ギデオン◆5
2025年8月2日

風がここから吹き去ったような跡がそこにあった。
目には見えなくとも、風が消えた跡というのが世の中にはある。
信じられないだろうか。こんなにたしかなことはないのに。こんなに分かりやすいことはないのに。風が抜けていった、空虚な空間を、見たことかないなんて。誰もが見たことがあるはずなのに、見たことはないなどとつまらない返事をする。いい加減にしてくれ。忘れているだけなのに……。
ギデオンは、たしかにあれが主の御使いであると確信した。すると、例の神を見た者は死ぬという言い伝えが急に自分の身に及ぶことであることを感じ、嘆くように叫んだ。
「ああ。神よ。わが主よ。わたしは、なんと顔と顔をつき合わせて、主の御使いを見てしまいました……」
泣いていると、どこからか声が聞こえた。
「恐れるな」
ギデオンは顔を上げた。
「恐れるな。平安あれ。安心するがよい。おまえが死ぬことはないのだから」
涙が止まった。それから声は聞こえなくなったが、ギデオンは感謝の心でいっぱいになった。感謝の思いに満たされると、何かがしたくなるのが人間の常。ただ受けていればよいような状況でも、何かをしないではおれない。愚かでもあり、健気でもある。その心か残っているかぎり、まだ人間にはいくらか見るべきものはあると言えるだろう。
ギデオンは、そのテレビンの木のある場所の岩を、神への献げ物のための祭壇として整備し始めた。岩を削り、四角く仕上げ、四方には角を設けて、いつか見たイスラエルの祭司の祭壇のように仕立て上げた。
「なんと主は大きな、温かな存在なのだろう。この私を救ってくださった。この私の心に、平和をくださった。まことに、ほむべきかな」
日が暮れるまでその作業に没頭し、ギデオンはついにそこにつけるべき名前を考えついた。
「そうだ。『平安の主』がいい。御使いが『平安あれ』と言ってくれたことを記念して、そう呼ぼう。この祭壇の名は『平安の主』と呼ぶことにする」
ギデオンがつけたその名は、今もたしかそのように呼ばれているはずである。
夜になって、ギデオンは一人で静まっていた。その日の不思議な出来事を振り返っていた。すると、夜の静寂の中で、再び天からの声を聞いた。
「バアルの祭壇を壊しなさい」
呼ばれたとき振り返ると、そこには誰もおらず、ただ張りつめた大気の中に、星の輝きが瞬いていた。
「何とおっしゃいましたか」
ギデオンは尋ねた。
「連れ出すのだ。父のもつ、若い雄牛を一頭、連れ出しなさい。七歳になる、若い牛がいる。この砦の頂上に、ていねいに祭壇を造り、そこでその若いほうの牛を、献げ物として献げるのだ。そのとき、おまえの父のもつバアルの祭壇を破壊し、傍らのアシェラの像を切り倒し、それらを薪にして、その雄牛を焼き尽くすようにしなさい。なにしろギデオン、おまえの名は、『伐採する』という意味をもつものであるから」
重い沈黙が消え、するると心が浮かび上がるような感じがした。辺りは、何もなかったように静まっていた。ギデオンは、自分一人の天幕の中で、しばらく腕を組んで考えていた。だが、思い立つと、少し離れた周りに宿る召使いたちに呼びかけに行った。
力があり、しかも従順な父の召使い、ただし今はギデオンのためにあてがわれていた召使いたちの中から、気の通いあう十人を選び出すと、ギデオンは、父の天幕と自分の天幕との間に置かれているバアルの祭壇へ向かって進んでいった。
「よいか。誰にも知られてはならない。これは主人であるこのギデオンの命令だ」
召使いたちは、もとより雇い主に逆らうことはできない。一瞬バアルの祭壇を壊すという命令にぴくりとした者もいたが、ほとんどは微動だにせず、黙々とギデオンの指示にし従った。それが召使いの仕事である。自ら判断することのできない定めは苦痛のように感じる部外者もいるが、その実たいへん楽なことでもある。彼らは責任を背負わない。この問題は、ギデオンによって生じた。ギデオンがすべての責任をもつ。
月明かりだけが照らす丘の上、運び出されたバアルの祭壇に女神アシェラの像。砦の頂に立つと、辺りが遠く見渡せる。ここなら、いつミディアン人がこの地へ向かってきても、いち早く見つけることができるだろう。だが今やギデオンにとって、目の前の事業のほうが重要だった。
