神と人を愛するということ
2025年8月11日

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」(マタイ22:34-40)
説教者が引用したわけではないが、新約聖書のここを踏まえての説教であったことは言えるだろうと思う。イエスが、最も重要な「戒め」には二つあるとし、ファリサイ派が納得するような旧約聖書の根本命題を二つ提示した。それらは、たとえば次の「律法」の箇所に由来すると思われる。
聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4-5)
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を繰り返し戒めなさい。そうすれば彼のことで罪を負うことはない。復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。(レビ19:17-18)
説教者は、イエスが決して独自に宗教や道徳を拓いたのではなくて、旧約聖書に基づき、旧約聖書の中から、旧約聖書を完成するものとして、重要な「戒め」を捉えていたことを確認させた。
ここには二つの「愛」が提示される。「神への愛」と「人への愛」である。私たち人間が果たすべきことは、神を愛することと、人を愛することだ、というのである。
説教のために開かれた聖書箇所は、ヨハネの手紙の第一の2:7-17であった。そこはこのような形で始まる。
7:愛する人たち、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。
上にも挙げたように、イエスは新しい宗教を告げたのではない。聖書を知る人々が「初めから受けていた古い戒め」である。しかも、やはりそれは「新しい戒め」なのである。キリスト者であれば、その意味していることは周知のものである。だが聖書の外に立つ人にとっては、逆説的にすら聞こえ、矛盾であると判定する人もいることだろう。
イエスは、旧約の契約の当事者である父なる神の言葉をベースに置いている。そして、イエスの十字架の死は、人間の救いのための最後の手段であり、唯一の道であった。それはイエス自身の愛であったとも言えるし、父なる神の痛みを帯びた愛であった、とも受け止めることができるだろう。
私たちは、その「愛」を忘れてはならない。その「愛」に、立ち帰らなくてはならない。イエスが命を懸けて愛してくれたのだ。欠けだらけの私たちを、そのままに愛してくれたのだ。説教者は、自分には愛する愛がないにしても、どうか主の愛で包んでください、そのように祈る自分の祈りを明らかにした。このとき、実は説教者の頭の中には、「教会」という場が浮かんでいたはずである。
自分と神との差し向かいの対峙は、とても重要である。それがなければ、信仰がまず成立しない。だが、それだけに終始するというのもおかしな話である。それは、先の最重要な戒めが二つあったことと関連する。「神への愛」、それが神との一対一の、個人的な信による結びつきであるとすれば、「人への愛」、それは自分と同じ人間たちとのつながりの中にある。それは正に「教会」のことである、と理解すべきである。
「教会」という名は、「教える」という言葉があり、まるで学校のような響きを感じさせるかもしれない。だが、「呼び集められた者たち」という原義からすると、それは、キリストの名に信頼を寄せる人々、キリストに出会った人々による、ある種の「共同体」だということになる。
そこで、「人を愛する」というその「人」は、基本的にその「教会」、即ち信仰を共にする仲間のことを意味することが、基本となるに違いない。説教者はそのことを明らかに説くことはなかったが、この後の説教の流れは、そういう前提で捉えて差し支えなかったと思われる。
思えば、この「神を愛する」というのは、かなり抽象的な営みであるといえる。何をどうすれば神を愛することになるのか、判断がしづらい。安息日に礼拝に集まることだろうか。善を為すことだろうか。聖書をたくさん読むことなのか、祈りの時間を多くもつことなのか。こうしたことは、一意的に決められるものではあるまい。また、他人がそれをしていないからと言って、そんなことではいけない、と干渉するのも良いことのようには見えない。
説教者は、一人ひとりの自覚、あるいは信仰の中に、その道を進んでほしいと願っているような話し方をした。小さな一歩でよいから、人のことを思い、大切にするように努めよ。赦しの共同体であってほしい。その道は、神からの光に照らされているから、その光によって進む道が見出されるだろう。光の中を歩むのだ。教会では、「奉仕」という形でそれが為されることだろう。重荷を分かち合いながら、互いに教会のために「奉仕」に励むのだ。
