【メッセージ】待ち伏せているもの
2025年7月27日

(創世記4:1-16, ルカ23:32-35)
主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」(創世記4:9)
◆失楽園
先週、創世記の「原罪」と呼ばれる場面から、神の言葉を共に受けました。人類の祖は究極的にはアダムだったかもしれませんが、アダムから創造されたエバと、二人して人類の始まり、と見なせるように見えました。まんまと蛇に騙されて、楽園を追い出されてしまいます。いえ、それは「騙された」と言えるのかどうか、二人の言い訳を、神は少し認めてような、認めていないような、微妙な裁きが降ったことになります。
キリスト教はこの事件に「原罪」を見ます。しかし、少なくともユダヤ教では、必ずしもそのようには捉えていないと見られています。
聖書の最初が創世記としますと、最初に「罪」という語が登場するのは、禁断の木の実を食べた第3章ではなくて、次の4章です。それほどにも人類史の最初から「罪」は表舞台に上がっていたことにもなります。今日はそこをお開きしました。
ともかくエデンの園を追い出されたアダムとエバの2人でしたが、それぞれ一生涯労役や苦しみを背負うこととなりました。最近よく「生きづらさ」というような言葉が飛び交いますが、ひとが生きるのが苦しいのは、当然だと聖書はとうの昔に告げています。そしてその謂れをはっきり描いているのでした。3章の中からその言葉をお読みします。
7:神は人に言われた。/「あなたは妻の声に聞き従い/取って食べてはいけないと/命じておいた木から食べた。/あなたのゆえに、土は呪われてしまった。/あなたは生涯にわたり/苦しんで食べ物を得ることになる。
18:土があなたのために生えさせるのは/茨とあざみである。/あなたはその野の草を食べる。
19:土から取られたあなたは土に帰るまで/額に汗して糧を得る。/あなたは塵だから、塵に帰る。」
20:人は妻をエバと名付けた。彼女がすべての生ける者の母となったからである。
21:神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた。
22:神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
23:神である主は、エデンの園から彼を追い出された。人がそこから取られた土を耕すためである。
24:神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。
17世紀後半、イングランドのミルトンが、壮大な叙事詩を記しました。『パラダイス・ロスト』、つまり『失楽園』と呼ばれるものです。創世記のこの場面をモチーフに、サタンという背景を巧みに想像して描いたものです。聖書そのものの理解に役立つものとは言えないと思いますが、芸術家の心をくすぐったのは確かでしょう。日本では、『失楽園』と言えば、渡辺淳一を思うか、黒木瞳と役所広司を思う人が一定数いるような気もします。
◆何故にカインは
1:さて、人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男の子を得た」と言った。
これが、楽園を出てからの2人の姿です。「知る」という言葉は、聖書を読むときに心得ておきたい言葉の一つです。それは、知識のことではありません。有名人を見たことがある、というようなものでもありません。非常に深く大きな交わりを経験することを言います。精神的にも実践的にも強い経験をもつことですが、切ろうとしても切れないような絆が生まれるほどに交わり、つながり合うことを意味します。男女の関係に於いては、性的な交わりを意味します。
それでエバは子を産みます。神は女については、次のように言い渡していました。
神は女に向かって言われた。/「私はあなたの身ごもりの苦しみを大いに増す。/あなたは苦しんで子を産むことになる。/あなたは夫を求め、夫はあなたを治める。」(創世記3:16)
いまもなお、女性はお腹を痛めて子を産むことが続いている、とも言えるでしょうか。エバとは命の源を思わせるような語であるそうですから、ここに人類の命の歴史が始まったことになります。エバは男の子をまず2人産みます。長男の名はカイン、次男をアベルといいました。
2人は成長すると、神に捧げ物をします。ところがどういうわけか、神は長男カインが献げた土地の実りには目を留めません。逆に弟アベルの羊の献げ物には目を留めたのだといいます。
何故神は、そのように差別をしたのでしょうか。これはユダヤ教の側でも問題になることだと思います。キリスト教でもそうですが、昔からいろいろな説明が施されていました。私もそのすべてを知るようなことはできません。カインは実はケチって、最上の献げ物ではなかったのだとか、ヘブライ書11:4にあるように、アベルの方が信仰があったとか、なんとか腑に落ちるような説明を、多くの人が求め、また発表してきました。
動物の犠牲は、その後の律法の要で、イエスもその犠牲の意味をもちながら磔刑に処せられたのですから、動物を献げたアベルの方が祝福された、というのは、キリスト教徒も納得しやすいかもしれません。でも、律法では穀物の献げ物も多々ありますから、決定打とはならないような気がします。
