あなたのもの
2025年7月21日

さる企業人が、志をもって海外との取引に関わったが、買い叩きのような日々に心が落ち着かなかった。教会の門を叩いた。教会で――その人は、自分を取り戻すことができたのだった。それは「正気を取り戻した」ということであった。
このような語りだしから、マルコによる福音書5章(1-20節)の、ゲラサ人の地方での出来事の説教が始まった。そこには、「正気を取り戻した」男の物語があった。
このとき、教会の礼拝が何をもたらすか、を宣言した。「正気を取り戻すため」であるという。そして、さりげなく言い換える。「イエス・キリストに、おまえは私のものだ、と言ってもらえるため」であるのだ、と。思えば、これは論旨を外れている。これら二つの目的は、すんなりとつながるものではない。
もっと引っかかりをもっているべきだった。だが、説教者は要するに、このメッセージによって、この二つをつなごうとしていたのだ、ということを、後から知ることになる。
ここに「墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった」男がいた。「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかった」と、確かに正気の沙汰ではない有様をマルコは描写し、さらに「彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた」と、その異常さを明らかにする。
これを、読者は自然に、他人事として聞いてしまいそうである。だが、同じ箇所について加藤常昭先生の説教でも、同様の強調があった。「好奇心で読んでも聖書は答えない」というのであり、続いて「野次馬」のことを述べていた。
「野次馬はなぜ好んで集まるのか。自分は関係がないからです。だから面白がるのです。そしてそこで興味を持つのは、異常な人間に対してです。こちらは正常なのです。異常な人間がそこにいるということは、われわれはまともだということを自覚させてくれるような、そういう意味ではありがたい存在だということにさえなりかねない。自分は安全圏にいるのです。」(『加藤常昭説教全集10』p384)
聖書が他人の物語である、と読む人も当然いる。だが、信仰者は決してそうは読まない。それは自分のことだ、と読む。自分が聖書の中に登場している、と読む。そして聖書の中のイエスに出会う。
説教者は、この狂った男の中に自分を見る。それは自分だと見る。自分の体験談をも話してくれたが、それは殆ど私の体験であるかのようだった。
ただ、この墓場の男の中に、「生きた人間が怖いから墓場に住んでいたのではないか」という問いを投げかけた点は、私は感じていなかった。他人と関わりたくない。他人とコミュニケーションがしたくない。傷つくのが怖い。傷つけるのも怖い。だから、この墓場に行ってしまったのは、誰かに強要されてではなく、自分から選ぶようにして行ったのではないか、という推測もそこにあった。自らそこを、「住みかとして」いたからである。
しかし男は、夜も昼も叫び続け、自分の身体を傷つけていた。これは異常なことだろうか。これらは、誰かを対象にやっていることではない。孤独な中で、自分の中にあるもやもやとしたものを表に出しているだけなのだろうと推測する。私にもある。少なからぬ人には、思い当たることがあるのではないだろうか。独りでいるときだが、頭の中に何かが渦巻き、大きくなろうとするとき、思わず何かの反応を声に出すということが。爪を噛んだり、足の裏の皮を剥いたりする癖はないだろうか。かさぶたを剥がすようなことも、これに含めてよいと思うし、リストカットという形になる場合もあるだろう。
人は、そういう者を監視しようとする。拘束する。「度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかった」のだという。だが、イエスが彼に会いに行ったとはここには書かれていない。男の方が、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」たのだ。
イエスは、「汚れた霊、この人から出て行け」と、これに先立って男に向かって言っていたらしい。すると男は大声で叫ぶ。「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。ここは面白い表現が使われている、と説教者が言う。「あなたはあなた、私は私」というような表現だというのである。ギリシア語では、自分についてのこと・あなたについてのこと、というように、自分と相手とを別々に見なすような言葉が無造作に並べられている。そういう言い方があったのだろう。
男は孤独すぎて、関わろうとはしないのだ。イエスと出会おうとしないのだ。独りで悶々としていた者の、内にこもった怨念のようなものさえ感じる。こうした心理現象は、いまの世の中にも大いにあるものだと私は感じる。
しかしイエスの目から見れば、これは確かに「汚れた霊」である。この物語に、「汚れた霊に取りつかれた人」というのは、読者への説明であって、最初から明白であったわけではない。ここでイエスは、この「汚れた霊」に「名」を問う。「名」は、その存在者の本質である。神は「御名」に力があるし、古来多くの物語で、「真の名」を問題とするものも多い。
男は「名はレギオン。我々は大勢だから」と答える。男の狂気の正体は、その男そのものにあるのではなくて、この「レギオン」によるものであった。ローマの軍団を表す語であるのだそうだが、何故そういう名だというのか。いろいろ推測はできるだろう。ローマ帝国を悪の権化のように見る考え方があったのは、黙示録を見れば明らかである。だから、ローマよりもイエスの力の方が上であることがここで示されている、という捉え方もできるだろう。