そこには、「仕える」という、この教会のひとつの大きな基本的テーマが流れている。この「仕える」というのは、比喩的には「奴隷」としての人間と「主人」としての神との関係の中に成り立つものであるが、説教者は「仕える愛」という形でこれをまとめた。すべては「愛」なのだ。善きものを生み出すものは、「愛」なのである。
教会は、そのように仕える者たちによって支えられている。どんなに小さく目立たない奉仕であっても、一人ひとりが教会に必要なピースとしてはまっている。手足の動きができなくても、強力な祈りの支えとなっている人が、どれほど頼もしく教会で輝いていることだろう。
教会に於ける、信仰を共にする仲間を「きょうだい」と聖書は呼ぶ。きょうだいを愛する者は、主が照らす光の中に留まっている。それは、真理の中を生きているしるしでもある。また、神の光に照らされているということに気づいていなくても、それを意識していなくても、神はその十字架の光をここに照らしている。
もとより、人は神の完全さを有するようになることはない。だが、それぞれに小さな一歩を積み重ねることはできる。人は真っ当な愛を実践はできない。だが、ひとつ歩み寄って愛してみよう、と臨むことはできよう。そのときそこには、すでに光が射しているのである。もはやそこは闇ではない証拠である。自らの中に闇を忍ばせている者は、そこに光がある、と気づくかもしれない。だがすでに光の中に置かれている者は、改めてこれが光だ、と意識することがない可能性がある。だからまた、光の中にいる者は、むしろ闇となる点がないか、意識することから始めるとよいのであろう。
今日の聖書では、この「闇」を、「人を憎むこと」の中におもに取り上げていた。あくまで「きょうだい」であるから、基本的に教会内で「憎む」ということを指しているものと理解すべきなのだろうが、そんなことはあるまい、と退けるよりも、私たちはやはりよくよく自分の胸に問いかける必要があろうかと思う。
つまり、神の前に出る者は、どうしても自分自身の中に闇を感じざるを得ない。少なくとも感情としては、どうしても自分の思いも行いも、暗いものである。不完全だというレベルのものではない。
ここで私は思い起こす。私は正に、「人を愛せない」という自分を突きつけられ、自分の中に愛がないことを痛感することで、神の前に引きずり出された経験をもっている。しかも、自分では愛の唄などをつくり、いつも誰かを愛している自分というものを意識していた。とんでもない。勘違いであったし、傲慢であった。自分の中に「愛」など全く無いではないか。しかも、ないくせに、あるなどと思いなしていたではないか。これでもう神の前に挙げるべき頭などあり得ない状態となり、ただひれ伏しているしかなかったのである。
それは、キリストに救われた後も、ある意味で変わらない。愛せるように、と祈り求めたことも、全くできやしない。自分にはできない。だが、説教者は告げ。主は、裁くためにそこにおられるのではない。キリストの名を信じる者には、愛のためにこそおられるのである、と。
説教者が今日強調したことの一つは、「愛は感情ではなく行動である」ということであった。そして、その「愛」を、説教者は「教会」の内に位置づけた。そこは、単独で神の前に生き、生活を貫く説教者の在り方に関係しているかもしれない。説教者にとり、神への愛に次ぐ人への愛は、「教会」という場であったのだ。これ以上追及はしないが、その背景を踏まえて、この日の説教が、「神への愛」から「人への愛」を説きつつ、「教会」での働きに直結した形で説かれたことを、私は感じるものだった。説教の後半は、「教会への愛」のように響くものであったのだ。
説教者が最後に付け加えるように語ったことがある
。ヨハネの手紙では、この12節から17節にかけて、一つの詩のように、あるいは一連の宣言や信条であるかのように、教会の中のそれぞれの立場に応じた形で、呼びかける言葉が並んでいる。
子たちよ、あなたがたに書き送ります。
イエスの名によって
あなたがたの罪が赦されたということを。
父たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが初めからおられる方を
知っているということを。
若者たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが悪い者に勝ったということを。
子どもたちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが御父を知っているということを。
父たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが、初めからおられる方を
知っているということを。
若者たちよ、あなたがたに書き送ります。
あなたがたが強く
神の言葉があなたがたの内にとどまり
あなたがたが悪い者に勝ったということを。
美しい並びである。ただ、私たちはこの聖書協会共同訳の前には、この辺りを違う口調で記憶していた。最初の「罪が赦されたということを」という表現は、新共同訳では「罪が赦されているからである」と言われていた。以下も同様である。この違いは、ギリシア語の接続詞「hoti」の解釈による。これは英語で言えば、「that」が基本ではあるが「because」と訳す場合もある語であるからだ。
「子たちよ」とは、この手紙にとって、幼児や子どもを意味する呼びかけではない。愛するきょうだいたち一般を指している。皆に書き送る、罪が赦されたからだ、と、この手紙全体を示唆するような内容を書き送ったのだ、ということをそれぞれの立場に呼びかけながら、この手紙の中で感じ取ってほしいことを特に伝えた、というように聞こえる。一方、新しい訳では、皆に書き送る、罪が赦されたことを、その立場の人にこれこれのことを伝えるのだ、ともっと限定的に伝えたというように感じさせる。
ニュアンスは異なるかもしれないが、内容に大きな違いがあるわけではない。説教者は、それぞれの立場に対して別々に呼びかけることにより、人々が満遍なく呼びかけられている、というように解している。それはそれでよいと思う。だがこれを見ると、若者と子どもたちでなければ、「父親」しか社会にはいないかのようにも見える。どうして「母親」がいないのだろう。また、父や母ではない独身者の壮年、あるいは老年者がここに呼びかけられていないのだろう。本当は、そこを問うてもよかったのではないだろうか。
もちろん、聖書にケチをつけるためではない。こうした手紙文書が、どういう立場の人を想定して呼びかけているか、そこに心を向けるためである。ここを呼んで、母親たる女性は、寂しいではないか。実際、「若者たち」は男性形の名詞である。「子たちよ」と「子どもたちよ」は、うまく訳し分けられている。単語が違うからだ。だから、それぞれ指しているものが違うと理解しても差し支えない。それぞれ中性名詞だから、先に触れたように、信徒一般と、本当の小さな子どもたちとである。だから、やはり女性が視野に置かれていないという点は、本当は問うてよいのではないか、と考えざるをえない。
説教者は最後に、「世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません」などと記されている点を顧慮して、世の価値に惑わされずに、神からの光なる存在として歩むことを勧めた。人は、自分から光を発することができないから、より正確に言えば、人は神からの光を反射する存在に過ぎない。ただ、説教者が最後に告げたように、それが人々に希望をもたらす存在であることには、変わりがない。
それにしても、「愛」とはなんと謎であるのだろう。「愛する」とは、やはり私たちにはよく分からない。「愛」とはこれこれである、と定義することは不可能である。それをやったら、人が神より上に立つことになる。そもそも聖書にある神の事柄は、基本的にそうである。私たちは、上からの知恵を受けるのであり、外からの光を知るに過ぎない。それを弁えつつ、やはり仕えてゆくしかないのだろうとしみじみ思う。
ところで、神と人への愛という概念から、私たちはルカ2:52を思い起こす。新共同訳では、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」となっていた。愛をたっぷりと受けた子は、人をたっぷりと愛することができるようになる、という、法則ではないが、心理学的に妥当するケースの多い傾向がそこに感じられる。これが聖書協会共同訳では、「イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった」となっている。実のところ、「愛された」とは訳しにくい語であり、この「恵みを受けた」の方が、語義からすると見合っている。聖書の研究が進み、新たな訳が設けられることは、旧来の聖書を読み慣れている者にとっては戸惑うこともあるが、また新たな目を開かれる思いがして、頼もしいものである。