ギデオン◆6
2025年8月3日

ヨアシュのもとへ、町の人々が押し寄せてる時がきた。
「息子を出せ」
「どうしたことですか」とヨアシュが冷静に応対した。
「息子を出せ。ギデオンだ。調べはついているんだ」と人々は興奮した様子で口々に言った。「息子は殺されなければならない。バアルの祭壇を破壊して、ともに祀っていたアシェラの像も切り倒しただろう。いろいろ訊いてまわったんだ。見た者もいる。しらばっくれても、事は明白だ」
「なるほど……それなら本人に聞いてくれ」とヨアシュはあくまで冷静だった。
「ギデオンは、自分の天幕にはいなかったぞ。ここにいるんだ。ここにかくまっているだろう。ヨアシュょ、おとなしくその罰かぶりの息子を差し出せば、あんたに手出しはしないよ。悪いのはギデオンだけだ。ギデオンだけを処罰すれば、それでいい」
奥の部屋に身を隠していたギデオンは、それを聞いて震え上がった。
父ヨアシュは、冷静に、だが威厳をもって語った。
「皆さん。分かりました。ギデオンの仕業かもしれません。バアルの神に悪さをしたというのは、息子のギデオンだということを、ただちに否定するものではありません。ただ、私は提案してみます。ギデオンは、皆さんに害を加えたというのでなく、被害者はバアルです。ならば、バアルご自身に、目には目、歯には歯の掟に従って、復讐してもらうのが筋ではありませんか。皆さんがバアルをかばって、バアルの代わりに何かをするのは、よろしくありません。まさか、人間である皆さんが、神なるバアルを救うなどということがおできになるわけではありますまい。そんな人間の分際を越えたことをする者は、明日の朝を迎えるまでもなく、神によって命を絶たれるでありましょう。もしバアルが神であるならば、バアルご自身が、ご自分の祭壇が壊されたことに対して立ち上がり、争うことでしょう。バアルは自ら争うのです。違いますか」
町の人々は、言葉をなくした。それでも刃向かおうとする若者があったが、年寄りがそれをたしなめた。ヨアシュの言う通りだ、バアルが神ならば自ら争うことだろう、と。
事態は収まった。町の人々は、ギデオンをつるし上げることはできなかった。そんなことをすれば、自分がバアルを信仰していないことを表明することになる。バアルが神だと信じていないことになる。ヨアシュはバアルを信じている。バアルが自分で罰でも何でも与えてくださることだろう。そんなことを互いに話し合いながら。
ギデオンは、静かになったのを見届けてから、奥の間から父の前に姿を現した。
「まったく、おまえは肝を冷やさせてくれる」
「すみません」とギデオンは頭を垂れた。
「それにしても、語呂がよかったな」と父は息子に笑みを見せながら言った。「エルバアルという言葉」
「エルバアル?」
「バアルは自ら争うだろう、という言葉だが、どうだ、おまえはこれからそのように名のってもよいかもしれんな」
「とんでもない。私は主を信じています。バアルの名などいただきとうございません」
「自分で言わなくてもいいさ」と父は答えた。「だがカナンの人間は、おまえのことを、きっとそのように呼ぶことだろうよ」
バアルの祭壇は、その後町の人々によって建て替えられた。ギデオンは、主から命じられない限り、二度とそれを破壊するようなことはすまいと誓った。
ギデオンは、日々の労働に熱を入れた。いつか必要なときに、再び神が召しだしてくださることを信じて、黙々と父親の手伝いを続けた。その姿を見て、ギデオンの属するアビエゼル一族の者たちは、だんだん気持ちが変わってきた。
ギデオンの神は、たしかにイスラエルの神だ。バアルの神はギデオンに何もすることはできなかった。主こそ生けるまことの神ではないか。そんな空気が漂っていた。少なくとも、ギデオンの周りに、アビエゼル一族の中からいくらかの賛同者が現れ始めたのは事実である。
カナンの神バアルは便利な、手軽な神であったかもしれない。しかし、結局のころそのバアルに忠誠を尽くすまでのことは、イスラエル人たちにはできなかった。民族の危機に直面すると、彼らは結束を図る。そのためには、イスラエル民族の神が必要だった。そのもとでこそ、彼らの結束は強くなると昔から言い伝えられている。
そのときまた、ミディアン人たちが襲ってきた……。
南方のアマレク人を誘って勢力を増やして、近辺諸国の政情をキャッチし、策略を練るということも覚えたミディアン人たちは、さらにメソポタミア付近にまで同盟民族を膨らませていた。その軍勢は、たんなる遊牧民族の掠奪隊というにとどまらず、大国の軍隊のように組織化され、兵士も訓練されていた。
「ヨルダン川を渡ってきたそうだ」
偵察隊の知らせを聞いて、オフラの指導者が叫んだ。
「以前来たときより、さらに強大な軍勢になっているとの話だ」
「新しい武器も取り入れて、恐ろしくなっているらしい」
「たまらない」
ギデオンの父ヨアシュは、いよいよかと思ったが、息子に対しては、弱気なところを見せなかった。
「なに、このオフラを襲うと決まったわけではない。あちらにもこちらにも、掠奪したくなる町はある。このオフラにまで乗り込んでくる前に、奴らも掠奪に疲れてしまうだろう。そんなに慌てるな」
しかしギデオンは、恐れていた。あの御使いに出会う前の臆病さとはもう異なっていたが、だからといってギデオンが突如勇敢な兵士になったわけでもなかった。
ミディアン人たちが、オフラの町のある斜面を降りて行った先に広がるイズレエルの平原に見えたとき、町の人々のパニックは最高潮だった。なにしろ敵の姿がかなたに見えている。荒らす者たちが実際に目に見えるということは、自分の死が間近に迫っていることの証拠である。勇敢に迎え撃とうと提案する者もいれば、へたに騒ぎ立てて刺激せず、この町を過ぎ越していくのを祈ろうと諭す者もいた。
「なにしろ、あの平原は豊かな牧草地でもある。あの平原だけで、奴らの欲しいものは揃うはずではないか。なにも、この目立たない町を襲う必要はないだろう」
事実、掠奪隊は、オフラに向かって押し寄せる気配は、さしあたりなかった。見張りは欠かすことがないものの、逆にこのままいつまで緊張を続けていればよいのか、たまらない気持ちになる者も少なくなかった。ミディアン側にしてみれば、それほど恐怖を与えるというだけで、すでに有利に違いない。
やがてついに、平原からみて反対側のタボルの山に、ミディアン人が現れたという知らせが町に届いた。町は混乱した。さすがのギデオンも、男なら勇気を持って立ち上がらなければならないという気持ちが少しした。しかし、このとき町の有力者はギデオンを招くことはなかった。代わりに、ギデオンの兄たちが呼ばれ、軍に召集された。
そして、兄たちは帰って来なかった。
ギデオンは、ならば必ずや仇を、とわき起こる気持ちとともに、自分は非力だという劣等感がはたらいて、自分から身動きがとれない状態になった。 (続く)