ギデオン◆8

2025年8月5日

 ギデオンはこの朝から変わった。
 次々と集まるイスラエルの民の兵士たちをとりまとめ、威厳をもって主からの言葉を告げた。これは自分の名誉とか、たんなる祖国愛とかによる行動ではない。
「これは、全能の神、主からの命令である」と高らかに宣言した。
 一歩間違えればハッタリで終わりかねないこの種の演説も、若きギデオンの声は主の顕現を思わせる力強さがあったという。神々しいものは、その場にいた人間でないと分からないものがあるが、けっしてまやかしものではなかったことは、その後の歴史が証明している。
 その朝、いよいよミディアン人との戦いに出ることが決まっていた。イスラエル兵たちは朝早く起き、無駄な言葉を一つもかわすことなく、ミディアン人との戦いのために静かに備えをしていた。
「まず、陣を張る」
 ハロドの泉のほとりに、軍は陣を張ることにした。ギルボア山を見上げる場所に広がる、豊かな水をたたえた美しい泉。この風景を眼に焼き付けておくだけでも、命を捨てるだけの値打ちはある。岩の間から、絶え間なく水があふれ続ける。ここならいつでも水が確保できる。
 一つ丘を越えると、ミディアン人の陣営を遙かに見下ろすことができた。幸い敵は気づいていない。この泉近辺から一気に敵に近づき、滅ぼすことも可能である。いや、ギデオンにしてみれば、三万余の祖国愛に燃えるイスラエル兵を従えて、それは当然の結果であるように計算された。
『数では勝っている。負けるわけがない』
 ギデオンの思いは、すべてのイスラエル兵の思いと重なって伝わった。彼方のモレの丘のふもとに敵を見下し、取り巻く軍勢は、数だけでは負けるようには考えられなかった。憎むべきらくだの猛者たちが、なんと小さく見えることだろう。……が、その心はむしろ自分の臆病な部分をなんとか押し隠そうとしているために、わざと表に出している感情ではなかったか。そうしたことに、どれほどの者が気づいていただろう。
 木々の間を抜けてゆっくりと前進し始めたときのことだった。横手に見える泉のほうからそよ吹く風が木々の葉を揺らしているのかとも思われた。が、ギデオンの耳には、何かの声として聞こえた。
「何か言ったか」
「いえ。私は何も」
 振り向いたが若いプラは首を横に振った。
 さらに一歩進んだとき、再び耳に声が聞こえた。ギデオンは立ち止まり、天を見上げてその声を聞き取ろうと息を止めた。
「多すぎる」とその声はまず言った。「おまえの率いる民は、あまりにもその数が多すぎる。そのような民の手にミディアン人を渡すわけにはゆかない。もし渡せば、イスラエルはこう言うだろう。『自分の手でミディアン人を滅ぼした、この手で救いを勝ち取った』と。そのようにわたしに向かって心が奢るのは、目に見えている。それゆえ今、民に次のように呼びかけて聞かせなさい。『気に病むことはない。恐れる者、恐れおののく者は、ただちにここを去れ。ギレアドの山から元の道へ戻れ』と」
 ギデオンは、主の命令であることを知った。ギデオン自身は、その弱さをすでに脱していたが、そうした弱さが人の心の中にあることは、痛いほど分かった。そこで一度広い野に落ち着いて陣を築き直し、民に呼びかけた。
「目を閉じ、自分の心に尋ねるがいい。何も憚ることはない。よいか。わずかでも怯える者、恐ろしいと思う気持ちがある者は、ここからただちに帰ってくれ。イスラエルの神、主がそのように言われる。この戦いは、主のものだ。恐れおののく者が一人でもいたら、この戦いは勝てない」
 一瞬の沈黙の後、何人かが立ち上がった。その後、雨後の筍のようにわっさわっさと男たちが立ち、背を向けて去って行った。残った兵の数からすると、このとき二万二千の者が戻ってしまったことになる。
 残った一万の兵は、それぞれほっとしたような顔をしていた。自分は臆病者ではない、という証明がなされたようなものである。去った者たちと自分とは違うのだという誇りが顔に現れていた。しかし、一部の者には、人数を減らしてどうして戦いに勝つことができるのだろうか、と疑問を訴える気配があった。
「ギデオンよ」とまた声が聞こえた。「まだ多い。まだ多すぎる。万の人間は必要ない。すべての残った兵を連れて、水辺へ戻れ。泉の水を、存分に兵に飲ませるがいい。そのとき、おまえのために必要な兵を選り分けることにする。わたしが告げる。わたしが、おまえと共に行くべき者は誰かを知らせる。おまえと共にいくべきでないと分かった者は、けっしてこれから先引き連れて行ってはならない」
