ギデオン◆2
2025年7月29日

町は慌ただしくなった。こうなれば騎虎の勢い、ガアルとしてもその気になり、町の中から集められた勇士に一人一人会って、小隊をもたせるなどの組織作りに余念がない。町の中では、アビメレクへの反感の空気がどんどん濃くなっていく。
そうなれば、アビメレクから派遣されていた長官のゼブルにも、その空気が伝わらないはずはない。だが、長老たちがすでにゼブルの身辺を包囲している。人質とまではなりえないが、ともかくうまくいけばアビメレク側の情報を聞き出せる重要人物。取り扱いは慎重にしなければならない。
「ゼブルよ。あなたがアビメレクの僕としての地位を放棄するならば、けっして損はしないようなさせますがね」とゼブルに近しい長老が話しかけた。「つまり、われわれに味方するならば、悪いようにはしないということですが」
「何度同じことを言わせればよいのか。私はアビメレク様によってこのシケムの長官として任命された身。ただそれだけの人間だ。遣わした王に背を向けるわけにはいかない」
ゼブルは毅然として答えた。
「なるほど、ご立派なことで。ですが、それは同時に、あなたの命を縮めることになるかもしれませんよ」
「もとより承知だ」
「ただでさえ、周りの山を封鎖して、アビメレクの手の者が一人たりともこの町に足を踏み入れることができないようにしてあるんです。つまりは、あなたは孤立しているんですよ。そこのところをもう一度よく考えてみることですな」
「何度も考えている。殺すなら殺したらどうだ」
「まあ、それはお楽しみとしてとっておくことにいたしましょう。それより、アビメレクの母親の実家の者は、この奥の間にまだいるのですか」
「さあ……もしそうだとしたら?」とゼブルは口元を上げてにらみ返した。
「もちろんアビメレクの母親はもういないにしても、その子孫が長官の家でぬくぬくと暮らしているというのは、今も続いているわけですよね」
「王に仕える者にとり、それは名誉なことだ」
「いかにも。アビメレクの側に立つ人間は、しかしこの町にはほかには見あたらないのですね。さぞ寂しく思われることでしょう」
「寂しくなどない。イスラエルの王は、同胞を見過ごしたりはしない。同胞の意識はことさらに強いのだ。われわれの窮地に対しては、ふさわしい助け手を送り込んでくれるに決まっている」
「幸運を祈りましょう」
しぶといゼブルに、担当の長老も嫌気がさしてきた。強情なこの派遣長官は、そう簡単に寝返ってくれそうにない。だがともかく、このことは長老会議に報告しなければならない。すまなさそうな顔で、ゼブルの様子を伝えると、仲間たちは、それは仕方がないことだろう、と言って慰めた。
最長老は、とにかく明日が勝負だと最期にすべてのカナンの重要人物たちに告げ知らせた。
その長老は、この会議の後、久しぶりに息子の家に立ち寄ることにした。シケムの外れの要塞の様子を検分した後、具体的な指揮はもう若手に任せ、その晩はゆっくり休もうとしたのである。
さすがの長老も、いくぶん落ち着かない風体を示す。じっと座っておられず、裏の林をぐるぐる歩いたり、隣のヒツジの数を何度も数えたりしている。もういい壮年となった息子が、イライラしないように、とその父に言うと、私はイライラしてなどいない、と苛立たしそうに叫んだ。
老人が一人で奥の部屋にいると、孫のヤビアが無邪気にやってきた。しばらく外で遊んでいたらしい。
「町が騒がしいようだけど、何かあったのですか」
ヤビアは、もうおとなに匹敵するほどの体格をしているが、いまだ知識と経験は豊富でない。どこかまだ幼い表情を見せることがある。小さいころ、しばらく預かったことがあり、長老にもよくなついていた。そんなヤビアを、老人はとくに可愛がっていた。
「なに。シケムの町が救われる時が近づいているのだよ」と老人は言った。
「どういうこと?」
「ついにこのシケムが、イスラエル人の傲慢な王の支配から逃れるときがきた、ということだよ」
「……よく分かりません」
「戦いがあるのだ。明日にでも戦いが始まり、アビメレクを叩きつぶすのだ。アビメレクさえ死ねば、こっちのものだ。シケムが、ついにイスラエル人から解放される」
「アビメレクとは誰のことなんですか」とヤビアは老人を見上げた。
