌詞のように「丘」を想像した方がよさそうです。でも情景はよく分かりません。これらの教えは、どうやら群衆を避けて弟子たちだけに語ったような表現がここにあると思うのですが、そうだとすると、群衆に追いかけられるのを避けて、イエスは弟子たちとひっそりと山に忍び入ったようなことであるのかもしれません。
ただ、そもそもマタイ伝でこのように「説教」が並んで記されたのは、イエスが一度に話した記録だというよりは、あちこち様々な機会に語ったものを、語録としてまとめたのではないか、と研究者は考えています。一度にこの丘で一気に話した記録だ、と捉える必要はないでしょう。具体的な時と場所で語ったことが明確でないものや、それを書く必要がない一般的な教えについては、このようにまとめてもらうと、確かに私たちにとっても、たくさんのイエスの教えを知ることができてうれしく思います。
だからまた、情景を思い描かなければ読み解けない、と考えるのは、あまり意味のないことであるとも考えられます。しかし、「ガリラヤの風」を感じたつもりでその声を聞いてみたいものだと思います。私は実際にその風を受けたことはありませんけれども。
◆幸福なるかな
文語約聖書は「幸福」と書いて、そこに「さいはひ」とふりがなが振ってあります。「さいわいなるかな」と私たちは口にします。ここには、8つの「幸い」が記されている、と普通捉えられています。よく見ると、9つめも、同じく「さいわいなるかな」で始まっているのですが、他の8つとすこしばかり2語めからのリズムが違うため、「八福」として8つをこの教えのグループとして考えるのが普通です。
これらの「幸い」は、一つひとつが取り上げられて、説教に用いられることもあります。全体を一度に語るには、いろいろあって、短い時間では語りきれないようなのです。私たちも個人的にここを読み味わうときには、一つひとつ留まって黙想した方がよさそうです。それぞれに、深く思うべきことが多々あると言えるでしょう。
例えば最初は「心の貧しい人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである」というものです。ここだけで、もうわくわくしてきます。「心の貧しい人々」とはどういうことを謂うのでしょうか。しかも並行して記されているルカ伝では、ここは単に「貧しい人々」と書かれているのです。
マタイはここに「心」を付け加えました。しかも「心に於いて」という形ですし、この「心」は「プネウマ」という語が使われています。ある時は「霊」を指す言葉で、「魂」や「風」を意味することもある語です。もし「霊に於いて貧しい」と読めば、私たちの想像は、またうんと違うところに着地するかもしれません。
研究者の多くは、ルカの「貧しい人々」が元のスタイルではなかったか、と推測しています。そこで、マタイはどうして「心に於いて」と付け加えたのか、昔からいろいろ議論されてきました。関心がおありの方は、ぜひ調べて、そして考えてみてください。
また、後半の「天の国」というのは、キリスト教で死んだら天国に行く、という考え方があるとして知られていますが、本来「神の国」という意味であることはほぼはっきりしています。マタイは、十戒に従って「神」と無闇に口にすることを避ける手前から、「神」と言いたいときに、それを「天」と言い換えて使うのです。さらに、「国」というのも国土を考えるよりは、「支配」という抽象的な意味で捉えた方がよい、などという説明もよくなされます。
このような知識と共に、尤もらしい説明も各方面でなされるのですが、本で見た説明とやらを、いつもそのままに信じてよいのかどうか、それもよく分かりません。無知の故の思い込みはいけませんが、せっかく研究してくれていることを用いつつも、自分なりに受け止めることも大切なのでしょう。神が、「あなたはどう思うか」と問いかけてきているかのように。
ああ、私は救われる前は、心が貧しくなかったのだ。そういうところから黙想することもできるでしょう。というのは、イエス・キリストを信じた後、私は幸いを受けたのであるならば、信じたときに心が貧しくなった、ということになるでしょう。信じる前後の違いを際立たせて、このように読んでみることも、できるかもしれません。
しかし、いま信じているからキリスト者はこの「幸い」を全部クリアしているのだ、と見なしてもよいのでしょうか。それは妙な自惚れや自己満足に陥る危険はないでしょうか。私は信じているよ、だから幸いなのだ。こう断言することに、躊躇いを覚えないでしょうか。
パウロの手紙のあの「愛の章」に、自分の名前を入れて自分を愛の人のように言ってしまうことは、私たちにとてつもなく恥ずかしい気持ちを懐かせるのですが、私は幸いです、と自分で言うことも、やはり恥ずかしいような気がしてなりません。
◆幸いとは
