【メッセージ】どこにいるのか

2025年7月20日

(創世記3:1-21, テモテ二2:15)

神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」(創世記3:9)
 
◆蛇
 
「創世記」は面白いと思います。「そんなことがあるもんか」とツッコミどころもありますが、物語として読むとしても、十分味わいがあると思うのです。聖書を読もうとする人が、もしも創世記を読まないとすれば、きっと損になるでしょう。
 
まず、天地創造から始まります。日付が定められていますが、地球の存在さえ怪しいのに、「一日」というのが何を意味するのか、問う人がいるかもしれませんね。よいのです、そのような四角四面な読み方が相応しいとはとても考えられませんから。人が創造されるあたりは、「アダム」が固有名詞なのか「人」一般であるのかなど、考えてみるべき価値がありましょう。そこから「女」が創造された、というのも捨て置けない話題です。が、今日は早くも3章からお開きしました。
 
1:神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。
 
「蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい」(マタイ10:16)とイエスが言った言葉を思い起こします。蛇は賢い動物の代表なのでしょう。現にここで、蛇は女に話しかけます。人語を解するのです。尤も、その「言葉」とはどういうものであったか、考えると不思議ではありますけれども。
 
旧約聖書では、ろばが言葉を話す場面があります。詳しく紹介はしませんが、民数記にこういう場面があるのです。
 
雌ろばはバラムに、「私は、あなたが今日までずっと乗ってこられた、あなたの雌ろばではありませんか。私が今までこのようなことをしたことがありますか」と言い、彼は「いや、なかった」と言った。(民数記22:30)
 
さて、この創世記では、蛇は登場するとすぐに女に話しかけています。
 
1:蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」
 
「どの木からも」と神は言ってはいませんでした。とりあえず、否定の答えを呼び出す、巧妙な問いです。巧い詐欺師です。女はまんまと引っかかります。蛇は女をうまく巻き込みました。
 
ところで、どうして蛇はこんなことをしたのでしょう。何のために蛇は、こう言って人を罪へと陥れたのでしょうか。
 
蛇は悪魔、サタンだ、と解する人がいます。そうかもしれません。すると蛇は、人を神から遠ざけようとしたのだ、と理解できます。先の場面の少し前に、蛇に関する不思議な記事があります。エジプトを出た民が、モーセに不平を言ったときのことです。
 
主は民に対して炎の蛇を送られた。これらの蛇は民をかみ、イスラエルの民のうち、多くの者が死んだ。(民数記21:5)
 
モーセは青銅の蛇を造り、竿の先に掛けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生き延びた。(民数記21:9)
 
なお、国連のWHO世界保健機関のロゴには、「蛇のついた杖」のデザインが用いられています。モーセの杖かしら、とも思えますが、そうではありません。「古代ギリシャで癒しの神として崇敬され、祭式に蛇を使用したアスクレピオスの物語」に基づくのだそうです。「蛇が巻き付いた杖」を用いて人を癒やしたのだそうです。
 
◆善悪
 
蛇は「どの木からも」と言いました。問いの中に罠を仕掛けていました。確かに神は、食べてはいけない木については告げました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない」(2:16-17)と言ったのです。女は、そのときにはまだ創造されていませんでしたが、アダムから聞いたのでしょう。それで、「触れてもいけない」と、余計なことまで口にしてしまいました。神は、それを食べれば死ぬことは告げましたが、触ることには直接言及していません。女の、どこか潔癖な姿勢が、逆に彼女を大きく動かすことになります。
 
4:蛇は女に言った。「いや、決して死ぬことはない。
5:それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」
 
蛇は、神の言ったことを否定します。死ぬことはないのだ、と。カルト宗教は、しばしば強い口調で、常識を否定しにかかります。「いや、実はそうではないのです」と、こちらの常識の足場を揺らしにかかります。固く信じていたことであっても、その根拠を理解していないときには、逆にたちまち揺らいで崩されてしまう、ということがあるのです。いまでも「陰謀論」が、人々の考え方をがらりと塗りかえることがあるのもそのためです。
 
しかし、神は嘘を言っていたのでしょうか。現にこの後、2人はこの木の実を食べますが、死ぬことはありませんでした。そして、実際蛇が話したように、「善悪を知る者」となってしまった歴史があろうかと思います。蛇の言ったとおりになったのです。
 
ならば、蛇は益々、何のために人にこの木の実を食べさせようとしたのでしょうか。人間に、「善悪を知る者」になってほしかったということなのでしょうか。ではそれは何のためなのでしょうか。蛇がサタンであるのなら、サタンにとり、何の分があるのでしょうか。
 
