ギデオン◆18

2025年8月17日

 胸も脚も熱くはちきれそうになったころ、塔が見えてきた。
「あれだ。一度だけ見たことがある。あれがテベツの塔だ」
 テベツのシンボルでもある神殿の塔が、彼方に見えた。ヤビアは脇の小川で咽の渇きを潤すと、心臓もまたひとつ冷静になることができた。
 涙よりも今は、憎しみが強かった。
 ヤビアは、城門を叩いて叫んだ。
「お願いです。開けてください。シケムから来ました。シケムのヤビアといいます。シケムが、アビメレクによって滅ぼされました……」
 門番も、少年の異常な叫びに戸惑いながらも門を開けた。ヤビアはすぐに中へ通された。首長のところへ連れて行かれると、ヤビアはすべてを話した。
「もしかすると、そのうちこの町にもアビメレクが来るかもしれません」
「まさか、そのようにすぐにここに来るわけではあるまい」
「しかし、アビメレクは狂気に満ちています。従順でない町を次々と刃にかけていくかもしれません」
 役人たちは顔を見合わせた。
「まあ、用心だけはしておこう。だが、見えもしない敵に対して、必要以上に怯えることもあるまい。ヤビアとやら、とにかく不幸な目に遭ったおまえについては同情する。この町で働いて暮らすがよい」
 ヤビアはそれでもなお、食い下がった。
「ですが、アビメレクというのはとにかく危険な人間でないのですか。そして、この町もまた、シケムと同じようにアビメレクに対して反旗を翻したのでしょう。だとしたら、シケムを襲ったその足で、今度はこのテベツを狙って来ないとも限らないと思います。昔、ノアはただちに箱舟づくりに着手したがために、命を救われたということもあります。少なくとも、シケム方面に偵察を送るなどしてみてはいかがですか」
「すると、おまえは神の言葉を取り次いでいるとでも言いたいつもりか?」と長老は苛立って言った。「思い上がるのもいい加減にしろ。世の中は、おまえのような若造を中心に動いているのではないのだ。拾ってやっただけでもありがたく思え」
 跪いたまま、少年は悔しい気持ちでそこを立つことができなかった。大人たちがその場から消えても、ヤビアはじっと地面を見つめていた。涙がこみ上げてきた。
 ヤビアは、おばの家で養われることになった。頼りにしていたおじは、三ヶ月前に病気で亡くなっていた。子どももおらず、その妻が一人残されていた。おじよりもさらに年上だったので、ヤビアから見るとずいぶん高齢だった。
 初めて会う人の前でヤビアは緊張していた。おばは、気さくな人だった。
「あんたのことは聞いているよ。可哀想にねえ」
「いえ……」
「いいばあさんがいるかと思って来ただろう?」とシメアテというその女が言った。「なあに、亭主に先立たれたとはいえ、私自身もまだまだ働けるさ。粉を挽く仕事をしていれば、あんた一人くらい養うことは簡単だよ」
 シメアテは大柄な女で、太い腕を示すと豪快に笑って見せた。ヤビアは、ぺこりと頭を下げた。
「すみません。何でもして働きます」
「そうだねえ。いくらかでもそうしてくれると、ありがたいねえ。私は毎日、あの町で一番高い塔に行って、そこで小麦粉を挽いているよ。そこまで小麦を運び込んでくれるなら、ずいぶんありがたいことだけどねえ……」
 男あるじのいない家ほどつらいものはない。そうした男でのない家庭というものでは生活自体が成り立たないのが普通の社会において、このシメアテの場合は、まだ力仕事がいくらかできる分だけ恵まれていた。
 けれども、やはり経済的には苦しかった。頼りになるのは自分の腕だけだとすると、破綻をきたしていただろう。テベツの町の人の憐れみもあって、なんとか食べ物に事欠くことはなかった。むしろ、ヤビアが来たことで何かと家の中の力仕事が任されるようになり、小麦を運び込んだり粉を運び出したりすることによって、シメアテの仕事もはかどるようになった。臼は、もう一人の女の人と一緒に向かい合って取っ手を回して轢くようにする。始めたので、生活は潤うのではないかとさえシメアテは計算し始めた。