いま、最初のひとつだけ見ても、こういうふうです。何も説明などしないままに、時間ばかりが過ぎてゆきました。八福の他のものも、このように一つひとつ読んでみたところで、もしかすると時間を費やしただけで、何も分からなかった、ということになりかねません。そこで一度に最後に目を進めてしまいますが、9つめも含めて、注目してみましょう。
10:義のために迫害された人々は、幸いである/天の国はその人たちのものである。
11:私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。
こうして見ると、9つめは、8つめと内容的には同じようであり、8つめの「迫害」について少し具体的に説明しているような気がします。それよりも、これまでその都度、幸いな人々が受ける報いが様々言われていたのに、8つめのものは、「天の国はその人たちのものである」というよりも、最初の報いと同じものが置かれている点が特徴的です。
「迫害」とは、神の民だと信じているが故に敵から害を受けること、とでも言っておきましょう。信仰者にしてみれば、もちろん嫌なことです。命を取られることさえ現実的であった時代には、正に必死であったことでしょうけれども、たとえそうでなくても、いじめや疎外が正義の名の下になされ、自分がその当事者であるとするなら、辛いことこの上ありません。現代なら、トラウマになること間違いありません。
幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。
幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。(詩編32:1-2)
信仰的に「幸い」ということについては、詩編は「幸い」の宝庫であって、「いかに幸いなことか」という訳語だけでも、詩編で13もの節が数えられます。キリスト教を信じて、幸福を感じる人もいます。それは、正にこの詩のように、罪を赦された喜びてあり、主の裁きに遭わず偽りのない生き方を歩める満足であるだろうと思います。なにも、好き好んで迫害されて幸せだと言う予定は、たぶんありません。
そもそも日本語で「幸い」とは、どういう捉え方からできた言葉なのでしょうか。古語としては、「さきはひ」から来ていることは確かな模様です。その意味の説明は幾つか説があるようです。花が咲くこと、獲物を得ること、などです。「幸せ」となると、また別の和語ですから、その始まりはまた違うようです。これをまた「さち」と読むと、様子が変わってきます。また、「幸」という漢字になると、手枷を外されるような由来があるのだそうです。
ギリシア語ではどうでしょう。「祝福された」のニュアンスを指摘する人がいます。しかし「マカリオス」は、キリスト教が色濃くその後にこめた意味だと思われます。それでも、何かしら元々神秘的な雰囲気を有する考え方だったのかもしれません。
◆聖書の幸い
ヘブライ語ではどうでしょう。私たちは、何といっても詩編1:1で衝撃的にこの言葉と出会います。
1:幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。
2:主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
150を数える詩を集めた書の冒頭が、「幸い」なのです。詩編の最後の最後を飾るのは「賛美せよ」でしたが、最初の最初は「幸い」なのでした。詩編は、この「幸い」に満ちています。それは確かに、主という神の下にあることの幸いであるのですし、その意味からしても、祝福されていることが含意されている、ということは正しいだろうと思います。ユダヤ文化から、宗教や神を取り除くことは不可能ですから。
ところで、『ピーナッツ』という題のコミックをご存じですか。知らない方でも、「スヌーピー」という名の犬のことは、お分かりではないかと思います。1950年から半世紀にわたり新聞連載されたシリーズで、日本語訳は谷川俊太郎が、素晴らしい訳語をつけ、愛されました。
しかしキャラクターとしてスヌーピーを好きだと言っている人のうち、どれくらいの人がコミックを実際に読んでいるのかは知れません。話は、なかなか難しいのです。というより、作者のシュルツは、信仰篤い人であり、信徒説教者でもあったというくらいですから、精神的に非常に深いものをそこに宿しているのです。
その最初の絵本と言われるものに『しあわせはあったかい子犬』というものがあります。世界的な大ベストセラーとなりました。この言葉自体は、コミックの中でも時々登場します。
さりげなく、スヌーピーを抱きしめるルーシーが印象的ですが、ほかにも幾つかの言葉の頁があります。「しあわせは/夜じゅうついてる小さな明かり。」「しあわせは/なやみを解決してくれるだれかがいること。」「しあわせは/特別な人を待っていること。」「しあわせは/パーティーによばれること。」「しあわせは分かち合い。」「しあわせは/トロフィーをかちとること。」「しあわせは/自分が自分であるのがうれしいこと。」など、挙げれば全部ここに並べてしまいそうです。そして「しあわせはあったかい子犬」がタイトルとなっています。