神に逆らうから? 神から引き離すために? しかし神はそう簡単に人を神から引き離してしまうとは思えません。実際、神は人を「赦す」という歴史をこの後刻みます。
 
また、「善悪を知る者」には「神のように」という形容が付いています。本当に「神のように」なるのでしょうか。あるいは、善悪を知るのは、神だけだ、ということになるのでしょうか。けれどもここを見る限り、サタンあるいは蛇も、善悪を知っているのではないかと思われます。善悪を知っているからこそ、それを食べることへと誘うことができたのではありますまいか。
 
そもそも「善悪」とは何を謂うのでしょうか。私たちは、疑問に溺れそうになります。
 
◆アダムはどこにいたのか
 
女は、蛇にすっかり乗せられてしまいました。愚かだと突き放して見ないで戴きたいものです。私たちの世の中に多くの詐欺がある限り、この記事くらいのことは、幾らでも起こっているのです。他人を信用しなければ成り立たないこの社会で、その信頼を逆手にとって騙す者もまた、必ずそこに含まれています。ある意味で、本音を晒さず笑顔で騙す、というのが、すべての職業の姿であるのかもしれません。牧師は果たして、説教で語るその笑顔通りの本音で生きているのでしょうか。
 
6:女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた。
 
女はその気になってしまいます。すると、この事件は、女が自主的に食べた、ということでもあります。高価な壺も自分の意志で購入したのだし、土地を寄進したのも、自分の信仰で献げたということです。そのように主張する宗教団体が現にあることに、思いを馳せます。
 
ところで、いまの節に、ものすごく不思議な言い回しがあったことに、気づいたでしょうか。「一緒にいた夫にも与えた。そこで彼も食べた」のです。もちろん、先ほどの蛇との会話からは時間が経っていたという可能性もあります。しかし、この後神は蛇に対して処罰を下すわけですから、蛇もその場を離れてはいない模様です。詐欺はその場で成り立たせるのが原則ですから、やはり時間を置いた、というふうには思えません。
 
ならば、夫、つまりアダムのことですが、アダムはたしかに「一緒にいた」ことになります。2人がたんに関係的に一緒であった、という意味に受け取ったとしても、この話の流れでは、やはりアダムはそこにいたようにしか見えません。
 
アダムは、蛇と女との先ほどのやりとりを、聞いていたのかもしれません。聞こえていたのかもしれません。描かれ方は、そのようになっています。もしそうだとすれば、ここの解釈は大いに変わってくる可能性があります。蛇の持ちかけ方を聞き知っていたのに、女の行動に、彼も乗ってしまったことになるからです。
 
直後に、アダムは神から厳しい処罰を受けます。ただ女から渡されたのを素直に食べただけ、という言い訳など認めません。むしろ人間全般への罰であるかのように、「死」という重大な運命を与えられてしまい、かつ無駄とも言えるような労苦を強いられるということにもなります。アダムの責任はひどく重いような判決です。が、それも当然のことだ、と言えるようにも思えてくるのです。
 
◆どこにいるのか
 
7:すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。
 
物語は簡潔に、しかし急速に展開します。「善悪を知る者」になる、という蛇の指摘そのままに、「目が開かれ」ました。それは、「自分たちが裸であることを知った」ということであるように描かれています。そこで、恥部を意識し、それを隠すという行動に出ます。人間らしいには違いないのですが、子どもが恥ずかしげも無く裸で走り回ることを思うと、人間の成長の変化を重ねて見るような思いもします。確かに、「善悪を知る」ということと、その成長とは並行していると言えるかもしれません。
 
8:その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。
 
隠したのは、恥部ばかりではありません。神の気配を覚ると、神の前から自分の存在を隠してしまったのです。これもまた、「善悪を知る者」となった故だ、という説明ができるかもしれません。神の前に、出られなくなってしまったのです。
 
9:神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」
 
「声をかけて言われた」とは少々もったいぶった訳のようですが、感覚的には「call」というところでしょう。呼びかけたのです。呼びかけて、ここから対話をもちかけるのです。神は、2人を探していた、とは言いにくいだろうと思います。いる場所は分かっているけれども、呼びかけた。その呼びかけに応じるかどうか、それは人間の側の態度です。そのことは、私たちもまた自分のこととして受け止めるべきことでしょう。神は呼びかけています。それに応えるかどうか、そこが肝腎です。
 
アダムが、木の陰から神の前に出た、という記述はありません。普通そのように想像しますが、もしかすると木の陰にいるままに、神に返答したのかもしれません。神の前に立ち仰せたのか、そこは読む人の感じ方次第だとも言えます。
 
後に、神は親しく語った者に対して、神の前に立つように、と指示することがあります。たとえばモーセですが、金の子牛事件の後に、再びイスラエルの民がひとつになろうとするときのことです。モーセは、改めて出発するために、主に呼ばれます。
 
