キリストは私たちの平和
2025年8月4日

「キリストは、私たちの平和」。今日は、もうこれに尽きる。説教者自身、この言葉だけを伝えただけでこの説教はもう終わってもいい、と告げたほどである。とはいえ、それはこれからさらに語ってゆくことを前提としてのレトリックであることは、周知のことである。開かれたのは、エフェソ書2:14-17であった。この日は、マルコ伝の講解説教を一旦中止し、「平和」を思うひとときを迎えることとしたのである。
但し、先の新共同訳聖書に於いては、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と、「実に」の強調を省いたのは、聖書協会共同訳としては残念だ、とも触れられた。それほどに、ここは、声を大にして伝えるべきことなのだ、というのだ。場合によっては「理由」をとして受け取ることも可能であろうが、手紙の中でも強く訴えたいものであることは確かであろう。
ここから、加藤常昭先生のこの箇所からの説教によってしばらく「平和」について考えてゆく。「どこを切っても血が噴き出すような説教」が欲しい。頭で考えた、「切れば脳髄の液が垂れるような説教」ではいけないのだよ、という教育的配慮があったことに加え、日本のキリスト教会が「戦争」についてどんな責任があるのか、を痛みを伴って語ったのだという。教会の罪責告白という問題は重いのだが、「戦争責任」というだけでよいのかどうか、と加藤先生は問うていたのだという。さらに「戦後責任」というものに目を向ける必要があるのではないのか、というのである。
それは、過去の教会の責任だよ、と私たちが突き放して見ることに対して反省を促すことにもなる。私たちもまた、戦後を生きている。その私たちの責任はなんぞや、とも問えるからである。「教会の中に本当に平和があるのか」と、説教者も問う。そこに対立・敵意・憎しみがあるのではないか、と省みるのである。
ここで、話題が昨今の世情に移る。「日本人ファースト」という、先月飛び交った言葉についてである。政治的な発言については、礼拝説教に於いて、触れる教会と触れない教会とがある。ある牧師は、政治的な立場はどのようであってもよいし、それぞれの人の判断を尊重すべきであり、だから説教として特定の政治的な立場を表明するようなことはしない、という立場を貫いていた。下手をすると、教会の分断を呼び起こすし、特定の政治判断を信仰に反するもの、と断じてしまう可能性があるからであろう。
当教会でも、基本的に政治の判断をもたらすようなことは、これまで基本的に語らなかったと思う。だが、今回その政党名を挙げて批判するようなことはしなかったが、そこからもたらされる世情や空気といったものについて、危機感をもつという意味で、取り上げたのであろうと思われる。
つまり、「日本人ファーストを是とする心が日本に満ちている」点が問題だ、というのである。一種のナショナリズムである。そしてそれは、日本に限ることではない。むしろ近年、世界各国でその傾向が顕著になってきているのだ。
人道的に、移民を迎えるという姿勢が評価されてきたものの、やがて自国民の不遇が目立つようになる。すると、天秤は大きく逆に振れることになる。移民を入れるな、追い出せ、排除せよ。自国民を重んじることなくして、なんの国家ぞ。「多様性」という理念がかき消されてゆくかのようにして、自国ファーストの勢いが止まらなくなる。説教者はこの傾向を、「自分ファースト」とも呼んだ。自己中心的な原理である。説教者はこれを「罪の故」とも述べた。
私たちは歴史の中に、このような傾向の行く末について、苦い経験をもっているはずだった。日本でもそうだった。アメリカも、日系人に対して排除をしていた事実がある。ただ、甚大な被害をもたらしたものとしては、ヒトラー政権のナチス時代を顧みない訳にはゆかない。
歴史について無知な私でも、人間の怖さについてが問題とあらば、少しは注目しなければならないことを挙げねばなるまい。それは、ヒトラーの独裁あるいは恐怖政治と呼んでもよいが、それは民主的に選ばれた、ということである。そして、最初のナチス、即ち国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)は、少数政党として始まったに過ぎず、それを選挙する国民が支持して拡大して行った、ということである。
NSDAPは、1928年に、選挙で12人が当選して初の国会議員を出した。1930年、107人が当選し、1932年には、200人前後の議員を得ている。それが1933年になると、288人が当選し、その年の秋には他の党に政治をさせない全権委任法を制定した。以後、国会議員はすべてナチスとなってしまうのである。
説教のために朗読された新約聖書は、エフェソ書2:14-17であった。説教者はここから、その直前の2:11-13を説き明かし始めた。最初からペリコーペとしてここを含んでいてもよかったてのではないか、と思わせるほどに、ここについて詳しく取り上げたのだった。
11:だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前は肉において異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
12:その時、あなたがたはキリストなしに生き、イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者で、世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。
13:しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
心に留める。この言葉は、英語でいうなら「remember」となり、「思い出す」「忘れないようにする」あるいはまた「記念する」というようなニュアンスをもつ言葉であることが説明された。
かつて「世にあって希望を持たず、神もなく生きて」いたことを、忘れるな、というのだ。この「希望を持たない」をという意義として、「諦めるしかない」ということなのだ、と説教者は教えた。だが私たちには、イエス・キリストの救いが与えられた。聖書の言葉によって、イエス・キリストは新たな人格を創ったといえる。そうした面々が、いまここに神を礼拝するために集っている。そこには希望がある。死を超えた希望がある。説教者はそれについて、「決してすりきれることのない希望」という、美しい表現を、ただ一度だけだったが、提示した。なんという慰めの言葉であろう。
また、かつては「遠く離れていた」けれども、今や「近い者」となったのだ、とここでは強調されているが、この「遠い-近い」とは、何についてなのか、と説教者は問うた。一つには、神から遠かったのが、今や神に近くされた、と理解できる、という。他方、異邦人がユダヤ人と近くなったことを理解してもよいのではないか、とも告げた。隔ての壁がなくなっているわけである。その壁を取り払ったのは、イエス・キリストの十字架である。神と人との間の壁が、和解という方法で取り払われた。また、律法という壁が、キリストの救いを信じる信仰によって、すべての人の救いへと解放されたのでもあった。
キリストは私たちの平和である。今日はここから始まった。そして、ここに尽きるということも宣言されていた。だが、その平和はすでに実現されたものではない。平和の実現は恰も理念のように、人類の現実からは永遠に等しいほどに遠く見える。私たちは平和とは真反対の世界にいる、とも言える。国が、家族が、友が、同胞が、分断されたままにある。互いに敵となっていりる。
「キリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました」という指摘は、如何にも美しい。キリストは確かに、必要な可能性を十分に与えたのだ。だが、人間はその実現を、依然として妨げ続けている。あまりに擬人的に決めつけてはならないかとは思うが、「敵」はいまもいるし、常にいるのである。
だから、その「敵」を滅ぼすのが神の業なのか。説教者はそうは言わない。エフェソ書と共に、違う点を指摘する。
16:十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。
キリストが滅ぼしたのは、「敵」ではなく、「敵意」である、というのである。単にキリストの弟子たちと対立する相手を滅ぼそうとするのではなく、それらとの間の出来事を滅ぼす。さらに言えば、この私たちの中に潜む霊的なものについて、滅ぼそうとするのだ。たとえばそれは、争いである。妬みである。憎しみであり、蔑みである。私たちの中に潜むもの、あるいは、どうかすれば私たちを襲い、いつの間にか信仰の心とすらすり替えて、恰も自分ではそれが信仰であるかのように思いなすことをさせるもののことである。
教会の中にも、外国籍の人がくる。だがまた、外国籍の伝道者も関わってくる。それは教会として、ありがたいことであろう。歴史の中で、「民族教会」に画一化されていくとき、何かおかしなことが起こっている。日本でも、アジア諸国の人々を、国家神道に強制的に統一するべく圧力を加えていったことを思い起こさなければならない。違う文化を共に認め合うというような発送と、正反対のことを、正義として打ち出し、それしかないかのような論理と執行を貫くようにしてゆくのだ。
それは、アジア人相手だけではない。実のところ、すでに沖縄に対してでも、そうであったのだ。日本の大きなキリスト教の教団が、沖縄を戦後切り離し、またそもそも沖縄の教会を、ひと味違う別のものとして扱ってきたことについて、無関心ですらあったということを、痛みをもって知るべきである。
いったい「日本人ファースト」と政治家やそれを支持した人々が「正義」だと主張するとき、その「日本人」に「沖縄」が含まれていると言えるのかどうか。日本国内の米軍基地の3分の2以上が沖縄県にあるということについて、その沖縄の人々のために「ファースト」であろうと決意しているのかどうか。先月28日放送のNHKの「あさイチ」に寄せられたひとりの視聴者の声を、「日本人ファースト」が素晴らしいと思う人々は、どう受け止めるのであろうか。
