ギデオン◆17
2025年8月16日

見上げると、アビメレクがかつて戴冠式を行った、石柱の脇にそびえるテレビンの木が風にかすかに揺れたように見えた。
「ガアルの軍は、勝てるだろうか」
「勝てるとも。少なくともこの町にいる者のうちでは、最も強い男だ」
「だが戦いは、一人の力で勝てるわけではない。兵卒が少なくはないか」
「アビメレクの方にしても、それほどの大軍を率いてきているとは思えないが……」
「……負ける……」
「何ということを言うのだ」
「……負けるのは明らかだ。皆だって、内心そのように思っているだろう?」
「そんなことはない……」
「いや。思っている。勝てるわけはない」
「つまり、現実問題として、ガアルが敗れた場合にどうするか、を考えておくのが、われわれの立場というふうに考えると……」
「いや。必ず負ける」
「そんなことばかり言わないでくれ」
「私も、負けると思う」
「おまえまでがそんな……」
「だから、この町をその後どうやって守るか、を考えておかなければならない。とにかく、籠城するしかないのではないか」
「籠城か……辛いものだ」
「でなければ、今のうちに逃げ出すかしかないだろう」
「ありったけの食糧を、貯め込んでおかなければなるまい」
生命が破られることを懸念する状況においては、正常な判断ができない。というより、正常な判断というのは、そもそも生命の危険に関係のない安穏とした状況の中でのみそう言われることなのであって、誰もしょせんは普段は失敗も許され、どうでもかまうものかという無責任な態度で判断を下しており、それを正常だとか常識だとか呼んで互いに納得しあっているに過ぎないのではないか。シケムの人々の判断が誤っていようが、無謀であろうが、知恵が足りないように見えたであろうが、どれも他人事だとして安心しきっている他者が勝手に下している呑気な判断なのだ。
結局、シケムの人々は、この城壁の町を捨てて逃げることはなかった。町を愛していたがゆえに、町と共に心中しようとしたためではない。逃げるより先に、いとも簡単に、ガアルの軍が敗れてしまい、たちどころにアビメレクの軍勢がシケムを取り囲んでしまったためである。
アビメレクはガアルを追い上げ、ガアルはすぐに敗走した。ガアル本人は、これまでもしぶとく生き延びた山賊の知恵でもって、山の中に逃れたようだった。しかし、ガアルを信じて町を守るために立ち上がったシケムの若者たちは、無惨な死体となって散らばった。人々が『大地のへそ』と呼んでいた丘と、それから『占い師の樫の木』の道と称される道の、二手に分かれてアビメレクの軍は来ていたが、それぞれへ向かった無策のガアル軍は、出会うなり退却を始めた。斬り倒された者が、その場から順にシケムの城門に続いて並んでいる様は、あまりにも惨めだった。
しかし、さすがに閉ざされた城門は容易に破られはしなかった。アビメレクにしても、単純に攻め続けるだけがすべてでないことを知っていた。それゆえ、籠城に対して自軍が自滅することのないように、自分を含め隊の一部は南部の拠点アルマに戻ってゆっくり構えることにした。
翌日、シケムの町から、様子を窺う偵察員が城壁の外に出てみた。たしかに一見、アビメレクの軍は完全に一度引いてしまったように見受けられた。えらく簡単に諦めたな、などと偵察員は笑みを浮かべた。損な役を引き受けてしまったか、とびくびくしていただけに、この平穏な空気はひときわうまかった。
しかし、事態はそれほど甘くはなかった。実際、アビメレク軍の小部隊が野に隠れて見張っていた。しかも、その部隊はいやらしいことに、すぐにその偵察員に躍りかかるようなことはしないで、無言で偵察員を観察し続けていた。そしてこのことが密かにアルマのアビメレクに知らされると、アビメレクは三つの部隊を静かに派遣した。
シケムの町から、安心した者がおびき出されるようにぞろぞろと出てくるのを待ち伏せして、そこを襲いかかる。アビメレクはほくそ笑みながら、作戦の成功に酔いしれる夢を見た。
やがてそれは正夢となった。三つの部隊の前に馬鹿正直に現れ出たシケムの人間は、たちまち打ち殺された。
アビメレクは、大きな部隊と共に行動し、自ら町の門に出向き、そこを抑えた。残りの二つの部隊はまだ野でシケムの人間を面白いように殺しまくっていた。血が地面で乾き、砂がかき消す。それでも血の跡は絶えなかった。