主は言われた。「私の傍らに一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい。私の栄光が通るとき、あなたを岩の裂け目に入れて、私が通り過ぎるまで、私の手であなたの上を覆う。私が手を離すと、あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない。」(出エジプト記33:21-23)
 
岩の上に立つモーセ。パウロはコリント一10:4で、出エジプトの民に水を出した岩のことを、「皆、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに付いて来た霊の岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と説明しています。
 
それから、主の前に立つ場面としては、私は預言者エリヤを思い起こさずにはおられません。華々しく異教の預言者を滅ぼした直後、イゼベルに命を狙われると、エリヤはすっかり意気消沈して、身を隠してしまいます。そこへ主が呼びかけます。
 
主は言われた。「出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。」主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後に地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった。地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。それを聞くとエリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。すると声があった。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか。」(列王記上19:11-13)
 
私がとても好きな場面です。「かすかにささやく声」で、神が呼びかけたというのです。エリヤは怖ず怖ずと出て来ます。そして、なんとか主の前に立つのです。このときは、「どこにいるのか」ではなく、「ここで何をしているのか」という問いでしたが、似たような問いかけだとみることができるでしょう。ひとは、自己存在を問われます。自ら哲学的に問うこともありますが、このように神から問われる、他者から問われる、という経験をも、もつことがあるでしょう。ただの自問自答ではありません。
 
◆わたしはどこにいるのか
 
口語訳聖書では、アダムへの神の問いかけは、主語を明らかにする形で訳されていました。「あなたはどこにいるのか。」
 
私は、この言葉により、完全に方向転換をすることとなりました。決定的な言葉として、私の人生を変えました。世界の矛盾や問題を、西欧思想のせいだと断定して、それを打ち破ろうとして、西洋哲学を学び始めた私でした。しかし、勉強はしても何をどうすればよいか分からず、行き詰まっていたところ、自分は西欧思想と対決するとはいっても、聖書ひとつ読んだことがないことに思い当たりました。それは、友人が勧めてくれた三浦綾子さんの小説を読んで、聖書の言葉がさりげなく登場する場面から、聖書を読まねばならない、と気づかされたのです。
 
それで聖書をとりあえず読んでみようとしました。高校のときの同級生がもちかけて生徒に配った、国際ギデオン協会の新約聖書でした。彼女はカトリックの信徒だった、と後で知ります。福岡から京都に、なぜか持って来ていたその新約聖書を読み始めましたが、コリント一13章で打ちのめされました。自分には愛がある、と思い込んでいたのに、愛などひとつもないのだ、と思い知らされたのです。
 
そこで、旧約聖書の初めから読み始めたとき、今度はこの創世記3章で、神に呼ばれました。「あなたはどこにいるのか」と。
 
自分への呼びかけの声でした。愛がないということに気づかされたのみならず、そんな私が神に呼ばれたのです。もちろん、それは惨めな自分の姿のままでした。脳天を殴られ、地面にへしゃげた状態とされ、さらに胸ぐらを捕まえられ、引きずり出されたのです。神の前に、ずるずると……。
 
そこに神はどのような姿で現れたか。そう、十字架の上の、イエス・キリストがそこにいました。酷い殺され方をしたそのお方が、しかし命のあるものとして、私には輝いて見えました。
 
その後のことは、いまここでは控えることにします。とにかく私は、「あなたはどこにいるのか」という言葉で、神の前に引きずり出されました。
 
私の中には、幾つかの問題意識がありました。数学が好きだった少年は、最初、数学が世界を解明する、と思い込んでいたのですが、あるとき「哲学」がそういう問題を扱うことを知りました。哲学には、「人間はどこから来てどこへ行くのか」という問いもあります。それは、あのポール・ゴーギャンの作品にもあるとおりです。あの有名な作品の名は、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というものでした。
 
ゴーギャンの作品を遡ること百年前に、哲学者イマヌエル・カントが、哲学の関心は4つの問いにあることをはっきりと立てていました。すなわち「私は何を知りうるか」「私は何を為しうるか」「私は何を望みうるか」という問いであり、それらは究極的に「人間とは何か」に終結するものである、というのです。
 
カントは明確に「私は」と言っていました。しかしあのときまでの私は、「私は」という当事者意識を欠いていました。「私はどこにいるのか」と問わねばならないことを、「あなたはどこにいるのか」という神の問いが、私に教えてくれました。
 
私の神との出会いについては、これはまだ3分の1くらいです。ここは私のことをお伝えする場ではありませんので、一旦この関連の部分だけを触れたことに留めます。
 
◆判決
 
「どこにいるのか」と、神が人に問うた場面に戻りましょう。2人はこれに対して、ずいぶんな言い訳を並べます。見るとこちらの胸が痛くなるのですが、そのままに振り返りましょう。
 
10:彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」
11:神は言われた。「裸であることを誰があなたに告げたのか。取って食べてはいけないと命じておいた木から食べたのか。」
 
「どこにいるのか」という神からの問いに対して、「身を隠した」と答えたアダム。このとき、まだ木の陰にいたのか、そこから出て神の前に立っていたのか、それは定かではありません。しかし思わず口から出た言葉を、神は聞き逃しはしませんでした。「裸」で「怖くなった」から「身を隠した」という理由でしたが、その「裸」とはどういうことか。「裸」を「怖い」というならば、そこには善悪の判断が入っているということになりましょうか。つまり、禁断の木の実を食べたのか。食べたかどうか神が知らずして訊いているようには思えないのですが、だとすれば、アダムの自覚を促しているということなのでしょうか。
 
12:人は答えた。「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです。」
13:神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」
 
アダムの自己認識は、「妻からもらって食べただけだ」というふうに聞こえました。しかも、「あなたが私と共にいるようにと与えてくださった妻」という、ちょっとふてぶてしいような言い訳を加えています。妻からもらっただけですよ。その妻は、神よ、あなたがくださったのですよね。まるで、神に責任があるかのような言い草に聞こえます。
 
13:神である主は女に言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたのです。それで私は食べたのです。」
 
神はアダムの言い分を聞いただけでした。アダムを攻撃せず、女の言い分も聞きます。言いたいことを言わせる寸法です。それはまるで、アダムに木の実を食べさせるなど、「何ということをしたのか」と言いたげにも聞こえます。女は、蛇のせいにしました。自分は蛇に騙されただけだ。蛇が悪いのだ。そのようにも聞こえます。
 
神は、2人の言い分を真に受けたかのように、次は蛇に向けて尋ね――ません。蛇の言い分は聞きません。蛇へはただ、断罪するのです。
 
14:神である主は、蛇に向かって言われた。/「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/最も呪われる。/お前は這いずり回り/生涯にわたって塵を食べることになる。
15:お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に/私は敵意を置く。/彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
 
蛇はサタンだから、言い分も何もないのでしょうか。人間には自由意志があるから、その意志を確認したのでしょうか。様々な憶測が流れます。しかしとにかく、蛇に対する態度は、人間に対するそれとは違いました。
 
◆道と真理
 
創世記の記事は、これこれこういう意味である。そのように私はお話はしませんでした。私には分からないからです。可能性を示唆することはできても、断定はできません。お読みになる方が、一人ひとり、神と向き合って、神からの呼びかけとして受け止めて、胸に温めるべきだと思います。
 
あなたは、自分が神の前に立っている、という風景を見たでしょうか。今日初めて、そのような景色の中にいる自分を意識したのだとしたら、それを私は喜ばしく思います。もちろん、すでにそのようなことを経験してきたからこそ、今日の自分がいるのだ、という信仰の方々、全く同調致します。それでこそ、キリスト者なのだと思います。
 
私は、この創世記の中に、自分がいることに気づかされました。ひとは、神の前にいるのだ、と知りました。もしひとが、神に目を向けることがなかったとしても、神は私を見ているのだ、と教えられました。そして神は、「あなたはどこにいるのか」という問いを向けている場面に出合いました。あなたも、そのような問いかけを受けています。受け止めて戴きたいと願います。
 
私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)
 
イエスの言葉です。イエスが「道」でした。神とつながるための、唯一の「道」なのでした。イエスは「真理」でした。それは真実であることを含み、単に「本当」というだけの意味ではありませんでした。生き方も死に方も、実践をすべて含む形で、イエスというお方は「真理」なのでした。イエスは「命」でした。私の罪を帳消しにするために、私の死を代わって実行してくださり、復活によって永遠の命を与えたのでした。
 
私は生かされて、真理の言葉を語るべく、いまここにいます。
 
あなたは、適格な者、恥じることのない働き手、真理の言葉をまっすぐに語る者として、自分を神に献げるよう努めなさい。(テモテ二2:15)
 
最後に、私の中から生まれた、救いの証しの賛美の歌詞をお届け致します。
 
    道・真理・いのち
  
  誰の力を借りることもなく
  誰の助けも無駄だと思ってた
  
  人はどこから来て どこへ向かうの
  わたしはどこに 今いるの
  
  道を見失った わたしの灯火に
  イエスはなってくれた 真理として
  
  
  風がいつしか消えてゆくように
  やがてわたしもいなくなるのだろう
  
  人が時の中で 滅びを見ても
  時を超えゆく この望み
  
  いのちの行く先に 怯えるわたしだった
  イエスのよみがえりを 信じるまで
  
  
  愛を知らなかった わたしの心にも
  今満ち足りている イエスの言葉



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