ギデオン◆10
2025年8月8日

しかしギデオンにしてみれば、こうした空気を感じ取りながらも、いわば仲間内の栄誉争いでエネルギーを使っている暇はなかった。そんなものは、周りの人間が自ずから決めていくものである。自分で策略を練ることができるのは、優秀な政治屋だけだ。ギデオンは、このチャンスにともかくミディアン人たちを完全に打ちのめしておかなければならないことを感じていた。
ギデオンは、三百人の勇者たちに呼びかけて、ミディアン人の撃滅を誓った。
ミディアンの主力は、自分たちの本拠地に近い東方向に逃げている。ギデオンの軍も東へ急いだ。ヨルダン川が南北に流れている。
昨夜からの戦闘で、肉体が疲れているのは分かっていた。しかし、誰一人休もうなどと口にする者はいなかった。疲れ果てていた。空腹だった。だがそれでもなお、追撃をやめなかった。
三百人の精鋭たちはヨルダン川を渡り、東へ向かった。
イスラエルのガド族の町スコトに入ったとき、ギデオンは食糧の供給を求めた。
「私はイスラエルの指揮を執っている、ギデオンという者です。私たちは、宿敵ミディアン人の手からイスラエルを守ろうと立ち上がった者たちです。イズレエルの平野に陣取っていたミディアン人たちを包囲し、追い払うことに成功しました。逃げまどうミディアンの王ゼバとツァルムナを追って、ここまで来ました」とギデオンは町の代表者たちを前に語った。「どうかイスラエルの兵士たちに、食べる物を与えていただきたい。昨夜から睡眠もとらず、この地域を荒らす敵を排撃してきました。皆、疲れ切っているのです」
スコトの町もまた、ミディアン人には痛い目に遭っているはずだった。イスラエル民族の誇りを、ひどく傷つけられ、ミディアンの属国として扱われていた。ギデオンは自分たちがイスラエル全体の利益を守るための兵であること、そして現在共通の敵であるミディアン人の部隊を追っているということを、きちんと説明した。だが、スコトの人間たちは顔を見合わせた後、ギデオンたちを訝しく見つめた。
「なるほど、イスラエルの兵士らしい。それならパンを恵んでもいいだろう。だが、パンを求めるからには、あなたたちはもうすでにゼバとツァルムナの手首をすでに捕らえているのだろうな」
後ろに並んだ者の中には、にやにや薄笑いをする者もあった。
つまりは、拒否なのだ。
「そうか。それならよい」とギデオンは怒った。
上に立つ者、時として演技的に部下の面前で怒りを表明しなければならないことがあるが、このときは部下のためでなく、自分たちを派遣したイスラエルの神、主の面目を頭に思い描きながら、憤りを示した。
「それならば、主がやがてこの私の手に、ゼバとツァルムナをお渡しになるとき、そのときに私は、おまえたちのその身を、荒れ野の茨と棘で打ちのめすことにする」
呪いの言葉にさえ、スコトの住人は動じなかった。
ギデオンは現実的に困った。野の草や小動物で飢えを凌ごうとさえ思ったが、すぐ近くにまた別の町があることを思い起こすと、そこへ行って門をたたくことにした。
ペヌエルの町が見えた。大きな塔があるため、それと分かる。この辺りの町は、城壁に囲まれ、門の近くにはたいてい見張りのための高い塔がある。
かつてこの地でヤコブが天使と格闘し、祝福を受けてヤボク川を渡ったという伝説がイスラエルには残されている。イスラエルにとって、実に記念すべき場所である。今また歴史の上で重要な転換点が訪れた。長い間悩まされ続けてきたミディアン人に、ついに報復するときがきたのだ。
そのことを、スコトの町においてと同様、ギデオンは熱く語った。部下に食糧を与えてほしいと願い出た。
しかし、反応は冷たかった。実際にミディアン人の王の首でも土産にしているならともかく、手ぶらでそのようなことを言う者に対して、何の提供をする義務があるだろうか。そのような顔で、ペヌエルの町の人々はギデオンに応対した。
「よかろう。それでは、私たちがいずれミディアン人を壊滅させて、無事にまた戻ってきたら、町の自慢のあの塔を破壊してやることにする」
ギデオンはそう言い捨てて、ペヌエルの町を後にした。
「旅人でさえ、命に替えてももてなすという礼儀があるのに、この仕打ちはいったい何だ。これは、われわれに対する造反ではない。これは、イスラエルの神、主に対する背反なのだ」
三百人の兵士は、黙ってうなずいた。
ギデオンは、草を煮、小動物を射止めては食糧とした。そうして二、三日さまよっているうちに、兵士の何人かが病気になった。無理もない。栄養も衛生も極悪の状況だ。体力的にももうほとんどの者が限界を越えている。ギデオンは、イスラエルでは汚れているとされている動物、たとえばとびねずみや岩狸まで食用にしなければ命がつなげない状況を嘆いた。
「すまない。このような妙なものまて食べて力を出せというのも申し訳ないが」
「何を仰るのです」と兵士たちは口を揃えた。「ギデオン様、お気になさらないでください。これは主の戦いだと言われたではありませんか。主が盾となり、主が剣となってくださいます。人に、何ができましょう。イスラエルの不信心な者たちが、何者だというのでしょう。われわれには、神の力があります。ゼバとツァルムナを、追撃しましょう」
「ありがとう。だが、やはりこれが限界だ。そこから引き返すのもまた、勇気であり、神の力ではないだろうか」
ギデオンは、疲れ切った勇者たちを、失ってしまいたくなかったため、そこからイズレエルへ引き返すことにした。
「すみません。私たちがこれくらいのことてへこたれていなかったら、今ごろは……」
「気にするな」とギデオンは慰めた。「第一の目的は達成されたではないか。ともかくこれで、ミディアン人はもう襲っては来ないだろう。もし来れば、またそのときには徹底的な報復をするのみだ」
ギデオンと三百人の勇士たちは、こうしてカナンの地に戻った。彼らの落胆ぶりにもかかわらず、イスラエルの民は、ギデオンたちを英雄として迎えた。
「ギデオン万歳」
「ミディアン人を倒したギデオンを讃えよ」
ギデオンは、違うと言った。
「私たちが倒したのではない。イスラエルの神、主がすべてを成し遂げてくださった。それに、とりあえず追い出したものの、今はミディアン人がもうイスラエルを襲わないことを祈り、願うのみだ」
「いえ。われわれイスラエルには、やはり王が必要であることが、今回のことでよく分かりました」とマナセ族の代表が進み出た。「ミディアン人の手からわれわれを救ってくれたのは、紛れもなくあなたです。そこであなたに、われわれの王になっていただきたいと思います。そうすれば、今後二度と野蛮な民族が押し寄せてイスラエルを攻めるようなことはないでしょう。イスラエルに強い王あり、とその名を轟かせればよいのです。あなたの子孫が、どうか代々このイスラエルを治めてくださいますように」
このことは、すでに話し合いがもたれて結論が一致していたようだった。イスラエルの危機管理のためには、統率する強力なリーダーが必要である、との見方が大勢を占めていた。そして万人が、それはギデオンにほかならないと支持したのだ。
「それはいけない。人間が王となることはできない。すべて、主が先立たれ、われわれを導かれるのがよい」 (続く)