共通理解をつくるために
2025年7月23日

Eテレの名物番組と呼んでもよいであろう。「100分de名著」は、この7月に、フッサールという課題に挑んでいる。西研氏が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読み解いているのだ。
第三回の放送では、いよいよその核心たる「現象学的還元」が明らかにされた。哲学の学生相手に説くのではなく、番組の進行役である伊集院光氏に届くような言葉が選ばれているように思ったが、もちろんそれは、番組視聴者やテキストの読者に届く、ということが第一であることなのだろう。
「いっさいの対照を意識主幹のなかで思い描かれたもの(ノエマ)とみなす姿勢」のことだ、とテキストは「現象学的還元」を伝えている。「主観という現象の場に立ち戻って(還元して)考えるという姿勢」だとも述べている。
フッサールは元々数学の徒であった。私は遠く及ばないながらも、数学が好きだった。否、フッサールもそうだったと思うが、数学の真理が世界を究明する、と考えて数学というものを見つめていた。しかし私もそうだが、フッサールは、そういう見方が世界を狂わせている、と気づいた。そこに、「ヨーロッパ諸学の危機」という言葉の動機があるような気がしてならない。
それに対して、独自に挑んできたのが、現象学であった。フッサールの語ることは時期により変遷を遂げるが、後世に与えた影響は数知れない。カントの用いた「超越論的」という言葉を、カントの置かれた近代の枠組みを超えて、現代的な世界の中で用いるように努めたのであろうと見なしてよいだろうと思う。
全四回ある番組のうちの第三回では、伊集院光氏が、これはいま読む必要のある本だ、と気づくような形で閉じられた。それは、テキストのタイトルに掲げられた、「共通理解」をつくろうという点が、最後のほうで示されたからであった。
このような現象学の発想は、「多様な他者たちと共生するさいの「作法」にもつながる、と私は考えます」とテキストで西研氏は述べている。そして、「宗教」の例をわかりやすいものとして挙げていて、次のように記している。
神の存在は、ある人にとっては「いつも自分を見守ってくれている大事な存在」かもしれませんが、それは他の人たちと共有しうる条件をもちません。現象学は、神の存在を虚偽とするのではなく、共有条件を原理的にもちえない信念とみなします。だから当人はもちろんそれを信じてよいのですが、他者に強要することはできません。(p99)
番組では、無神論者と自称する伊集院光氏がこれを理解し、たとえば大切な「祠(ほこら)」が計画道路の場所にあったら、それを避けて道路をつくる、ということがあってよいのではないか、と語っていた。「神の存在」は、通常の日本人的思考にかかれば「祠」となるのだ、というところが少し面白かった。伊集院氏はさらに、信念すら許さず、場合によっては逆らえば殺す、というようなことはしてはならない、と戒める発言をしていた。これは、極めて陥りやすい罠であると思う。決して他人事ではない。
宗教ばかりでなく、政治の中でも、そのようなことは幾らでも行われてきた。時には宗教の名を借りて、そうしたことをしてきたのだ。また逆に、宗教の側が、政治を利用して、己が宗教を圧力によって広めてきた歴史も実際にある。聖書は果たして、どういうスタンスで記されているだろうか。私たちはどういうスタンスで、それを読み取っているだろうか。
こうした痛みを覚えることで、幾らかでも、私たちの未来は、よい方への曲がり角を進むことができることを期待したい。さて、先日の「選挙」に於いては、どうだっただろうか。憲法すら思い通りに変えて、フッサールの思い描く「共通理解」とは逆方向に突き進むような道を、投票者は選んでしまっていないだろうか。