暗い目を輝かせる声
2025年7月28日

ヨハネ伝は、一つのエピソードが相当長い場合が多い。それに対してマルコ伝は、かなり短いエピソードが連々と並べられている。が、その中でも最も長いというのが、本日の連続講解説教で取り上げられた、マルコ5:21-43のまとまりである。ここは、会堂長ヤイロと長血の女の物語が、重なる形で記録されている。そのため、普通なら二つの話が、ひとつの中に語られていることになるのである。果たしてその二つの重なりというのは、どのような必然性をもっているのであろうか。
粗筋としては、イエスが湖を渡り戻ったとき、大勢の群衆(この表現の過剰さも指摘された)に囲まれた中、会堂長のヤイロという男が現れた。12歳の娘が死にそうだ。もう臨終を迎えようとしている状態なので、イエスが来て手を置けば生きるだろう、と申し出る。すごい信仰である。イエスはヤイロと共に歩む。群衆もついてゆく。
その最中、イエスの足が止まる。何かが起こったのだ。誰かが触った、誰だ。恐ろしくなった女が怖ず怖ずと出てくる。12年間長血に患わされていた女が、イエスの衣に触れば治ると思って、触れたところ、直ちに出血が止まり、癒やされたのだ。咎められることを覚悟した女に対して、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と告げた。
そこへ、ヤイロの家の者が報告にくる。病気の娘が亡くなったという。もはやイエスを煩わせる必要はなくなった、と。しかしイエスは、そのままヤイロの家まで行き、子どもの手を取り、「タリタ、クム」と言う。すると死んだはずの少女が起き上がり、歩き出した。
この物語は、マタイ伝やルカ伝にも引き継がれている。つまり、キリストの教会は、この物語をずっと語り継いできたことになる。人々は、どう読み継がれてきたのか、という問題意識をもちながら、耳を傾けてゆくことになる。
そもそも福音書の物語は、基本的に殆どの人は、耳で聞いていた。文字が読める人が少ないと共に、文書自体も数少なかったはずだからだ。神の言葉は、元来「聞く」ものであった。このことは、文字の読める人が多い日本でも、明治以降でも、似たようなものだったはずだ。
マルコ伝の口癖である「そしてすぐに」について説教者は幾らか触れた後、友野富美子牧師のエピソードについて触れた。俳優や声優としての経歴をもつ牧師である。礼拝で奏楽を担当する人は、たとえ名手であったとしても、幾度か練習をして臨むことだろう。では、聖書を朗読する人はどうだろう。友野牧師は、「何度朗読(の練習を)してきましたか」と質問したのだという。幾度も朗読することにより、福音書のイエスがどのように語ったのか、知ることができるのではないか。
この「声」という問題については、山ア広子さんがいま、積極的に発言している。クリスチャンである。イエスの声も、どのようにして語られたのか、言及している。私も大いに教えられた。果たして湖に浮かんだ舟の上から、イエスの声は岸辺の群衆に対してどのように響いたのか、などというのである。
このヤイロに対して、イエスはどんな声で、どんな口調で、どんな感情をこめて、言葉を告げたのだろう。女に対しても、どうであろう。私たちは、自らこの言葉を口にすることで、こうだったのか、ああだったのかも、と想像してみるとよい。そこに唯一の解答はない。ただ、その想像の仕方によって、私たちもこの場面に、自分なりに参加することができるはずである。
イエスはヤイロの件に対して、何を語ったか。まず、不幸が知らされたとき、ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言った。それから、一見同情しているような、ヤイロの家に集まった人々に対して、「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と告げた。人々は嘲笑う。そこで子どもに対して「タリタ、クム」言ったことで、少女は息を吹き返したことになる。
イエスは女に対して、何を語ったか。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい」の一言である。説教者は、今日はこの言葉だけを噛みしめてよいだろう、と言った。
そう、ここのメインは、「あなたの信仰があなたを救った」である。そして、これはいろいろと誤解されてきた言葉ではないか、とも言った。しかし、誰がどのように読もうと、それが人を生かしたのであれば、それはそれでよい。ただ、この説教が何を伝えたか、それはひとつ明確にしておく必要がある。
一つ。この女の「信仰」とは何だったか。女は、癒やされたい一心で、イエスの衣に触れた。それはひとつの「信仰」であったかもしれない。しかし、求めたのは「癒やし」だけであった。そして、説教者が指摘したのは、この女の行為の中に、「祈り」がなかった、という点であった。
