ギデオン◆9

2025年8月7日

 一番端の宿営のところに、まだ起きている者がいた。見張りの兵らしい。ギデオンの目には、あまり優秀な兵ではないように見えた。何人かが立って、しかもかなり大きな声で話し合っている。
「いくら昨日はゆっくり眠らせてもらったとはいえ、夜中の見張りというのはたまらないよなあ」
「それもお勤めよ。まあ、準夜勤なら、それほどでもないんじゃないか」
「そういえば、昨日いやな夢を見た」と一人が重い調子で言った。
「夢?」
「ああ。夢なんだが、縁起でもない夢だった。大麦の丸いパンが、おれたちの陣営に転がり込んできたんだ。そして、天幕まで来て、それを倒し、ひっくり返してしまった。天幕はぶっ倒れてしまった……」
「おまえ、腹が減っていたのと違うか」
「いや、待て。そうじゃない」と若そうだが理知的な男が制した。「それは、噂に聞くギデオンのことだ」
「ギデオン?」
「そうだ。ヨアシュの子ギデオンでなくて、何であろう。イスラエルには、ギデオンという強者がいると聞いている。そのギデオンの剣が、ここを襲うことを表しているのだ。神は夢の中に知らせるというではないか。神は、ミディアン人とその陣営を、すべてギデオンの手に渡してしまわれるのではないか」
 物陰ですべてを聞いたギデオンは、その夢の話と夢の解釈を耳にすると、その場にひれ伏した。そして頭を上げて天を見ると、涙を流して喜んだ。かつてヨセフに夢で将来を知らせた神は、今も生きておられる。プラにそのことを説明しながら、急いで高地のイスラエル陣に戻っていった。
「起きろ。起きるんだ」との声がまず陣に響いた。「イスラエルの勇者たちよ。集まれ。立ち上がれ。戦うときが来た。主は、ミディアン人の陣営をわれわれイスラエル軍の手に、すでに渡してくださった」
 三百人。わずか三百人だった。いなごのように横たわるミディアン人たちと比べて、いかにわずかであるか、比べる必要もない。だが神は、ギデオンに神のわざを見せるためにこのようにしたのだと言葉をくれた。ギデオンは、その言葉を信じるしかない。神の言葉は、人の口先だけの言葉の音とは異なって、ただ風となって消えていくのではない。神の言葉は、実在である。すべてが必ず現実となる。それが神の約束である。
 ギデオンは、さらに動きやすくするために、全員を三つの小隊に分けた。それから一人一人に、角笛と空の水瓶を持たせた。水瓶の中には松明を入れさせた。
「私を見よ。私のするとおりにせよ」とギデオンは説明した。「私が敵陣の端に着いたとき、私のするとおりにせよ。私と、私の率いる者たちが角笛を鳴らす。角笛の音が聞こえたら、すべての者は敵の陣営全体を包囲する形で角笛を吹くのだ。そして高らかにこう叫べ。『主のために、ギデオンのために』と」
 精鋭たちは深くうなずいた。
 ギデオンは三分の一の小隊百人を率いて敵陣に近づいた。ちょうど真夜中の見張りが始まるころで、次の歩哨が交替したばかりであった。
 ギデオンは見つめていた。何気なく平板に過ぎるかのような時の中で、ほんの一瞬、時が割れて、すべての運命が自分に味方するべく顔を見せるのを。
「今だ」
 角笛が高らかに鳴り響き、静寂が破られた。ギデオンの小隊が、揃って水瓶を砕いた。赤い松明の炎が夜を照らし、ミディアン人たちの見張りの、暗闇に慣れた目を眩ませた。
 他の二つの小隊もまた、角笛を吹き、それぞれの兵が水瓶を割った。松明を左手にかざし、右手で角笛を持って吹き続けた。さらに、息のとぎれた者から順に、言われたとおりに叫んだ。
「主のために、ギデオンのために」
 また、こうも聞こえた。
「剣は、主のため、ギデオンのために」
 水瓶が壊される音までが、敵陣に響いた。ミディアン人たちはそれを聞いておののいた。知られているように、死者を葬るときに死者の愛用していた茶碗を割る儀式を行う。その音と同じだ。これは死に神がやってきたか。
 三つの小隊は、自分の持ち場でじっとしていた。広く取り囲む形で配置したイスラエルの三百人は、ただ松明を揺らし、角笛を鳴らし、主とギデオンとの名で、敵に圧力をかけた。これにミディアン人たちは怯えた。
 敵はほとんど眠っていたこともあり、寝起きを襲われたと勘違いして、大混乱になった。とにかく暗闇の中で、目の前を右往左往している人間がたくさんいる。どれもが敵に見える。いや、たとえ仲間がいたとしても、その中に一人の敵がいれば自分はやられてしまうのだ。とりあえず立ち上がり、身近に備えていた武器を取ると、辺りかまわず振り回す。互いの剣で血を流し合い、その叫びがまた混乱を増した。各自が焦り、ただ剣を振り回すので、多くの兵が倒れた。飛び散る血しぶきに怯えて、松明と反対方向に敗走する者がぞ出した。川に向かう者、山に逃れる者、さまざまなパニックがそこに現れた。