要するに、聖書の記述をなんとか納得できる説明によって片づけよう、とするところが一番の問題なのかもしれません。理解できないことには、何か分かりやすい説明が欲しい。それが人間の性でしょうか。神の思いは分からない、と片づけてしまうのがよいかとうかも分かりませんが、それが完全に分かるのは、この世では無理だとするのが順当ではないかと思います。
ただここで起こった現象を見るに、後から思うことではありますが、このことによりひとは罪を負うことになった、と言えるように見えます。人間の罪の歴史は、この2人の差別から生じることになった、と振り返ることができるのです。いかにも尤もらしい説明というものには、私たちは気をつけた方がよいのです。それは詐欺被害に遭わないための心得でもあります。聖書はただ、その現場に私を連れて行くだけです。私に何もかも悟らせようとしているのではないと思うのです。
それよりも、私の心の中に、「嫉妬」というものがあるとすれば、私は確かにカインの末裔です。有島武郎が『カインの末裔』という小説を遺しましたが、それはそのことを象徴的に描きます。キリスト者ならば、読む価値は大きいと思いますが、ただ聖書の理解に役立つかどうかは別問題でしょう。
◆罪
繰り返しますが、どうしてこんなことになったのか、気にはなりますが、私たちの思いつき以上の理由は出てこないだろうと思います。農業と狩猟の比較も、さして説得力がありません。人間は、自分が納得して安心したいがために、尤もらしい理由を探しますが、問題はその理由を知るところではないと思われます。
とにかく、カインはアベルを打ち殺しました。ただ、その前に、カインと神との決定的なやりとりがあります。
5:カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
6:主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7:もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」
このとき、まだカインはアベルを殺していません。ただ、自分の献げ物を、神が受け容れなかった、目にも留めなかった、ということで、カインは激しい怒りを抱き、顔を伏せた、というだけです。神はそのカインに向かって、正しいことをしていないではないか、という迫り方をします。正しいことをしていたら、顔を上げているはずだ、と言って。しかし顔を伏せているカインは、正しくないのです。そこで、「罪が戸口で待ち伏せている」と脅します。
ここです。ここで初めて、聖書に「罪」という言葉が登場するのです。
教会では、必ず「罪」という言葉が語られます。教会に誘われて行ってみたものの、壇上からしきりに「罪」「罪」と言われるから、自分が何か悪いことをしているように言われている気がして、不愉快な思いになった。そんな話が以前はよく聞かれたと言います。そう感じる人もいたことでしょう。しかしそれを言わないと、教会が伝えることはなくなってしまいます。「罪」のメッセージは、キリスト教会の礎です。
ところが昨今、教会から「罪」という言葉が急激に語られなくなっているように感じます。ほめて伸ばす、という教育方針のためでしょうか。打たれ弱い世代と言われる若い人たちの故でしょうか。いえ、それは若者たちばかりではありません。それどころか、会社で正当に叱ったとしたら、パワハラだと訴えられることすら正当視されるような世の中です。
教会はアダムもカインはもちろんのこと、「罪」に触れるならば必ず「赦し」コミで語るようになっていますし、その「罪」も、どこか他人事のような語り方になっていないか、よくよく考え直す必要があるだろうと思います。自分にはあまり関係がないが、他人は罪の中にいる。人間というものは罪があると言いながら、自分を問うことはしたくない。世間がそのようであるのは分かるのですが、教会というところまでが、そのようなことが日常になっていないか、よくよく考え直す必要があるだろうと思うのです。
鋭く「罪」を問う説教が、最近あったでしょうか。その説教によって、あなたの魂は貫かれたでしょうか。私はある例を知っているのですが、自身「罪」ということの意味を知らない者が、いつの間にかなんとなく神学校を出て、ぼっちゃん牧師としてのほほんと、他人事の聖書のお話を毎週繰り返している場合すら、現にあるのです。
信徒も信徒で、それに対して異を唱えることがありません。これは、教会の死を意味することになります。
◆どこにいるのか
8:カインが弟アベルに声をかけ、二人が野にいたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
ついに事が起こります。この事件の後、直ちに主とカインとの対話が行われます。まず主がカインに言葉をかけました。筋道はこうです。「あなたの弟アベルはどこにいるのか」「知りません」「何ということをしたのか」――なんとも奇妙な流れです。
神はすべてをご存じであるとするなら、「アベルはどこにいるのか」と問う必要はありません。その上で問うたのですから、これはカインの自覚を試しているようなものでしょう。先週、アダムに対しても神は、「どこにいるのか」と問いました。これも、行方が分からず探していたというよりも、アダムへの呼びかけにどう応えるのかを試したように思われます。