 ギデオンは、兵士たちに説明した。
「主からの導きがあった。今一度泉に戻り、水を飲んで鋭気を養えということだ。その水により、力を授けると主が言われる」
 兵士たちは、それぞれ泉の水辺に集まり、水を飲み始めた。ほとんどの者は顔を水につけて飲んでいたが、ある者たちは手で水をすくって飲んでいた。
 ギデオンはその様子を見つめていた。すると再び声があった。
「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝を地についてかがんで水を飲む者は、すべて取り分けよ。彼らは連れていってはならない」
 ギデオンはそのことを告げた。水を飲む動きが止まり、ギデオンに視線が集まった。
「主は言われる」とギデオンは高らかに宣言した。「手から水をすすって飲んだ者たちのみ、ミディアン人たちとの戦いに出向くようにせよ。その兵たちでもって主はイスラエルを救う。ミディアン人たちをイスラエルの手に渡すことを約束する。それ以外の者は、ここから自分の部族の下へただちに帰りなさい」
 残った民は、わずか三百人であった。だがギデオンは、主の言葉を信じた。
 兵のために準備された食糧と、それから号令のための角笛は、すべてその三百人が受け取った。彼らはどれも堂々たる勇士であった。一人として、これだけの人数でどうなるのか、などと不安を漏らす者はなかった。
 遙か下の平野に、ミディアン人たちの陣営が見えた。
「作戦は、翌日に開始する。今夜は山の中腹で過ごす。食糧は豊かにあるゆえ、案ずることはない」
 一同は静かに中腹の森の中で夜を過ごした。ギデオンは、このときさかんに主との交わりを得た。
「起きよ。敵陣に下って行き、様子を探るがいい。わたしが彼らをおまえの手に渡す」
 ギデオンは、一人で行くことを一瞬ためらった。
「下って行くのが恐ろしいか」と主は続けた。「ならば、若いプラがいる。プラを伴って、敵陣に下るがいい。そうすれば、ミディアン人たちが何を話し合っているかを聞くことができる。敵の考えていることを知れば、自ずから何をすればよいかが分かるだろう。おまえの手には力が加わる。たちまち敵陣の中へと飛び込むことができるであろう」
 ギデオンは星空の下、プラを引き連れて、敵陣へひっそりと降りていった。そこはミディアン人の武装兵がいる。いわば前線であるが、ギデオンはもはや恐れはしなかった。
「プラよ」とギデオンが小声で言った。「主は私に、恐れるならばおまえを連れて下って行けと言われた」
 プラは何と言ってよいか分からず黙っていた。
「たしかに、この状況にあってまったくかすかにも恐れがないのか、と問われれば、やはり微塵ほとの恐れはあると言わなければ嘘になるだろう」
 主人の言葉に、プラは顔はそのままで視線だけ上に向けた。
「だが、プラよ。覚えておくがいい。恐れていないことはないけれども、自分でも理解できない不思議な力が自分のうちにたしかにある、ということが、人間にはあるものだ。どうだ。言っていることが分かるか」
「私のような者にはとても……」とプラは答えた。
「おまえも分かる時がくる。いや、すぐに分かる。おまえもまた、選ばれた勇者だ。今は言葉にできなくても、そのうちそれが確信に変わるようになる。ただ、知らなければならないのは、それは人間からくるのではない、ということだ」
「つまり、神からくる、ということですね」
「そうだ」
 二人は暗い中、足下も守られて平野部の敵の陣のすぐ近くまで来た。
 いなごのように横たわり眠る敵の兵が、地平線の彼方にまで続くようにさえ見えた。しかし、それはただの人間に過ぎないことを、ギデオンは知っていた。
「ミディアン人、アマレク人、それに東に住むあらゆる民族が、あの中にいる」
 ギデオンがささやくと、プラはうなずいた。らくだもまた、海辺の砂のように無数に控えていた。人の姿がだんだん形をとってくるにつれ、ギデオンも緊張してきた。プラもそうだった。しかし、もう怯むことはなかった。   (続く)



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