ギデオン◆11
2025年8月9日

しかし、ギデオンを讃える民の声は少しも衰えなかった。とくにマナセ族の中での熱狂はすさまじかった。だがギデオンは、マナセ族の中でならまだしも、イスラエル全体を支配するつもりはなかったし、また自信もなかった。もしもギデオンがイスラエル全体のために士師として立てられたときには、必ずやどこかの部族から、反対の声が上がることだろう。ギデオンはそのように予感していた。
「分かった。私が立ち上がることでイスラエルが整えられるとでもいうなら、それもまた神の思し召しなだと理解しよう。ただそれなら、次の条件を呑んでもらいたい。イスラエルは、万軍の主をのみ神とせよ。主こそ神であり、ほかに神はない」とギデオンは、まず宗教的な改革を宣言した。「ミディアン人に勝利したのは、イスラエルの神、主のおかげである。われわれをエジプトから導き上り、この豊かな土地カナンに招き入れたのは、主なる神である。カナンの神に跪いてはならない。われわれは、主に仕えなければならない。この主にのみすべての民が生涯従うというのなら、私はイスラエルの士師として力を尽くそう」
「従います。イスラエル人は、先祖の神、万軍の主をのみ神とし、他の神を決して拝むことはいたしません」
民は答えた。
ギデオンはついにマナセの長として、そして近隣の部族も広く含めた形での共同体の先頭に立ち、さまざまなトラブルを解決し、諸外国との交渉に出向き、イスラエルの地位向上に尽力した。なにしろあのミディアン人たちをこのカナンの地から追放した男である。周囲の信用も厚かった。イスラエルの指導者としては、ギデオンをおいてほかには考えられなかった。
イスラエルではそのような人物を、「士師」と呼んだ。「さばきづかさ」という意味である。古くは、エジプトから逃れた集団を指揮したモーセを補佐するためにさまざまな長が立てられたが、モーセを失いカナンの地に住みついてからも、イスラエル民族はそのような役割をする人物を必要とした。他国のように王という形を取らなかったのは、ギデオンが言ったように、イスラエルには主なる神が王であるという意識があったからだが、人々がカナンの神を慕うようになってからも、なんとなくイスラエルの伝統として王を持たず士師という地位しかもつことはなかった。ただし、この士師というのは現実的にイスラエルの全体について指導をするわけで、裁判を司るのみならず、軍事的にも政治的にも、そして宗教的にも、イスラエル全体に影響を与える力をもち、その強権から考えても実質は王として力を振るっていることになるのだった。
ギデオンはというと、宗教的な統率が最重要であり、また根本的な問題であると見て取った。そこで主を掲げることで、さしあたり周辺部族を一つにすることに成功した。
だが、ギデオンが予感していたとおりに、間もなく問題が生じた。
たしかに、マナセ族の長としてのギデオンは、部族の中をうまく治めていた。また、近辺のアセル、ゼブルン、それからナフタリといった部族からも好意的な声が聞こえて、北部イスラエルがひとつにまとまろうとしかけていたときのこと。
エフライムから、静かに軍隊がオフラの町を訪れた。
「ギデオンという指導者と話がしたい」
ギデオンの前に通された数人の長老は、厳しい口調で不満を訴えた。
「マナセは、ミディアン人をイスラエルから去らせたということで、いくらかの部族から支持されているということだが、なぜ戦いに出るときに、エフライムを同盟に加えなかったのか、納得がいくように説明してもらいたいのです」
ついに来たか、とギデオンは思った。しばらくは、事情をやわらかく説明して、エフライムを宥めようとしたが、どうにも怒りは治まりそうになかった。表向きはとりあえず穏やかだが、ひとつものの言い方を損なえば、鋭い刃を振り下ろそうとしていることは誰の目にも明らか。そのためにこそ、エフライム族は、ここオフラの町にまで軍を送り込んだのである。
ではどうすれば相手は納得するのだろうか。まさかエフライムにしても、ただちに戦争を起こそうというものではないはず。ギデオンは、エフライムが優位に立ちたいのだということは分かっていた。古来からマナセとの確執があった。ここにおいてマナセが活躍したゆえに、イスラエルにおいてリーダーの役割を果たそうとしているとにらみ、エフライムをさしおいてやったことについて、非難を浴びせているのだ。