 そんな生活が始まって二月ほどたった。その間ヤビアが、すぐにでもアビメレクの軍が襲ってくるといったことも起こらなかった。だが少年の戯言を本気にする大人もいなかったので、ことさらにヤビアを責めるような動きもなかった。
 しかしその日、急に町がざわめき、人々が右往左往するようになった。
「どうしたんですか」
 背中に小麦の袋を担いだヤビアが、急ぎ走ってくる人に尋ねた。
「どうしたも、こうしたも、大変なことだ。アビメレクが軍隊を連れてこの町に向かってきつつあるってよ」
「なんですって……」
 ヤビアは背を伸ばし、目を大きく見開いた。その男はすでにそこにはおらず、後ろに逃げ去っていた。ヤビアも振り返り、シメアテのいる町の塔に向かって走るように急いだ。
 煉瓦を積み上げた塔が、町の門の近くにそびえている。そこでシメアテに、アビメレクが攻めてきていることを知らせると、シメアテは、どうりで下の方で騒がしいと思っていた、と答えた。塔の上から見ると、アビメレクの軍の姿が山の尾根をこちらへ向かって進んできてた。もうすぐここへ着くだろう。
 すぐにテベツの自衛兵たちが集結し、それを待ち受ける準備を整えたが、とても太刀打ちできるものにはならなかった。
 ついに、軍隊が城壁の町を取り囲んだ。
「テベツの住人に告ぐ」と、城壁の外のアビメレク軍から大きな声が響いた。「アビメレクに従うかどうか、答えてもらおう。これまでもテベツは、アビメレクに向かって反抗のしるしを表してきた。しかしすでに知っていることだろう。シケムはそのように逆らったために、二月前に滅亡した。テベツも同様になりたいとするなら、そうするがいい。だがこれを機会に改心して、イスラエルの王アビメレクに従うことを誓うならば、命だけは助けてやろう」
「命だけは助ける……か……」
 塔の中に集まってきていた町の首長や長老たちは、互いに顔を見合わせた。
「いけません」とヤビアは大声を出した。「アビメレクの言葉は偽りです。真に受けて城門を開ければ、きっとあの軍は突入して、町を滅ぼしにかかるでしょう。アビメレクとは、そのような男なのです」
「しかし逆に、言うとおりにしなかったがゆえに怒りを招いてよほどひどいことになる、という可能性もありはしないか」
 知ったり顔の壮年の男が、厳しい表情でヤビアに諭すように言った。
「そうだよ。かりにも、イスラエルの王として上に立つ人だ。嘘ばかりついているわけにはいかないだろう」
 同調する呑気な大人に対して、ヤビアは腹が煮えるように熱くなった。
「だめです。アビメレクはそんな奴ではありません。自分の兄弟七十人を、いとも簡単に殺したのですから」
「そんなことくらい、言われなくとも知っている。だがそれは、権力争いの問題だった。おれたちは、王位を競うわけではない」
「それくらい残酷だということです」
「生意気なことを言うな。この町のことは、この町の長老たちがちゃんと考えてくれる」
 ヤビアは悲しくなった。塔の中で働く者たちは、その場で怯えるようにしてやりとりを見ている。そしてヤビアが相手にされなくなったとき、シメアテは近寄って言った。
「おまえの言う通りだよ。だが、お人好しにも誰かが城門を開けてしまったりしたら、とにかくこの塔に閉じこもっていよう。ここは頑丈にできているからね。ちょっとやそっとじゃ壊れはしないさ」
「閉じこもって、それでどうするんですか」
「待つのさ」とシメアテは言った。「兵士たちは、ここまで上がってくることはできない。相手がへこたれるのを、じっと待っているわけさ」
「でも、ここで閉じこもっていると、袋の鼠ですよね」
「なあに。食糧と水さえ手に入れば、人間は生きながらえることができる。どうかすると、ここからあの石臼でも落として、脅かしてやるさ」
 シメアテは自分が粉を挽く大きな石の臼を指さした。山から採ってきた大きな火山岩を使った、黒っぽい大きな臼は、小麦を粉々にするだけの重みが十分ある。二人の女で上石にある木の取っ手を回して、白い粒を得るのだ。
 ヤビアは、一度きりのそんな手に頼ってみるしかないシメアテのことを、悲しく思った。   (続く)



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