ギデオン◆7

2025年8月4日

 町の猛者たちは、多くがミディアン人たちに殺され、また傷ついた。町は、悲壮な声に包まれた。
「誰か、この困窮から救い出してくれる者はいないのか」
「ヒーローが現れてくれないものか」
「神に祈ればいい」と、ギデオンは指導者に言い返した。「イスラエルの神、主は生きておられる。主に求めれば、主が戦ってくださる。モーセの手が上がっていれば、アマレクは負け続けたというではないか」
 長老たちは、無言でそんなギデオンを見つめた。その眼差しは、なんともいえない悲しみに包まれていた。町全体に、諦めムードが漂い始めた。ギデオンは、これではいけないと思い、勇敢な若者たちを一族の中に求めた。いよいよのときには、とにかく一つに集まろうという約束が結ばれた。
 そんなある夜、ギデオンは再び神の声を聞いた。
「立ち上がれ。イスラエルを守るために、あのミディアン人たちを討ち滅ぼせ」
 翌朝、ギデオンは角笛を吹いた。兵士の集合の合図である。アビエゼル一族の若者がまずすぐに集まった。それから壮年たちも、顔を見合わせているうちに、とにかく戦わなければならない、と口々に言うようになり、角笛のもとに足を向けた。
「マナセ族が、全力で戦わなければ、ミディアン人には勝てません」
 長老たちに提案すると、ほかに為すすべがないのならば、とにかく何でも協力しようという返事がもらえた。さっそく、マナセ部族の隅々にまで、使者が送られた。さらに、その声はマナセにとどまらず、近辺のイスラエル部族、すなわちアセル、ゼブルン、それからナフタリにも伝わった。マナセの指導者が、こうなればと次々と使者を送ったからである。
 ミディアン人たちがイズレエル平原にキャンプを張り、またタボル山での戦いに勝利したことに酔いしれているとき、マナセ族を中心にイスラエルの民は、次の、おそらくは最後の戦いへ向けて着々と準備を調えていた。
 だが、ギデオンはまだ十分な力を得てはいなかった。全員が自分に従うとはかぎらないことを知っていたからだ。つまり、自分はそれほどカリスマ的なリーダーではないということは、分かっていた。これだけの一族を率いていくには、神の力が必要となる。それは人間だけの力、人間だけの知恵では成し遂げることができない。かつてモーセがそうであったように、神に与えれたあの杖でもって数々の奇蹟を示すなどの力がなければ、人々は従うものではない。人心をとらえることはできな。あれだけのモーセでさえ、エジプトから出る民は常々不平を言いまくるのを簡単に止めることはできなかった。それがゆえに、エジプトを出たときにそこにいた不信仰な民は、ついに一人としてこの約束のカナンの地に足を踏み入れることは許されなかった。わずかなヨシュアとカレブという、神に忠実な勇士のみが、それを許されたのみである。
「私は、それほどの人物ではない」
 ギデオンは、次々と集まってくるイスラエル各部族の兵士たちの先頭に立つほどの力をもたない自分を嘆いた。いざ呼び出しておいて、それから臆病になるのは、昔のギデオンの性質の現れである。
「ギデオン様。文は各地に伝わりました。明日にでも、近くの部族から順に、精鋭たちがこのオフラに集結してくることでしょう」
 つねにギデオンに仕える忠実な従者プラの声にも、ただ押し黙ってうなずくだけ。夜になって、ギデオンはひとり神に向かった。
「主よ。聞いてください」と天を見上げて告げる。「もし主がお告げになったように、私の手によってイスラエルを救おうとなさっているのなら、ひとつお願いがございます。しるしを見せてもらえないでしょうか。主が私に力をくださり、言われたことを必ず成就してくださるという、しるしです。羊……羊一匹分の毛を、私が麦打ち場に置いておきます。その羊の毛にだけ、そこだけに夜露を置き、ほかの土はまったく乾いているようにしてください。そのしるしが現れれば、私は私の手によって主がイスラエルを救おうとなさっていることを確認することができます。私は十分納得したうえで、ミディアン人たちに立ち向かうことができます」
 翌朝ギデオンが早く起きて、麦打ち場に行ってみると、置いていた羊の毛が濡れているのが分かった。持ち上げて絞ってみると、そばの鉢に水がいっぱいになるほどに、毛が濡れていた。
 辺りをみたが、ほかの土がとくに濡れている様子はなかった。ギデオンの申し出通り、ただ羊の毛だけが濡れていた。ギデオンは、主が答えてくださったことを知った。
 しかし心の中には、そのことをうれしく思わない部分がどこかにあった。ほんとうに神が働いてくれなかったほうが、自分はそれを口実に引っ込むこともできたはずである。自分は、出ていってよいのだろうか。その思いは、ゼブルンからの兵が来たのを見たとき、恐怖となってギデオンを襲った。
「ギデオンという大将に会いたい。この軍を率いることになる総大将という方にお目にかかりたい」と怒鳴ったのは、ゼブルンの大将のヤフレエルという大男だった。「バアル自ら争うがよい、というふうな別名ももつそうだ。それほどの人物に、一目お会いしておかなくてはなるまい」
 そのことを従者プラの口から聞くと、ギデオンはためらった。ほんとうなら、今朝の主のわざをバックに、力強く出迎えるべきであった。……だができなかった。
「明日……明日会おう。ギデオンは戦のための準備中だと伝えよ」
 プラはそのことを伝えに走った。ギデオンは気づいたのだ。土が濡れていなくても、動物の毛にだけは露が降りるということは、普通でもありうることに。夜の間に西風が吹いて、海のほうから水蒸気を含んだ空気を運び、この地に露をもたらすことは常識である。ただそれの量しだいでは、土にまで露が及ばず羊の毛ほどのものにのみそれが滴るということは、理屈で考えても起こりうることである。もしかすると、たんなる自然現象としてそれが起こり、自分はそれを神のわざと安楽にも思いこんでいるだけではないのか。そんなおめでたい考えで、偶然を喜んでいるとあっては、自分は惨敗するであろう。
 その夜、ギデオンは逆の困難なわざを主に申し出ることにした。
「主よ。どうかお怒りにならず、いま一度だけ僕に言わせてください。もう一度、もう一度だけ、羊の毛で試すのを許してくださいませんか。今度は、羊の毛だけが乾いており、土には一面に露が置かれているようにしてください」
 それは先のことより遥かに自然には起こりえないものだった。もし、もしもほんとうにそのような奇蹟が起こったとした、そのときにはもう、神が自分のために生きはたらいていることをそのままに認めなければならない。
 翌朝、ギデオンは高鳴る心臓を押さえて、麦打ち場に出向いた。外に出ると、はたして、辺り一面の土が露に濡れているのを見た。しかし、麦打ち場に置いた羊の毛は、ほんのわずかも濡れてはいなかった。こんなことは、通常考えられることではなかった。
 ギデオンはこのとき、この主を信じていなかった自分を殺してやりたいほど憎んだ。それと同時に、そのようにまで神を信じられない自分のこの頼みにも、黙ってそのとおりに応えてくれた主の恵みを感じて、男泣きに泣いた。そしてもう二度と、主を試すようなことはすまいと決心した。   (続く)



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