猫好きの私にとっては、子犬でないとしあわせでないのかなぁ、という気持ちも起こりますが、まさかそんなつもりで読む人など、いるはずがないし、そんなつもりでこの言葉が生まれたのではないだろうと思います。
でも、お気づきでしょうか。谷川俊太郎は、「しあわせは」と並べました。確かに原文はそうなっています。主語は「幸せ」という名詞です。マタイ伝の山上の説教の八福は、確かに形容詞ではありますが、「幸いな」からすべて始まっているのです。シュルツが、山上の説教をスヌーピーを通じて語っていることは確かだと思われます。
◆幸せの帰納的定義
さて、イエスの山上の説教の八福で、「幸い」だと称された人々を列挙してみましょう。
「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「へりくだった人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を造る人々」「義のために迫害された人々」
そこで、後世の解釈者たちは、考えました。「心の貧しい」とはどういうことか。この「悲しむ」というのは、どのように悲しむことなのか。「義に飢え渇く」というのは実際どういうことをいうのか。「憐れみ深い」ためにはどうすればよいのか。「心の清い」とはいったいどういうことなのか。「平和を造る」とは実際どうすることなのか。そして私たちは実際に「義のために迫害された」ことがあるのだろうか。等々、それぞれの意味を考察しようとしてきました。もちろん、それも大切なことだとは思います。
でも、私は不思議に思います。これではまるで幸いへの入口についてあれこれ迷ってはいるものの、行き着くゴールの「幸せ」ということについて、誰も問うていないからです。「幸せ」というのは何なのか、解釈者は問題にしません。恰も、それについては誰も皆口にしなくてもすでに知っており、すでに常識として知っているかのようです。その上で、さて「心の貧しい」とはどうすればよいのかね、などと議論しようとするばかりなのです。
でも、そんなに簡単に分かっているのでしょうか。「幸せ」とは何か、ということが。「しあわせって 何だっけ 何だっけ」と歌うCMを覚えておいでの方もいるでしょう。もう40年近く前のテレビコマーシャルでした。まさか、ポン酢しょうゆがなければ幸せでない、などと思う人はいなかったでしょうが、ポン酢しょうゆくらいで幸せになるのなら、それはそれで幸せなことなのかもしれません。
マタイ伝を普通にこのまま日本語で読むと、「心の貧しい人」が、なぜ幸いなのか、それを説明しようとするでしょう。実際、大抵はそのように悩み、また解説します。でも、それは方向が間違っているのではないか、と私は提言したいと思います。
ギリシア語の言葉の順序は、こうなっています。「幸せだ、心の貧しい人々、だって彼らのものなのだ、天の国は」と。
もっと砕いた言い方をしてみましょう。「幸せっていうのはね、心が貧しいってことさ。だって、そういう人のいるところが天国っていうんだから」と。
もちろん、「心が貧しい」というところは、定冠詞付きで、「人々」のことを意味します。でも、雰囲気を噛みしめるならば、今言ったようなことでもよいのではないか、と思うのです。
ギリシア語が並んだ順序で、このように「幸せっていうのはね、たとえば、こういうことを謂うんだよ」という言い方で読んでみたいのです。必ずしも「幸せ」というものが自明ではなく、それはひとつに決めてしまうようなことはできないのだけれど、たとえばこういうことを謂うのではないかな、と、いろいろ具体例を挙げてヒントにするのです。これは帰納的な定義です。
それは、何か論理的に、あるいは哲学的に、一つの定義を掲げて、それを原理に思考を始めるということとは違います。「幸せ」を知りたいならば、こういうものを見てごらん。幸福をイメージするには、このように考えてみてはどうだろうか。教室で、先生が生徒に考えさせるような様子が、私の頭に浮かんできます。子どもたちは、わくわくと想像します。じゃあ、こういうのも幸せではないかなぁ、などと、自分の中から子どもたちは生み出そうとすることでしょう。
そう、私が思うに、イエスは正に、弟子たちを教育しようとしていたのです。
◆幸福論
聖書は、論文ではありません。数学的な証明でもありません。聖書は、「幸せ」を明確に定義しようとしているのではないと思います。
最近、政府は、経済の役に立たない文学を、学問の世界から排除しようとしています。しかも、妙に政府批判を考え出す文学部というものが、邪魔でたまらないかのようにも見えます。文学部には金を出そうとしないどころか、文学部を大学から廃止しようとしている、と言われても仕方がないような急な動きを感じます。