「おまえはそんなことも知らないのか。父親は今日まで何を教えてきたのだろうかね、まったく」と老人は驚きを隠しきれずに答えた。「まあいい。アビメレクか。アビメレクというのは、このシケムの支配者だ。つまり乱暴なあのイスラエル人たちの支配者のことだ。このシケム出身で、最初は歓迎された。だが、結局のところここで生まれた、というだけだった。それ以上この町のためによいことは何一つしなかった。アビメレクはやはりカナン人ではない。シケムで生まれたし、母親はカナン人ではあるが、しょせんイスラエル人だ。イスラエルの指導者となって、シケムを食いつぶそうとしている。先代の王ギデオンとは違って、尊大な男だ。その父親は、イスラエル人だが、こいつはなかなか立派だった。勇敢さの中にどこか奥ゆかしさのようなものもあっ。だが、息子のアビメレクはいかん。残酷なだけだ」
「残酷なんですか」
「何をしたと思う?」と老人は眉をひそめた。「自分の兄弟たちを殺したのだ」
「え……」と孫は言って怯えた。
「七十人だ。兄弟七十人を刃にかけたのだ」と老人は空しさと怒りとが混じったような息で呟いた。「いくら野蛮なイスラエル人とはいえ、それはあんまりのことだ。カナンの歴史にも、そのようなすさまじく醜い出来事はなかった」
「恐いことですね。昔のことなの?」
「三年前、ほんの三年前のことだ。おまえはそのころのことを覚えてはいないのか」
「覚えていません」
「まったく、子どもはそこらを走っていればいいだけだという、最近の教育もどうかしている。こんな恐ろしいこと、人間なら誰でも考えなければならないことは、親がちゃんと教えてやるべきだ。私が一緒に暮らしていたら、教えてやっていたものを」
長老は呟いた。この十年というもの、孫とは別に生活していなければならなかった。ときに会えばヤビアは甘えた。幼いころに味方となった者は、ずっと味方でありうる。しかし、長老は忙しかった。ことにアビメレクの問題が起こりかけてからは、ここにはまったく寄ることがてきなかった。それだけシケムにとって長老は、必要な知恵者であった。さまざまな相談や祀り事に招かれてばかりいて、この孫ヤビアと接する時間もろくにとれなかった。
「その殺された兄弟たちという中には、子どももいたの?」
「いた……悲しいことだが、いた……いたが、子どもが一人、助かった」
「ほんと?」
「ヨタムという男の子だけは、かろうじて逃れて生き延びた。小さいから、別のところで遊んでいたらしかった。ところがこのヨタムには、なかなかの知恵があった。神の力を宿していたのだと聞いている。アビメレクのもとを逃れた後、あのゲリジム山に登って、このシケムに向かって大声で呼ばわった」
そう言って老人は南に立つ山を指さした。そこから叫んだとなると、この町全体に響き渡ったことだろう。
「『アビメレクを王としたのは、間違っている。父ギデオンは命を懸けて、シケムの人々のためにも、ミディアン人を追い払った。けれどもギデオンは、王位に立って支配者として優越感に浸ることはしなかった。しかしアビメレクは、自ら王になりたいがために兄弟たちを殺戮した。ただそれだけのために。そして、こんなアビメレクを喜んで迎えたシケムの人々を、自分は憎む』と……」
長老は、言葉を止めた。
「シケムを憎んだんですか」
「ああ、そうだ。このシケムもまた、そのヨタムによってしっかり呪われておる」
「でも、シケムは今はアビメレクに反対する立場なんですよね」
「そうだ」
「じゃあ、ヨタムも許してくれるんではないでしょうか」
「さあ、どうだか」と老人はため息をついた。「シケムだけじゃない。今では、おまえのおじさんの住むテベツの町も、アビメレクには敵意を見せている。シケムほどではないかもしれないがな」
生ぬるい風が吹いた。夜になるにはまだ間がある。
「ぜひ聞かせてください。そのアビメレクという男の話を。そして、そのヨタムという子が、どうしてそのような呪いの言葉を吐くようになったのか……ヨタムの父親のギデオンとい人は、どんな人だったのですか」
ヤビアは、とくにそのヨタムという逃れた子どもの話に関心を寄せた。もっとそのことについて詳しく聞きたい、と祖父に求めた。
「そうか。では、少しまわりくどくなるが、イスラエル民族がそもそもこのカナンの地にやってきたころのことから話そう」
長老は岩に腰を下ろしたまま、杖に両手をかけて話を始めた。 (続く)