もう一つは、イエスが「癒やした」とは言わずに「救った」と言ったことである。イエスがしたことは、「癒やし」であったようにしか見えない。しかしイエスは、「救った」と明言したのだ。説教者は、イエスが、求められた癒やし以上のことをしたのだ、と解した。
さて、マルコ伝がこの二つの事件を重ねた背景には、何があるのだろう。12歳の少女と12年の長血の煩いという数字の一致は、わざわさ記した以上、何かあるのかもしれない。女は、血の汚れという意味で、差別的な待遇を受け続けていたものと思われる。その上で、ラビたるイエスの衣に触れたことで、イエスを汚してしまったのだ。女が「恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」たのも無理はない。
他方、このヤイロの身になってみれば、もう気が気でなかったはずである。急いで娘にイエスを会わせたい。もはや瀕死である。一秒でも早く、イエスを家に迎えなければならない。それが、イエスが急に立ち止まり、女と呑気に話をしている。これをヤイロは横で聞いているのだ。私だったら、苛々したに違いない。今はそっちのことなど、どうでもよいではありませんか、こちらが急を要するんですよ、こっちが優先ですよ。挙句、死んだという知らせが来たとき、天を仰いだのではないだろうか。イエスが「恐れることはない。ただ信じなさい」と言ったときも、何をどう思っていたのか、分からないのである。
説教者は、二つの事件を貫くひとつの糸を提示する。これらはいずれも、「死の物語」である、というのである。女はいま命を左右する病ではなかったが、「血」は旧約聖書以来、「命の在処」を表している。後にも、イエスの血を聖餐の杯で、永遠の命につながるものとして意識してゆくことになるではないか。
私たちは、死に対して、何をすることもできない。確かに医学は発展した。が、結局病気を治すのは、人間の体の自然治癒能力に依頼するのが基本であり、医学はそれを支援するものに過ぎない、という考え方もある。私たちはこの死に対して、見つめるのもイヤなのだ、と説教者は言った。ハイデッガーに言わせれば、本来的な存在に立ち帰ることのない、ただの「ひと」が皆そうであり、死を見つめようとしないで気晴らしの中を「頽落」しているのである。しかし、死を見つめ、そこからこだまのように跳ね返ってくる「時間」への問いを引き受ける生き方をすることで、人間は本来的な生き方を営むことができる、と説いた。まだ30代の、若きハイデッガーであった。
キリスト者にとっては、死は無関心時ではない。信仰したから死は怖くない、などという単純至極の公式はない。信仰しても死は怖い、というふうに決めつける必要もない。ただ、死を意識することは確かである。そしてそこに、イエス・キリストと自分との関係や、罪の問題を読み込むことも、間違いないであろう。
説教者はそのことを、「死を経験しつつ私たちは生きている」と表した。もちろん、死そのものを経験する、という表現はおかしい。だが、死を忌避して考えないようにしている、というのでない意味で、また、永遠の命という概念を軸に、神と罪と救いの三角形を死というものに映しだして理解しているのも、きっと確かであろう。
説教者が時折引用する、大江健三郎の言葉がここにまた現れた。『新しい人よ目ざめよ』の中で、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩が、開かれていた、という場面を紹介するのだ。その詩は、こういうものであった。
人間は労役しなければならず、悲しまねばならず、
そして習わねばならず、忘れねばならず、
そして帰ってゆかなければならぬ
そこからやって来た暗い谷へと、
労役をまた新しく始めるために
死を想うときに、ひとつ胸に打ち込まれた気がするのだ、と説教者はしみじみ語る。それは、アダムの創造というミケランジェロの天井画にもつながってゆく。説教者はそこに描かれたアダムの表情について、「暗い目をしたアダム」と称した。
アダムは創造された。だが、「死すべきもの」として創られた。そこに、どこか虚な、暗い目をする理由がある。もちろん、アダムに死が与えられたのは、エバを通じて禁じられた木の実を口にしたことに由来するのであるが、少なくともいまの私たちの感情を移入すると、この「暗い目」というのは、しっくりくるものであろう。
ところが近代、人間は勝手に自分の側で、神を殺したつもりになっている。神を殺したという認識は、説教者が言うには、将来を失った、ということに等しい。そうやって将来を見失った人間は、結局は暗い目をしたまま、なんとか取り繕うために、過去を栄光化するしかないのだ、と説教者は訴える。