「哲学科」そのものも減っています。もちろん、哲学を全く学べないということはないのですが、他の学部や学科の隅っこに申し訳にコースが存在している、というのが実情です。現在日本の大学で、「哲学科」という名の「科」のある大学は、私がざっと数えたところ、12しかありませんでした。
哲学でなくても、純粋に「文学科」がある大学も、かつては当たり前の存在でしたが、いまは決して多くはありません。人は、文学を通して、人生や世界の真理を探します。政府や独裁者が定めた、ひとつの価値に奴隷的に従おうとは思わないはずです。どこまでも一意的な解答のない問いを問い続けます。答えは、決して演繹的に求められるものではありません。せいぜ、帰納的に探究されるばかりです。
文学を通して、人は幸せを、その都度その時の具体例で学び、考えます。もし何か定義をしたかのようであっても、その定義は万人に普遍的に定めるためのものではありません。しかしこういうのは学問ではない、と、悪い意味での経済至上の頭脳をもつ役人たちは、経験科学をすべて唯一の目的のために奉仕する道具のように支配しようとします。権力を批判する者たちは、うるさいから排除したいと思うし、経済的でない文化には金を出したくないのが本音です。少なくとも、やっていることを見ると、そのように見えます。
「幸せ」について考えた議論を「幸福論」といいます。西洋には、有名な幸福論が近代に二つあるように考えられています。アランの幸福論とラッセルの幸福論です。アランの方は、ただ読むにも読みやすいという人が多く、ものの見方を変えて行動しようという励ましに満ちています。ラッセルは、自分の内にこもることから解放されて、関心を外に向けること、人と共に幸せをつくろう、と考えているようです。
もう一つ、ヒルティの幸福論も知られています。ヒルティは、キリスト教に沿った形での幸福を提言します。聖書が頻繁に登場しますし、キリスト者が読むと、読みやすい内容だと思います。
◆聖書を開いて
新約聖書の最後に、「ヨハネの黙示録」という、少し怖い内容の本があります。この世界の最後の姿の幻が描かれています。かなり象徴的に、また幻想的に描かれているので、謎解きのような分からなさがつきまとうのですが、その最初のところと最後のところにも、この「幸い」がちゃんと刻まれています。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである。(黙示録1:3)
見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、幸いである。(黙示録22:7)
それから、旧約聖書の申命記は、律法の箇所のまとめとしてコンパクトにその思想が盛り込まれているものですが、そこに、イスラエルの民へ決断を求めているところがあります。
見よ、私は今日、あなたの前に命と幸い、死と災いを置く。(申命記30:15)
神の言葉、即ち律法を守ることによって、その命と幸いの道を行け、ということなのでしょう。
このように、聖書は「幸い」に溢れています。新旧約聖書66巻の中で28巻の中に、確実に「幸い」という日本語の訳語が見られます。私たちが聖書を開くと、幾度もその「幸い」という言葉に出会うことだろうと思います。しかしそれは、「幸い」を定義しようとするものではなく、どういうことが「幸い」の例であるのかを、実に様々な角度から提示しようするものです。
スヌーピーの『ピーナッツ』コミックでは、「しあわせはあったかい子犬」という形で象徴された、「幸せ」の例が挙げられていました。きっと、それでよかったのです。その人により、その時により、様々な「幸せ」との「出会い」が人にはあるからです。万人に等しい「幸せ」を掲げるのは、人を騙すための方法ではあるでしょう。人心を操るためには、同じひとつの思想に統率する必要があります。ばらばらであっては困るのです。
ここまで聞いてくださった方々の中には、「幸い」とは何か、について、早く教えてくれよ、と言いたくなる人がいるかもしれません。また、そんなものに決まりはない、と私が言っているように聞こえた人がいたかもしれません。しかし、誤解を与えてはいけないと考えています。そうです。必ずしもそうではありません。神との関係がそこにあること、神の前に私たちが立つということ、そして同じ聖書から何かを示されるべきであることを、除外することはできないのです。
私たちは、一人ひとり異なります。自分に適用できる「幸い」というものがいろいろあるかもしれません。でもそれは、聖書から響く声と共鳴するものでありたいものです。神の思いと重なるものであるものこそ、本当の「幸い」なのでしょう。そのためにも、私たちは日々聖書を開いて、そこから神の言葉を、神の心を受け取りたいと思います。