 ギデオンは、この機に乗じて、イスラエル民族にただちに使者を送った。近隣のナフタリ、アセル、それにマナセ全域にこの出来事を伝えた。
「ミディアン人の軍は壊滅状態だ。追撃せよ」
 さらに、ミディアン人の一部がエフライムの山地に逃げ込んだとの報告を受けると、ギデオンは一考して、プラに命じた。
「エフライム族にもことごとく、このことを知らせよ」
「分かりました。しかし……」とプラはためらった。「エフライム族は今回のことで、もともとミディアン人との決戦のために呼びかけを行っていませんでした」
「構わない。とにかくミディアンの軍は、エフライム側に逃げたのだ。しかも手負いの軍。かんたんに撃ち破れる敵がそこにいるとなれば、エフライム族も日ごろの恨みを晴らすのに手頃なチャンスとなるはずでないのか」
 ギデオンは、イスラエルの指揮官として堂々と振る舞った。
 エフライムへ向けて、ただちに伝令が送られた。
「山より下り、ミディアン人たちを撃滅せよ。南はベト・バラまで、あらゆる水源を塞ぐのだ。あらゆる水場、ヨルダン川を占領し、ミディアン人の水を絶て。そうすれば奴らは袋のネズミだ」
 エフライム人は驚いた。イスラエルの民が、あのミディアン人を排撃しているという。これはとにかく絶好の機会ではないか。集められた勇者たちは、夢中でただちに下り、その指示に従った。
 ミディアン人の敗残兵は間もなく見つかった。ふらふらと逃れて落ちてきたミディアン人の中に、名うての将軍が見いだされた。
「オレブにゼレブ、ずいぶんおまえたちには悩まされた」
 恨みは強い。幾度となくミディアン人たちに苛まれてきたエフライムの民は、敵の二人の将軍に対してはことのほか厳しかった。
 オレブを処刑した場所をオレブの岩と名付けた。
 ゼレブを処刑した場所をゼレブの酒槽と名付けた。
 それらは、復讐の血に染まった。
 しかしエフライム人は、この後ギデオンというこのマナセの男に不信感を持った。そもそもギデオンとは何者か。突然命令が来たのはなぜか。どうしてこの男がイスラエルの全体に命令を下すのか。考えてみれば不思議なことばかりである。
「ギデオンというのはどこのどいつだ。どうしてイスラエルの指揮をとったりしているのか。だいたいマナセ族がなぜ指図をするのだろうか。イスラエルにはほかに部族がないとでもいうのか」
 アブラハム、イサク、ヤコブという代の順に、イスラエルの祖先の名が続くという。ヤコブには十二人の子どもがおり、それぞれの子の名を戴く部族が、イスラエルという善意を構成している。ただ、レビ族は実際には土地の割当を与えられなかった。レビ族はいわゆる祭司職で、特別な扱いがなされたのてある。そこで、ヤコブの子どものうち特異な生涯を送ったヨセフにいた二人の息子が領地に名を残すことになった。それが、マナセとエフライムである。
 ヨセフの二人の息子の名をいただくそれぞれの部族は、互いにライバル意識が強かった。かつてエジプトへ売られたヨセフは、エジプトの高官となって兄弟や父と再会した。父ヤコブが世を去るとき、マナセとエフライムの二人の息子をヨセフが連れて行った。その時、ヤコブはそれら二人を自分の息子として祝福をしたいと言った。こうして二人の名は他のヤコブの息子の名と同様、イスラエルの部族の名として後世に残ることとなった。ただその時、ヨセフは長子であるマナセを当然上位に立つ者として祝福してもらおうと父ヤコブ右手の側に配置したのだが、ヤコブは目もかすみ力ももうなくなっていたのに、わざわざ自分の両手を交差させて、弟エフライムの頭の上に右手を置いた。それは何かの間違いでしょう、とヨセフが不満げに言うと、父ヤコブはそれを拒んだ。いや、弟のほうが大きくなるのだ、と。それは、ヤコブ自身、兄のエサウの祝福を横取りするかのようにして、その父イサクの右手を受けたのだ。
 以来、エフライムはマナセの上に立ち続けてきた。カナンの地の肥沃な中央山地を譲り受け、ベテルやシロといった重要な町を有してきた。
 その誇りがあったため、エフライムはマナセ族のギデオンなどという男に仕えるわけにはいかない、と考えていたのである。   (続く)



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