私はその強い口調の中に、昨今の世界の有様を映し出す鏡のようなものを感じた。強いアメリカを夢見る、牽強附会の大統領は、過去の栄光の幻想に乗っかったアメリカ国民が選んだものである。自国優先という、ある意味で当たり前のことを述べながらも、その言葉の背後に強い差別と排斥を秘めた党を、日本人のかなりの者が支持した。ナチス党も非常に似た主張をし、経済を立て直すと約束したために、最初は同様に小さな党であったのが、やがて大多数を占めるようになり、他の党をすべて解散させるということを合法的に行ったのであった。
説教者は、積極的な反応や強い信仰、祈りの言葉を口にしたわけではないヤイロや長血の女についても、「暗い目」をしていた、と見てきたような言い方をする。だが、このイメージというものはとても大切なことなのだ。信仰告白もしていないし、祈りの言葉を遺してもしないこうした登場人物の中に、それでもイエスを家に連れて行ったり、夢中で手を伸ばしたりしたところに、説教者は何かを見出そうとしているように見えた。
プライバシーに関することは詳述しないが、説教者は最近、弱ってゆく父親のそばに佇む経験をした、という話を零した。そのとき、自らは祈りの言葉すら出てこなかった、と告白した。
この春のことだったが、説教者は説教中、写真家でジャーナリストの桃井和馬氏の著書『妻と最期の十日間』を紹介した。突然妻が倒れ、意識がないままに最期の十日間を共にしたことを描いた、クリスチャンの記録である。その中のひとつのシーンが紹介された。教会の牧師が見舞いに来たとき、大きな声で聖書を読み上げ、病室の外にまで聞こえるような大きな声で情熱的な祈りを献げた。そして意識はなくても耳は聞こえているのだから名前を呼んでやってくれ、と共に訪れた人々にも呼びかけたのだった。そのうちの一人は手かざしをして、エネルギーを送るとまで言った。著者はこれはもう「カルト宗教」だと幻滅し、憤りを覚えた。それに対して、カトリックの友人は、来るなり、わずかに目を閉じ、すぐ病室を出た。カトリックには、「無言の祈り」があるのだと後で知る。著者はそこに、感銘を受けると共に、優しさの中の凄みというものを感じたという。
病は、その当事者と、見守る者との間を大きく切り離す。だが、神と人との間をイエス・キリストがつないだように、何かつなぐものがあるのではないだろうか。私たちは、イエス・キリストにそれは何かと問うてよいであろう。つなぐもの、それはイエス・キリスト自身であるかもしれない。イエス・キリストがもたらす信仰であるかもしれない。それはまた、その見守る者によって異なるかもしれない。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(マルコ5:34)
説教者は、この「安心して行きなさい」は、英語に直すならば、「go into peace」であることを明かした。「平和へ」という動きと方向がそこに伴う。ダイナミックな動きがそこに感じられる。私たちも、平和へと進みたい。平和は、何もない穏やかな情景を意味するというよりも、西欧的には、何かしら戦いや作用を経て、勝ち取るような雰囲気すら含みもつものである、とよく言われる。逆に言えば、波のない湖のさざ波でも眺めながら、何事も起こらない平和な姿を神がもたらすものを待つのではなく、私たちもその平和へと積極的に動く、あるいは働くものである必要がある、というふうにも理解できる。
それは、福音書のイエスの声が、いまここにいる私たちへも響いてきている、ということをも意味するであろうし、私たちがそれに対して応答する、つまり責任をもつ、ということが必要であることをも伝えているように思われる。イエスが少女にかけた「タリタ・クム」の声でさえ、そうである。私たちは現代世界の中で、すでに死んでいるのかもしれない。説教者は、「世界が死の虜になっている」とも言った。しかしまた、「イエス・キリストが死の力をねじ伏せる」とも強く述べた。
この女が、その後どんな人生を送ったか、福音書は一切触れない。ただ想像するに、この日の経験を繰り返し思い起こしながら、自分が立ち上がり、歩けるようになったその一歩一歩に、イエスへの感謝を惜しまなかったのではないか、というようなことを話した。私たちもまた、そうである。イエスに出会い、イエスの声を聞いたあの日のことを、私たちは忘れることができない。そして、その日の救いの喜びを胸に、今日を確かに生きている。
福音書の出来事は、過去のお伽噺ではない。いまここに、イエスの声が響いてくる。私たちは確かに暗い目をしたアダムであった。だが、いまは違う。その闇を、イエスの声が打ち破る。死に勝利したイエスの言葉が、ここに命を注いでくれる。あとは、それを信じるだけだ。祈りも、自信満々の信仰も持ち合わせていない者にも、魂を縛り付けている病苦から解放する宣言が、もうここへ到達しているのだ。それをイエスは「信仰」と呼んでくれる。その「信仰」は、確かに私を「救った」のだ。この後行き着く先は、「平和」でしかないはずなのである。