アビメレクは、ついに城壁の中に押し入った。するとその日一日でシケムを制圧した。見つけ次第住民は殺害し、ありとあらゆる建物を破壊した。女も子どもも容赦なかった。命乞いをする母子を同時に槍が突き刺した。
「いささか残酷ではございませんか」
部下の一人がたまらず提言したが、アビメレクはきっと振り返って叫んだ。
「何が残酷だ。私を罵倒し、王を呪ったのだ。裏切り、寝返るような奴らには、これくらいのことをしてもまだ足りないくらいだ」
「しかし、王の母上の町でもあり……」
「やかましい」
アビメレクはその部下の胸を、握り返した槍で一撃した。男は呻きながらシケムの地に倒れた。知恵のあった男だったが、アビメレクの狂気までは見抜けなかったらしい。それを見た者は皆、王をさらに恐れた。
「よいか。情けはいらない。王の刃向かう者に対しては、死あるのみだ。分かったか」
各地に火が上り、また土には血の降らない場所はなかった。
「塩を撒け。こんな土地に、二度と人が住むことなどできないようにな」
紅い血の後には白い塩が撒かれた。見えないうちに土地は塩分を抱き込み、作物が育たないような土壌に変えられていったことは確かだった。こうした呪いを受けた土地は、歴史始まって以来ほかにはなかったし、この後にもなかった。
シケムはアビメレクによって、壊滅された。
ただ、まだ生き残った人々があり、シケムの神殿に属する祭司やその関係者などは、契約の神の神殿の塔に立て籠もった。そこの地下壕は、頑丈にできており、たしかにアビメレクといえども、簡単に踏み込める場所ではなかった。
そのことを知ると、アビメレクの怒りは頂点に達した。
「ネズミどもめが……」
アビメレクは、シケムの住民の残りがすべてそこにいることを確認すると、部隊を率いてツァルモン山に登り、自ら斧を手に取ると、そばの木の枝を切り落とした。そしてその太い枝を肩に担ぐと、兵士たちに向かって叫んで言った。
「私が何をするのか、皆の者は見たはずだ。さあ、急いで私と同じようにせよ」
男たちは、同じようにそれぞれ枝を切り落とすと、アビメレクの後に従った。そのままシケムの町にすべて運ぶと、かの地下壕の上に次々と立てかけ、重ね始めた。
「火をつけろ」
アビメレクの声が乾いた空に響いた。炎は木を焼き、そして地下壕の中の人間を蒸し焼きにした。
こうしてシケムの神殿は滅びた。逃げ込んだ男女の数は、千は下らなかったことだろう。
アビメレクは、いくらか胸のすく思いがした。しかし、まだ気分は晴れ晴れとはしなかった。
「テベツを落とす」
シケムから北東に数時間行軍すると、テベツの町がある。シケムと同様、この町も、アビメレクには反旗を翻していた。それは、まだシケムほどの刃向かい方ではなかった。つまり、まだ話し合いの余地はあったのだ。だが、血を見て興奮するのは動物だけではない。ここに獣がいた。シケムを血祭りに上げたアビメレクは、明らかに興奮していた。
「どうしてテベツを……」
「テベツもまた、私に逆らったから、滅びるしかないのだ」
「もう十分ではありませんか……」
そう言った下士官は、アビメレクの視線を受けると、口を押さえてその場から逃げ出した。アビメレクは、もうその男を追うことはなかった。一刻も早くテベツに復讐したかったのである。
急いで向かうアビメレクだったが、シケムの中から逃れた人間の存在を甘く見ていた。
全滅したシケムの町だが、人一人遺さずして滅んだわけではない。
「くそう。くそう……」
アビエゼルより先に、テベツへ走る若者がいた。あの長老の孫ヤビアであった。
ヤビアは、テベツに親類がいた。殺された母親の兄が、テベツにいるはずだ。そこを頼ろう。そこに行けば、少なくともアビメレクを敵とする人々が大勢いる。このシケムでの出来事を伝えれば、立ち上がって復讐してくれるかもしれない。
足が痛くなっても、これくらいで止まってはいけない、と自分に言い聞かせた。命がなくなるまで、走り続けようとヤビアは自分に誓った。丘を越え、谷を越え、ヤビアは走った。
「ヨタムだって生き延びた。そしてヨタムには神がついていた。ヨタムが呪った通りのことか起こった。それなら、きっと……」
涙よりも先に、ドクドクと興奮する心臓からは、復讐の濁流が前進に向けて押し出されていた。
後方からアビメレクが来ていることは知らなかった。アビメレクも、ヤビアの存在を知らなかった。 (続く)