ギデオン◆12

2025年8月10日

 それは、後にギデオンが徹底的にミディアン人を壊滅させたときに起こった。
 平和な時代がしばらく続いたとはいえ、ミディアン人たちは壊滅したわけではなかった。有力な将軍を失ったとはいえ、近辺諸国の兵を抱え何万、何十万という軍隊を誇る遊牧的なミディアン部隊は、その生活を支えるためにも、さらに掠奪の生活をしなければならなかった。肥大化した組織は、その肥大さを守るために、さらに無理な利益をあてにし続けなけれはならない悲しさの故である。あまりにも手痛い目に遭ったため、その後カナンの地、イスラエルの民を狙うことはなかったが、その他の地域を度々襲っては、再び勢力を増してきていた。
「性懲りもなく、ミディアン人がまたあちこちで悪いことをしているらしい」
 貿易のため陸路を回る商人が被害を受けるのは、ギデオンにとっては許されないことであり、これを何とかしなければ、士師の士師たるゆえんが揺らぐことになる。人心は、初めの成功は今後永久に続くと錯覚するものであり、もはやミディアンは必ずや撃退しなければならない対象と見なされている。
 他方、ギデオンの心の隅にずっと引っかかっていたことが、二つあった。
 一つは、兄たちのことである。もうずいぶん昔のことになるが、ギデオンがまだ若い時、ギデオンの兄たちはタボルの山での戦いに出て、ミディアン軍に殺された。その恨みは、忘れてはいない。自分の力で復讐するなど、当初は思ってもみなかったものの、それが実現できるような立場になってきた。ミディアン人は依然として手強いが、次の機会があれば必ずしやその仇を討ちたいと考えている。ミディアン人を支配する王は、当時と変わっていないという情報もある。かの松明と角笛の奇襲のとき、それが果たせるかとも思った。もしもあのまま追撃し続けていれば、そのときにミディアン人の王を倒せていたかもしれない。しかし、それはならなかった。あの二つの町のせいである。
 もう一つ心に引っかかっていたのは、まさにそのスコトとペヌエルの町のことである。
 かつてミディアンを追ったとき、三百人の勇者のために食糧の供与を求めたにもかかわらず、二つの町はそれを拒んだ。そしてそれがために、ミディアンの追撃を阻まれたことになり、二人の将軍の首はエフライムに持って行かれた。あのとき全滅できなかったことにより、ミディアン軍は再び息を吹き返し、今またイスラエルに脅威を与えている。
 折しも、アンモン人との争いで、ミディアンが一時撤退して東に逃れたという知らせが届いた。これはチャンスだ。雪辱を果たせ。ギデオンはイスラエル各地から兵を募った。今こそミディアンを壊滅させようではないか。そうすれば、かつてあの二つの町に誓ったことを現実のものとすることができる。
 ただ、以前の例もあるがゆえに、イスラエルの動きは遅かった。勇敢でない兵は、ギデオンの軍には参加させてもらえないという噂が広まっていた。そこで、やたら多くの兵士がオフラ目がけて集まったわけではない。しかしそれは、ある意味で好都合だった。一見多勢であったとしても、臆病な兵が混じっていれば、戦意を殺ぐし、そのわずかな弱気が全体を狂わせてしまうこともある。そのような者は、むしろいないほうがよいのだ。ギデオンは、主の戦いであるがゆえに人間の力で勝てたと考えて慢心することのないように、と再び各部族に伝えて精鋭を募ったのだが、ギデオンも今回は、戦力的に以前とは違う知恵を有する者となっていた。それがために、この噂をむしろ追い風として、優秀な兵を集めるために利用した。そのために、実に強力な合同軍ができあがった。人数的には何万と数えたわけではない。しかし、よくまとまっており、また実際勇敢だった。
 偵察の先発陣から、ミディアン部隊がカルコルの町の付近にいるという情報が届くと、ギデオンは出撃を命じた。
「この機会は主が与えたもうた。弱ったミディアン軍を、われわれイスラエルの精鋭たちが、神の力で叩きつぶす」
 ギデオンとイスラエル合同軍は、塩の海に近いところから東の荒野へ抜ける道を進んだ。、アンモン人から、ミディアン軍の今回の戦い方について尋ねたうえで、再び策を練り直し、効果的な戦術を考えた。イスラエル軍は、東南へ、アラビアの砂漠へ向かって続く道をカルコルへ向けてたどり、ミディアン人を追った。