それほどまでに強気でいられる理由は、次の行動で明らかになった。
エフライムの長老は、部下に命じて杉の箱を開けさせた。
「これを見せましょう」
ギデオンは息を止めた。人間の首が二つ、中に入っていた。
「オレブとゼレブの首です」
それは、ミディアンの有名な将軍の名で、知らない者はいなかった。
「これを、どうしたのです」
「エフライムに、ギデオンよ、あなたから連絡が来ましたな。あれからわれわれは、ミディアン部隊を追撃しました。そしてこれらの将軍を追いつめて、オレブは岩地で、ゼレブは酒槽の脇で、絶命させたのです。われわれは今やそれらの場所を、オレブの岩とかゼレブの酒槽とか呼んでいます」
ギデオンは、この報告に、むしろ天は味方した、と感じた。そうでなければ、ミディアン人たちの現れたのが北方であったがゆえに、エフライムを巻き込むことなく戦おうとしたのだ、などと次々と苦しい弁解を述べなければならなかった。
「それはすばらしいことだ」とギデオンは彼らを祝福した。「あなたたちは、実に大きな仕事をしてくださった。私はマナセ族のアビエゼル家に属する者だが、そのアビエゼル家の者がなしえたことよりも、あなたがたのなしたことのほうが偉大である。あなたたちと比べて、私がとくに何をなしえたというのか、分からない。エフライムには、なんとすばらしいブドウが実っていることだろうか。神は、ミディアンの将軍オレブとゼレブとを、あなたたちの手にお渡しになったではないか」
エフライムの自尊心は守られた。ギデオンはむしろ下手に出ることで、最も扱いにくい相手であるエフライムを手なずけることに成功したのだ。
ギデオンは、オフラの自分に家に戻った。そこから指令を発して、イスラエル全体が平和であるように導いた。ことさらに問題が起こると、出ていって、どこの地域においても神の栄光を讃えつつ、それぞれの側が我を通しすぎないように諭した。
当然のことだが、若いギデオンには多くの女が与えられた。地方の有力者が、指導者と縁を結ぼうと、娘を差し出したのである。ギデオンは、一方ではまだ人の顔色を窺う性質があったため、その申し出を無下に断ることはできなかった。美しい女たちが次々と妻としてもたらされた。子どもも次々と生まれ、その数は男子だけで七十人を数えた。周りの者も、士師の跡継ぎができたことを喜び、それぞれがたくましく、知恵ある子に育つように気を払った。
ギデオンはまた、地方に行って争いを裁くことも多かった。さばきづかさとしての本来の使命はそれであった。そこで、出向いた地にとどまるうちに、その部族の有力者が妻を提供することがあった。ツァディカ妻という。その女自身はあくまでもその地、その部族にとどまりつつ、夫はときおりそこを訪ねた際に会うというものである。そこで産まれた子どもは、もちろん夫の子として認知されることができた。しかしここでギデオンがイスラエルの士師としての地位にあるということは、地方で産み落とされた息子は、やはりその地位を継承するには力不足を否めなかった。
このことが、後の悲劇を生むことになる。
だがともかくギデオンは、しばし平穏な時代をイスラエルの中に築いた。ミディアン人も、直接イスラエルを襲うことはなかった。もちろん小さないざこざは絶えなかった。元々そこにいたカナン人たちとも小競り合いが続いた。しかしイスラエル人は比較的カナン人には寛容だった。カナン人とできるだけ平和共存していくほうが、互いに無駄なエネルギーを費やさずに済むということに、誰もが気づいたからである。いや、しかしそのことは、ギデオンが純粋に主に仕えなくなったと言ったほうが適切であるのかもしれない。
ギデオンが最初にミディアン人を撃ち破って英雄として迎えられたとき、必要以上の金品を人々に要求することはしなかった。主に栄光を帰すギデオンとしては当然である。しかし、ギデオンはその金品から、イスラエルにつまずきを与え、自らも罠に陥ることについては、後々までもっと慎重であるべきだった。 (続く)