しかし今回の「どこにいるのか」は、さらに手厳しいようにも見えます。お前が殺っただろう、と尋問する検察官のような迫り方のようです。それはカインへの問いかけであると共に、「あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」と、証拠も突きつけているわけで、カインにはどうにも追及に対する逃げ場がありません。
アダムに対する問いかけは、「自分の居場所」を自覚させるためであったようにも思われます。私の好きな、預言者エリヤへの主の問いかけも少しだけ参考にしてみます。バアルなどの預言者を退治して、最高の活躍を示した直後、エリヤはイゼベルから命を狙われていると聞いて荒れ野をさすらいます。主は、洞穴のエリヤに「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」(列王記上19:9)と言います。穴から外へ出るように促し、「主の前に立ちなさい」(19:11)と言います。エリヤは主を見出すことができないでいます。そこで主は再び「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」(19:13)と問います。こうして、主からエリヤへの最後の使命を言い渡すのです。
アダムもエリヤも、主はそれなりにその後に大切な役割を与えるために、問いかけたのでした。しかしカインに対してはどうだつたでしょうか。カインの身を守る約束をこの後告げますが、もはやカインには大した役割も使命も残されていませんでした。
主が「アベルはどこにいるのか」と訊いたのに対して、カインは「知りません」と応えています。アダムのように、自分の居場所が分からないというだけでなく、カインに至っては、自分が手を下した相手がどこにいるのかさえ分からないなどと応えています。もちろんありえないことです。
でも、ふと気づかされます。私は毎日、自分が手を下している相手がどこにいるのか、ということを全く意識しないでいる現代人の姿に遭遇していたのです。
◆被害者を知らない加害者
夜の電車のホーム。ゆうに一車両分離れた場所にも響き渡る大きな声で、ずっと喋り続けれる人たち。学生かと思いきや、いい歳をした大人たちです。それとはまた別に、電車の中でも、傍若無人で喋り続ける人たちがいます。よくぞ自分たちの話を、しょうもないことではあるけれど、車内の他人に全部聞かせて恥ずかしくないものだ、とも思いますが、中には酔っ払ってそうなっている人がいるかもしれません。この社会では酔っ払いは、車の運転以外何をしてもよいのです。
いえ、たいていの場合、酔ってなどいないように見えます。若者もそうですが、これまた大人の場合が多いかもしれません。電車の中は、閉鎖的空間です。20分なり30分なり、同じ空間に閉じ込められることになるわけですから、避けようがなくなります。
喋る自由がある、と開き直るかもしれませんが、夜は疲れて静かにしていたい人も当然たくさんいるでしょう。私などは、本も読めないし、何かを考えることもできなくなります。
端的に言って、それは「暴力」です。
問題は、その話を他人に強制的に聞かせる当人たちが、そのことに気づいていない、ということです。自分が他人に、絶えられない苦痛を数十分にわたって与え差続けている、などとは、全く考えもしていないことです。私が耳に指を突っ込んで堪えながら本を読んでいても、それも目に留まりません。ちらりと見ても、それで声を小さくした、などという実例は皆無です。
自分が他人に「暴力」を揮っている、という意識がありません。自分が痛めつけている相手が「どこにいるのか」、知らない人間が、身近に普通にいることになります。
この場合、私は暴力の被害者ですが、他方、私もまた、誰かを同じように傷つけているかもしれないことを考えます。何気ない言動でも、それを暴力だとして受け止めている人が、いるかもしれません。いまこうして語る言葉もまた、誰かを苦しめている可能性があります。正に自分が加害者であるのに、被害者が「どこにいるのか」、気づいていないし、たいていは、気づこうともしていないのです。
◆呪いとしるし
10:主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。
11:今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。
12:あなたが土を耕しても、その土地にはもはや実を結ぶ力がない。あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」
神は、カインのしたことを知っています。そこで、一つの裁きを言い渡します。「今やあなたは呪われている」と言いました。これは、誰に呪われているというのでしょうか。神からでしょうか。アベルからでしょうか。「土よりもなお呪われている」というからには、土から呪われているというのではないでしょう。
