ギデオン◆3
2025年7月30日

その昔、イスラエルがまだ部族ごとにばらばらに散らばっていたころのこと。
イスラエルの民が、カナンの地に来た。エジプトから渡ってきた。古くは、メソポタミア地方にいた民族だともいう。いずれにしても、本来自分の歴史を土地の中にもっているのではなく、遊牧を主として生活していたようでもある。そのイスラエル民族が、ヨルダン川の東の側から侵入して、いくつかの町を攻め取り、瞬く間にカナンの地に住みついた。カナン人にとってイスラエル民族は、明らかに面白くない存在だった。まさしくそれは侵略者であった。
戦闘の武器を見るかぎり、かの民族はそう進んだ軍隊ではなかった。どちらかといえば野蛮で、青銅の斧や槍を振り回して、集団で襲ってくる。カナンの住民の持つ、鎌状の鉄の太刀のほうがはるかに強く、洗練されたデザインをもっているのだが、攻撃の勢いは残念ながらイスラエル民族にあった。彼らの結束が堅いのは事実だった。リーダーの一声で、命も顧みず一気に攻めてくるのは、何か神懸かり的な感じがした。実際、彼らは彼らの名の下に結束してかかってきた。いなごのように激しく攻めてきては、めぼしい食料や備品を襲い、海の民の手を経て手に入れた高価な壺や飾りも、乱暴に奪い去った。それどころか、女も奪っては、連れ去ることもあった。
だが、それに屈するばかりがカナンの民ではない。あのエバルの山を越えたところにあるの平原の地は、豊かな実りをもたらす土地である。そこをただ奪い取られて黙って見ているわけにはいかない。カナンの勇士は戦いにおいて逃げるような真似はしなかった。ちょうどミディアン人の隊商が通りかかったので、彼らもカナンの兵士とともに戦ってくれた。そのころは、ミディアン人たちはカナン人にとって隣人であったのだ。
そうでなくてもこのシケムの町は、イスラエルの民の中心地として栄え、しばしばこの町も争いのまっただ中に置かれることが多かった。古い時代から、元いたヒビ人との間に一悶着あった。イスラエルの、民族としての歴史は、ヤコブという人間に始まるといわれているが、そのヤコブの娘のディナがシケムの若者に襲われたことがあったそうだ。その若者は若者なりに、ディナを愛していたらしい。だがディナの兄のシメオンとレビは、どうしても許せなかった。うまく口車に乗せてシケムの男たちを動けないようにし、一網打尽に撃ち殺してしまった。かの若者は、たしかにディナを手込めにしたものの、ディナを真剣に愛しており、ちゃんと正式に出向いて、ディナを娶ってイスラエルの民と姻戚関係を結びたい、と申し出たのに、だ。
かの哀れな若者は、名をシケムといった。それでイスラエル民族は、自分たちが敵を滅ぼしたことを勲章にするべく、その名前を町の名に付けた。
カナンの地に侵入したイスラエル民族は、ヨシュアという若者が率いていた。この若者には、勇気と知恵があったのはもちろんだが、やはりイスラエルの神を信じる心が備わっていた。それは、民族を一つにまとめるのにも役立っていた。
ヨシュアは、このシケムが、彼らの散らばった地域全体の中心ほどに位置することを利用して、たとえば民族の結集のための集会をシケムで開くなどして、拠点とした。そのヨシュアが最晩年にしたことだが、このシケムに民族を集結させて、堅い結束を誓わせたという。イスラエルを導いてきた主なる神に仕えて、民族としてのアイデンティティを保つように……そう言い遺して、この世を去った。
イスラエルの民は地域全体に広がっていった。もはや一人の王のもとで統一するということは不可能だった。ただ、何かあると結束することができるように、共通の神を主と定めて、ただそれを崇め祀るように、その一人の神のもとに民族も一つになるように、とヨシュアは言いたかったのだろう。
だが、ヨシュアの直接の後継者の時代まではまだよかったにしても、その次の代になると、イスラエルの結束はもはや怪しくなった。この土地で生まれこの土地で育った者たちは、ちゃんとこの土地に染まっていく。
イスラエルの民も馬鹿ではない。この世は自分たちだけで生きているのではないと知ることは、知恵さえあれば誰でも気がつくことだ。もともとその地に住むカナンの民を駆逐するようなことはしなかった。アジることの好きな政治屋はよくいうことだが、イスラエルの過激派の中にも、カナンのどこそこの町の民を皆殺しにしたなどとオーバーに叫ぶ者がいる。もちろんそのようなはずはなく、イスラエルの民を邪魔することがないかぎり、この土地に住み続けることは認められてきた。いや、それは当然のことだ。この土地のことを一番よく知っており、この土地での生産力を支えている勢力を虐げたところで、よいことは何ひとつない。
カナンの血をひく住民もまた、イスラエルの為政者たちに逆らわない形で、こっそりとイスラエルを支配するような巻き返しの方策を考えていた。
その一つが、宗教だ。
イスラエル人たちは独特の宗教をもっていた。主と呼ぶ特殊な神を崇め、その名の下に結束して力を一つにするようだった。
だが、カナンにはカナンの神がある。この土地を豊かに実らせるバアルの神だ。そもそもここからメソポタミアに至る広い地域で祀られてきた、雨を降らし五穀豊穣を保証し、軍神として雷をも支配する神である。この土地にはこの神がいた。