 ミディアン人の軍は、やや敗走の様相を帯びていたとはいえ、まだ一万五千の兵力とともにあった。谷と呼ぶにはあまりに浅い窪地だが、溝のように続く交通路の中、広がる平地に彼らはいた。そこはカルコル。カナンの土地から遙か離れた、アラビアの入口の地。数日を要する追撃の後に、ようやくたどり着く旅の町。ミディアン人たちは、さまざまな民族から集めた膨大だが無力な兵を抱えて、呆然としているようだった。
「数に頼んで、質を考慮に入れないと、こういうことになるのだ」
 ギデオンは丘の上からはるかに広がる土地と、そこにいなごのようにひしめいているミディアン人たちを確認しながら呟いた。
 つい先日までは、十二万の兵を持って悠々自適な生活を送っていたミディアン軍。どうしてこんなことになったのか、自分たちでも理解できない様子である。以前イスラエル軍の奇襲を受けるまでは、すべてが順調だった。だがあれ以来、何かとうまくいかないことが多くなった。とくに、東からミディアン部隊に付き従ってきただけの歩兵たちは、これまでおこぼれ的ではありながらけっこうな暮らしをすることができていたのに、だんだん落ちぶれていくかのようなこの遊牧軍のありさまを、できれば認めたくなかった。大部隊としては、これだけの人数の食糧を賄うだけでも大変である。それだけに、掠奪も頻度を増し、さらに次々と襲いをかけなければやっていけない。そこには自分たちが勝利していくという喜びもあった。今はそれもない。
 アンモン人などに不覚をとるなど、ミディアンにとっては屈辱であったが、さらに恐ろしいことが待っていた。
 イスラエルの兵士が、一直線にこちらへ向かって来るではないか。
 ギデオンと名のるあのときの大将が、たしかに先頭にいる。これもまた虚をつかれた形で、ミディアン人たちは、恐怖の顔色を見せて逃げ惑った。王と呼ばれている二人の指導者、ゼバとツァルムナは、とりあえずうまく逃げたかのようだったが、ギデオンは真っ直ぐにその二人を目指していた。
『兄さん……』
 ギデオンの兄たちがミディアン人たちに殺されたことが、今大きく心の中を占めていた。イスラエルの栄光のことはもちろんだが、今ギデオンの中にあるのは、復讐心だった。おそらくあのゼバとツァルムナのために、兄たちが死んだ。その思いが、重い足を飛ぶように軽くした。
 戦いそのものはあっけなかった。あまりにも簡単な勝利。失う兵なくついにそれらミディアン人の王を捕らえたとき、ギデオンの心はどんなに満足したことだろう。いや、憤りが全身を包み、一度に殺してしまうには惜しいとの思いが胸に起こった。 「お父さん」とギデオンの脇にいたイエテルが声をかけた。「これが、おじさんたちを殺した王なのですね」
「そうだ。憎い敵だ。私にとっては、限りなく憎い。しかしこれで、ミディアン人たちはもうおしまいだ。もうイスラエルを襲ってくることはあるまい。この王たちを潰せば、ミディアン軍は壊滅する」
 まだ若いイエテルは、興奮していた。
「ただちに血祭りに上げましょう」
「まあ、待て。その前に、しておくべきことがある」
 ギデオンは口元をにやりとさせ、振り向いて部下に宣言した。
「ただちに戻る。スコトの町と、ペヌエルの町に約束を果たしに行こう」
 居合わせたイスラエル兵たちは、息を止めた。
 彼らは分かっていた。かつてスコトとペヌエルの長が、なぜ食糧をくれなかったのかを。それは、まだ当時それらの町が政治的にはミディアン人の支配下にあったからである。たしかにイスラエルの血をひくものであるとはいえ、ミディアンに屈してその保護も受けていたがゆえに、それらの町は、まだミディアンが壊滅したことの証拠がないうちには、ミディアンを裏切ることはできなかったのである。そしてその後も、ミディアン人たちはこれらの町と何かとつながりを求め、町もイスラエルに属したりミディアン人に貢いだりと曖昧な態度をとり続けていた。
 ギデオンは、この際容赦しないような言い方をした。
 イスラエルの兵士たちは、野を駆け抜け、坂を上り、カナンの地に戻ってきた。   (続く)



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