「祭壇を築け。いけにえを献げるのだ」
岩の祭壇は周囲を磨かれた。イスラエルの律法では、祭壇の石は鉄の道具を使って切り出されてはならないとされている。おそらくイスラエルに鉄が不足していたことの反映だと思うが、とにかくそうすると汚れるという言い方がされていた。ギデオンはそれを学んで知っていた。神のものを汚してはならない。だから石同士で互いに削り合うようにして、その祭壇を築いた。取り急ぎ造られたわりには、なかなかどうして、見事なつくりの祭壇となった。ギデオンは、自分が死なずにすんだのはあの神の恵みだと思っていたから、心をこめてそれを造った。
深夜になり、半分ほどの大きさの月が西の空に沈もうとするころ、祭壇はできあがった。ギデオンは召使いに命じて雄牛を屠らせ、恭しくその祭壇の上に献げた。告げられたとおりにバアルやアシェラの像を斧で割った。刃が食い込む。さらに振り下ろすと、分断された。すでにそれらの像は薪となった。祭壇の上の肉を焼く尽くした。静かな儀式ではあったが、煙が星空に立ち上るのがはっきりと見えた。その煙は、ギデオンの祈りとなって、主のもとへと届いたことだろう。
翌朝、近くの町に住む信仰熱心な老人が、いつものようにバアルの祭壇に参ろうとしたところ、それがなくなっているのに気づいた。当然大騒ぎとなった。町の人々がどうしたことかとその場に集まってきた。朝の澄んだ風景の一部に、見慣れないものが見えた。人々は、砦の高いところにあるものを確認しようと歩いて行った。
破壊された無惨なバアルの祭壇の残骸と、アシェラ像の土台が、無造作に捨てられるようにして転がっていた。
考えてもみるがいい。昨日まで拝んでいた木の神の像が、切り刻まれ、捨てられているのだ。これは身内を殺された以上に苦しい思いがするものではないか。
「誰だ。こんなことをしたのは」
「許せない。犯人を絶対につきとめてやる」
「子どものいたずらだったらどうする?」
「関係ない。子どもだろうが何だろうが、このような真似をする奴は許せん。引き裂いて、これと同じようにしてくれる」
町の猛者たちは興奮し、ただちに捜査を始めた。誰か目撃者はいないか、誰かそのようなことをしてやろうと口にしていた者を知らないか。
壁に耳ありという。どこで誰が見ているか分からない。ギデオンの仕業だということは、まもなく判明した。父のヨアシュでさえ、まさか自分の息子がこのようなことをしていようとは思っていなかったので、最初はそれを信じることができなかった。だが、ギデオンに問いつめると、ギデオンは隠すことなく告白した。
「イスラエルの神、主のお言葉があったのです。それに従ったまでです」
「とんでもないことをしてしまったものだ」
「当然のことだと、自分では思っています」
「ギデオンよ、聞くがいい」と父はギデオンを座らせて言った。「おまえが、どんな神を信じようと、それは構わない。おまえの心を変えることは、他人にはできない相談だ。だがギデオンよ、それと同様に、他人の信仰をも、おまえは変えることはできないのだ。他人が信じている神の像をおまえが勝手に破壊したということは、他人に対する損壊行為、加害行為にほかならない。やっちゃいかんのだよ、他人の尊厳を踏みにじるようなことは、とにかく……」
ギデオンは、その点まだおとなではなかった。ただ、自分が主に言われたことを繰り返すだけだった。
「しかし、何度も言いますが、これは主なる神が私にせよと命じたことなのです。その命令に従わなければ、私も主を信じているとは言えなくなるのです」
「だがな……」
ヨアシュもそれ以上ギデオンを説得することは諦めた。ヨアシュは気づいていた。たしかに自分はバアルやアシェラを拝んではいたが、いざそれらの像が消滅してしまったとあっては、拝んでいたあれらの像は神でも何でもなかったということに。それよりも、また新しい像を作ればいい。像ならばまたよいものがいくらでも作り出せるではないか。そういうふうにでも考えなければ、ここで息子を罪人として死刑に処せられてしまうことになるではないか。 (続く)