イスラエル人とて、権力者でなく庶民は、しょせん大地の実りを願う善良な老若男女である。バアル神の魅力に取り憑かれる者が続出した。政治的にイスラエルに支配されていたとしても、カナンの血をひく者は精神的にイスラエルを支配することができる。それが知恵であり、世に生きるための力である。
ところが、イスラエルの神である主は、そのように民族の心が離れていくのが我慢ならなかったらしい。ここにギデオンという男を通して、イスラエル民族の結束を再び固めていくようにし向けていくことになる。
今から四十年あまり前、この辺りはミディアン人の略奪に悩んでいた。
そう言うと、イスラエルの歴史を知る者は首を傾げる。かつてエジプトで殺人を犯したモーセが逃れてミディアン人にかくまわれ、そこで妻を得てやがてイスラエルの民をエジプトから脱出させたことからしても、ミディアン人は友人であるというほうが当然である。だが、時代は変遷する。イスラエルとミディアンとはすっかり遠く離れてしまい、別々の歩みを営んでいる。その間、ミディアン人たちはイスラエルにとって恐ろしい敵に変わってしまった。
とにかく獰猛で、ありとあらゆる作物や家畜を奪い去っていく。これまは、イスラエル人ばかりでなく、カナン人も困り果てていた。多少の自衛を施してみるものの、まったく役に立たない。相手は、もともと動き回る民であるゆえ移動には慣れている。天幕持参でどこにでも根を下ろし、またさっさと逃げていく。砂漠でもどこでも、らくだを使って自由に走り来る。ときに南部に住むアマレク人を仲間に引き入れて、定住する民を誰でも襲う。まるでいなごの大群のように、襲った後には何も残さない。ヒツジもウシもロバも、根こそぎ奪い去ってしまう。イスラエル人も、自分の命を守るだけで精一杯だった。そこらの山の洞窟に逃げ込み、身を隠す。要塞に立てこもったりするものの、財産を手放さなくて済むことは考えられなかった。
こういう目に遭うとき、人はどうするか。神を呼ぶのだ。それは、イスラエルの神でったか。いや。イスラエル人たちはすでに、たいていは神と言えばカナンの神バアルを思い浮かべるようになっていた。カナン人とともに、バアルの像に向かって懸命に手を合わせていた。
ところが、そこへ預言者と呼ばれる男が突然現れた。
らくだの毛衣を着て、野蜜やいなごでかろうじて生きているなどと噂された、痩せぎすの男。髭と髪で元の顔がどのようなものだったか、誰にも分からなくなっていたが、それでも語る言葉ははっきりしていた。
「イスラエルの神、主はこう言われる」と預言者は神の言葉を代弁した。「わたしはエジプトからおまえたちを導き上り、奴隷の家からここまで連れてきた。いや、エジプトからというばかりではない。あらゆる虐げる者、あらゆる敵からおまえたちをことごとく守り、群がる敵を追い払い、乳と蜜の流れる地をおまえたちの住む土地として提供した。わたしが、おまえたちの神、主である。カナン人がいる土地に暮らしたとしても、カナン人たちの神を拝んではならない、と常々告げておいたではないか。あれほど、たびたびこのことは告げておいたではないか。だが、おまえたちは、わたしの声に聞き従わなかった」
イスラエル人にしてみれば、どきりとするお告げだったことだろう。なにしろ、先祖代々の掟のようなものをつきつけられたのだから。新しいものがすべてよいなどという間違った教育をされた民族なら別だが、その点イスラエル民族はまだ健全だった。イスラエルがイスラエルであるゆえんともいえるその主という神の言葉が、魂のどこかによみがえり、生き働こうとしていた。もちろん、古ければそれでよいという理屈もないだろうが。
ところで彼らはこのシケムのある一帯を、エフライムと呼んでいる。同じ名を持つ部族に因んでのことらしい。このエフライムとともに、ミディアン人たちにもっとも攻撃されたのが、マナセと呼ばれる部族の地域だった。なにしろ広大なイズレエルの平原は、地域最大の穀倉地帯。その名は、神が種を蒔くという意味をもつ。そのように、大地はつねに緑で覆われ、豊かな穀物を産する。四季の花も咲き乱れ、じつに美しい平原だ。しかしミディアン人たちにとっては、襲うべき土地を見渡せる点でも都合がよい。
マナセ族の土地にあるオフラと呼ばれるその町もまた、ミディアン人に襲われたことが何度もあった。そんなとき人々は、山辺の洞窟に隠れて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。ミディアン人たちは、作物を根こそぎ抜いて持ち去り、あらゆる家畜を奪い去った。ロバさえ食い散らかしていくほどの野蛮な様子を示した。そのたびに町は滅亡寸前まで至った。が、たくましくも残った人間が、新しく町を再興していく。このようなことを繰り返すのが人間の歴史というものだ。
昔ミディアン人に誘拐されたイスラエルの子どもが成長し、今ではミディアン部隊の先頭に立って掠奪をはたらいているという例もあったらしい。そうなると、しばらくして再びミディアン部隊が掠奪にきたとき、実の子どもに教われるという悲劇も生じたかもしれない。
ただ、掠奪隊は、たまたまここ数年、南へ活動の舞台を移動していたゆえに、オフラの町は比較的平穏な数年を過ごした。人々はけっしてその恐ろしさを忘れてはいなかったが、平和が少しでも続いていると、このまま世界は平穏無事なまま過ぎていくと錯覚する者が必ず現れる。いや、多くの者が思う。昨日までそんなことは起こらなかった。だから、今日も明日もそんなことは起こるはずがない、と。 (続く)