「あなたが土を耕しても」土は実を結ばない。アダムの故に「土は呪われてしまった」(3:17)とすでに言われていました。これと対応しているように見えますから、アダムの事件がもし「原罪」と呼べるものであるとしても、少なくともはっきりと「罪」という語を持ちかけたのは、カインに対してだったわけです。
「あなたは地上をさまよい、さすらう者となる」とは、その土に相手にされないからなのでしょうか。今度はその場所に目を移します。「エデンの東」にケルビムと剣の炎を置いて、命の木に至る道を防いだ(3:24)、と聖書は語りますが、「この土地」とはどこのことなのでしょうか。はっきりとそれは示されていないようです。
カインを「この土地から追放」した神の故に、カインはさすらう者となることを受け容れざるを得ませんでした。但し、カインは、自分が殺されることだけは恐れています。主にその点を訴えると、神はカインに「しるし」を付けました。それにより、カインを打ち殺す者はない、とするのです。
ともかくカインは守られたのでした。でも、守られてよかったね、では済まされません。そもそも、そんな罪を犯した者が死刑にならないのはおかしい、と不満な人もいると思います。その人は、自分は死刑にならない、という前提でものを考えているに違いありません。
私たち自身のことを考えてみましょう。私たちは、罪の中にあるのですが、こうしていま生かされているではありませんか。罪ある者が生きている、ということの実証のために、このカインが描かれていると見た方が、正解に近いのではないでしょうか。
ところが、アベルは「どこにいるのか」と問い、父アダムに対しては「(あなたは)どこにいるのか」と問うた神でしたが、そもそもその「どこ」かが、分かっていないのです。だから、カインは「さすらう」のかもしません。場所に関する情報は、「カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」ということくらいしか見当たりません。しかしその「ノド」とは「さすらい」の意味をもつ言葉だといいますから、結局カインは、主の前に立つことができなくなった、ということを聖書は告げようとしているのかもしれません。
◆イエスの声を聴く
どこにいるのかも分からないし、自分がしていることの正体にも気づかない。ここで私には、イエスのあの十字架の上での言葉が迫ってきます。ルカ伝だけに記録された記事です。神学者たちには大変評判の悪いところで、最初の福音書が成立したときにはなかったに違いない、として、聖書から除外しようとする人もいます。
が、改訂版に意味がない、という決めつけもどうかと思います。実際、ここが聖書本文から削られないのは、きっと多くの人が、この言葉には力がある、と感じているからなのでしょう。
イエスと共に、他に二人の犯罪人が十字架につけられました。民衆は、議員や祭司たち
が、イエスに罵声を浴びせます。非難し、嘲笑います。そのとき、イエスが口を開きます。
34:「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」
これを見て、ユダヤ人たちは馬鹿ではないか、と思う人がいるかもしれません。救い主を馬鹿にし、何も知らないのに権力の太鼓持ちになっているなど、ちょっと考えたらどちらが正しいか分かりそうなものを、無知と思い込みは怖いものだ、などと高みの見物を決め込んでいるような人がいるかもしれません。
しかし、キリスト者は知っています。あれは自分の姿である、と。「十字架につけろ」とヒステリックに叫び続けているのは、正に私のことだ、と痛切に感じなければ、嘘でしょう。キリスト教会で、ちゃんとした信者のような顔をしておきながら、そのように感じないとすれば、それはもう偽り者です。聖書を語る立場にいながらそうであれば、間違いなく偽預言者です。
神は、「正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない」と、怒りのカインに向けて告げました。これ最後に、カインは殺人を実行してしまうのでした。果たしてカインは、罪を治めることができたのでしょうか。罪に追いかけられると、カインはあっけなく追いつかれてしまったのではないでしょうか。
戸口で待ち伏せていたのは、確かに「罪」でした。罪によって、私たちは、自分が神の前に立っていることに気づくことがありませんでした。罪によって、私たちは、自分が傷つけている人がどこにいるのかにも気づきませんでした。私たちもまた、カインと同じであるか、あるいはカイン以下であるかもしれません。戸口の外に待つ「罪」が迫っています。その戸口を私たちがうっかり開けてしまい、「罪」が私の部屋の中に、つまり私の心の中に入り込んで私を包みこんだとしても、私たちはそのことにさえも気づかないでいるかもしれません。結局私たちは、「罪」にいいように操られてしまうことになるのでしょう。
「罪」が待ち伏せていることにすら、気づかないでいる。そのことに気づかせてくれるのは、十字架の上のイエスの祈りです。罪を正面から捉えながら、赦しに満ちた祈りです。ご自身の痛みと共に、そしてご自身の命を献げるときのイエスの祈りの声が、この私のためのものだと魂を刺し貫き、この胸いっぱいに響くとき、私は自分の「罪」を知り、そこから救い出される道を歩み始めることができるのです。
そのとき、待ち伏せているものは、もはや「罪」ではなくなっていることでしょう。