さて、説教者は終わりに、「パウロ研究に関する新しい視点(NPP)」という動きについて、説明を施した。この動きが始まって、早くも半世紀近くが経つ。『パウロとパレスチナのユダヤ教』という、サンダースの著作が、聖書学の世界に衝撃を与えた。その紹介というわけではないが、そういう動きの中で、パウロの求めた「教会」という姿に、神の新たな平和をつくる「共同体」というものを見ようと努めた。
パウロは、後の時代が進めたように、ユダヤ教やユダヤ神学を、決して貶めようとしたのではない。いわゆる「信仰義認」という考え方について私たちは、かつてのステレオタイプな教えに留まっている訳にはゆかない。そのため、新しい聖書協会共同訳でも、「信仰」と今まで訳していた部分を「真実」という語に変更するという英断を下した。
言うなれば、異邦人とユダヤ人との間の壁を、異邦人側が、キリスト教史に於いては一方的に築いてきていたのである、とも言えるのだ。その行く末が、ユダヤ人抹殺という恐ろしい政治的行動であったし、それに「凡庸」なアーリア民族市民たちが、いとも簡単に賛同してしまったのである。
私たちもまた、簡単に動かされる可能性がある。そして後から眺めたときに、自分がとんでもないことに熱狂し、賛同していたものかと恐れ慄くことになるかもしれないのである。その意味では、口にする「平和」という言葉が、すり替えられてゆく可能性に目を光らせている必要があるのであり、私たちは、常に新たな「平和」を求めなけれはならないのである。しかも、その「新たな平和」が、誰かにより操られた、世にも恐ろしいものでないのかどうか、も自ら批判していなければならない。ある意味でそれは、聖書の神の告げる「平和」に徹底的に戻らなければならない、ということなのかもしれない。
説教者がイザヤ書2:4を開く。「彼らはその剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す。/国は国に向かって剣を上げず/もはや戦いを学ぶことはない」という、有名な預言である。同じイザヤ書の65:25にある、「狼と小羊は共に草を食み/獅子は牛のようにわらを食べ/蛇は塵を食べ物とし/私の聖なる山のどこにおいても/これらは危害を加えることも、滅ぼすこともない」という田園風景のような穏やかさと比べると、人間の実際的な文明そのものに厳しい批判を加えているようにも見える。
説教者は、それは夢なのかもしれないが、と但し書きを加えたが、私は必ずしも夢とは考えたくないと思った。これは、人の意志によって行う道だからだ。軍事費の増大が、「抑止力」という美名によって常に正当化され、他方で飢える国民を顧みないことを正義となすことが実際になされている。狼と小羊をそばに置くことは自然のなしえないことではあるが、鋤を鎌に打ち直すことは、人為的に可能な範疇にあるはずなのだ。それを拒むのが人間の罪であるため、罪を消し得ない人間には無理だ、という見解は適切であるにしても、それでも、それは人間が決め得ることである、と考えたいのである。
キリストの名の下に集う私たちは、「平和」である「キリスト」に相応しい在り方をしているだろうか。本当は、まずそこのところこそが、見つめる要であるはずである。だから私たちは、「平和を造る人々」を掲げ、自らの目指すところとして歩みたいと願うことが必要であろうと思われる。
折しも、『福音と世界』8月号の特集の一つが、「平和を作り出す人たち」というテーマであり、そこに、マタイ5:9を軸とした考察があった。そこで筆者大澤香さんは、イエスが、「敵」を「敵」として区別することをやめよ、と言っているのだ、と解している。「排他的枠付け」はイエスとは反対の方向のことだ、とするのだ。そしてマタイ伝からは、「イエスを通して、それまで距離のあった人や出来事と出会い、新しい視点や生き方に導かれた読者の存在が浮かび上がる」、と述べている。
そして論考は続く。そのように、聖書の言葉は読者に語りかけ、呼びかけているのである。私たちはそれを「聞くこと」に、体ごと飛び込まねばならない。「「聞く」ことは、受動的な行為ではなく、本当に大切なことを聞きとっていく、創造的な営みである」と語られている。私たちは「もはや「敵」を「敵」と区別しない決意を伴う祈りのメッセージ」が語りかけられているこの地上で、「あなたはどう生きるのか」と問われている。
なお、この論考に続いて、「心の戦争準備に抗って」という、星出卓也さんの文章がある。ここには、日本に於ける実例を通じて、私がここで触れたことに関するような件について、「少数者に犠牲を強いている日本社会の多数者の視点の問題」が、天皇制や沖縄の問題にもつながるような方向で、指摘されている。目を通す機会のある方には、触れて戴きたい論考である。