わざわざこの男は、「いと高き神の子イエス」とイエスに向けてまず言ったように書かれている。しかも、イエスが「出て行け」と言ったことに応えてのこの言葉を、順序を不自然に替えてまで、最初に「神の子」とぶつけている。強調である。「神の子」は、ローマ皇帝、特にアウグストゥスの称号であった。カエサルが神格化されたため、養子のアウグスティヌスはその子、つまり「神の子」なのである。
しかし、別の角度から、「汚れた霊」なるものが、非常に多いものであることを意味している、というふうに捉える人もいる。大きな軍団を意味するものだから、この世には、こうした「汚れた霊」が無数にあり、活動している、というのである。確かにそうかもしれない。
もはや話しているのは、男ではない。男をそのように追いつめている正体、「汚れた霊」である。イエスにその本体を見破られ、イエスに懇願する。「自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願った」という。そして、この「汚れた霊」どもの方が自ら、イエスに案を提示するのだ。「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と。
こうして霊どもは、イエスの許可に伴い、男から出て、豚の中に入る。豚たちは崖から湖になだれ込んで、溺死した。これが何を意味しているのか、説教者はその謎解きには走らない。私たちがいま聞かなければならないことは何か、それを告げるのが、神の言葉を取り次ぐ者の使命である。説教者は断言する。
私たちの中に、このような「汚れた霊」あるいは「悪霊」とさえ呼んでよいようなものが、棲んでいる。
まさか、そんな。私たちは認めたくないと思う。耳を塞ぐことだろう。だが、それこそが、悪霊が潜んでいることの証拠であるのかもしれない。説教者は、どうして「棲んでいる」と強く語ったのか。それは、「悪霊などという言葉を使う人は、それを専ら相手に対してのみ、つまり相手が悪霊に取り憑かれている、などというように使うのであって、自分は神の側、正義の立場にあると前提して信じ切っている」からである。
それは「教会」という存在も同じである。「この世は悪霊に支配されている。教会はその悪霊と闘うのである」と、当たり前のように考えている教会が、指導者が、少なからずいるのである。それは世人のことなのか。いやいや、自身がそうなのではないのか。今も、無数の軍団のような「汚れた霊」が、人を――教会や教会にいる人々を例外とせず――、取りついているということを頭に置く必要が、あるのではないか。
まるで、私が喋っているのではないか、とさえ錯覚した。どれほど、おかしくなった「教会」や「牧師」を見てきたことだろう。しかもそのおかしさに気づくこともなく、気づこうともしないで、自分たちは「正しい信仰だ」という前提で、自分たちに従わない人々を見下したり、評価したりしていることか。
説教者は、ローマ書7章を取り上げ、パウロが自分の中に見出す惨めさというものが、逆に健全であるということを知らせようとした。さらに、常々説教者が説き明かしてきたことだが、と前置きして、「悪霊」は「この世の霊」であるというならば、それは「時代精神」と呼び換えて考えたいものでもある、と強く言った。
そう、この礼拝説教が語られたのは、参議院選挙投票日。選挙運動がネットでもできるようになり、大きな影響を世に、特にネットへの信頼を厚くする若い世代に、与えている。説教者は、「時代がどうしてこうなったのか」と問う。「私たちも乗っ取られそうになっているではないか」と指摘する。
そこにあるのは、「自分は正しい」の連呼である。そして、平生は押し隠している、人々の「自己愛」を呼び覚まそうとする「時代精神」である。――俺たちは被害者ではないか。自分を大切にすべきではないか。本当の自己を実現しようではないか。
だが、イエスはそういう「時代精神」に対して、最初に「この人から出て行け」と命じた。イエスの力で悪霊を滅ぼし尽くすようなことはしなかった。豚は死んだが、悪霊が死んだとは記されていない。悪霊が出て行った男は、「正気」になった。この「正気」とは、自分の罪を自覚したという意味でもあるだろう。そのとき、「正気」の男は、こう考えるだろう。――俺は加害者だった。俺は神を大切にすべきなのだ。イエスに従うことが、本当の自己実現なのだ。
この男は、イエスのお供をしたい、と申し出た。しかしこの男にとり、「イエスに従う」ということは、別の道であることをイエスは知っていた。「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」と命じたのだ。男は、このイエスの言葉に従った。それは確かに、「イエスに従った」ひとつの適切な姿であった。
「時代精神」はまた、自分の考えの正しさを「時代」のせいにすることもある。だが、そうしたものに「あなた自身」を奪われてはならない。悪霊の棲む者たちに「あなた自身」を支配させてはならない。「あなた自身」が「あなた自身」の主人であるのでもない。説教者は、イエスが「あなたは私のものだ」と声をかけている、と最後に告げた。
それは、「本当の自分」はどこにある、と自分探しをしているような人にも、呼びかけられている言葉である。「自分の居場所」はどこなのだ、と暗闇の中で探しているような人にも、イエスは声をかけている。「ここに来るのだ」と、釘打たれた痕のままの掌を向けて、「あなたは私のものだ」と呼んでいる。あとは、その人が一歩を踏み出せばよいだけ、となっている。
イエスと出会い、イエスを信じる者として、私は応答しよう。「私はあなたのもの」だと。そして、イエスが私にしてくださったこと、私を憐れんでくださったことを、悉く知らせたいと願っている。